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Echo 03 『 滴る吐息 』

サントラ イメージソングはこちらからどうぞ

https://open.spotify.com/playlist/6bFZdpvxKZC0kdREsooTmc?si=a1feec7479d64356


対応番号 : 5 / 6



「……ねぇ」


 窓の外では、叩(たた)きつけるような大雨が世界を白く煙(くゆ)らせている。ガラスを打つ雨粒(あまつぶ)の振動(しんどう)が、古い家の柱を細(こま)かく震(ふる)わせていた。


 ここ最近、ある意味では由依(ゆい)と上手くやれていると思う。相変(あいか)わらず「女を口説(くど)くような真似(まね)はしないでよね」などと釘(くぎ)を刺される日々だ。


 俺ってそんなに女たらしなのだろうか。


 学校では転入生という身分もあって、好奇心(こうきしん)の目に晒(さら)されることが多い。

「甘奈(あまな)と付き合ってるって本当か!?」なんて詰(つ)め寄られることもあるが、俺は教えられた通り「幼馴染(おさななじみ)で、ずっと昔から付き合ってたよ」と返すしかない。


 そんな俺を見て、同級生どもは「くぅ~勝ち組かぁ……羨(うらや)ましいなぁ」なんて零(こぼ)す。だが、その言葉はどこか薄い膜越(まくご)しに聞こえていた。笑い声が耳に届くたび、自分だけが別の場所に立っているような感覚が残る。


 一匹狼の俺の周囲には、幼馴染(おさななじみ)の甘奈(あまな)と由依(ゆい)、生徒会長の晶子(しょうこ)。そして……。


「ねぇってば、聞こえてるの?」


 そう、この家族の「妹」である未夏(みか)も、この学校に通うことになった。父親の長期不在に伴い、パパっ子の彼女が転校手続きを経てこちらへやってきたのだ。


「あぁ、悪い。考え事してた」

 ぼやきながら、俺はリビングのソファに深く腰(こし)を沈めた。


 今日はゴールデンウィークの真(ま)っ只中(ただなか)だが、外はあいにくの土砂降(どしゃぶ)りだ。RIME(ライム)で連絡を取り合っているが、甘奈(あまな)は家事に追われ、由依(ゆい)はバイトで忙しいらしい。


 二人の家庭は、聞けばひとり親だという。母を亡くし、甘奈(あまな)が亡き母の代わりに酒浸(さけびた)りの父親を甲斐甲斐(かいがい)しく世話しているのだと、以前由依(ゆい)が愚痴(ぐち)を言っていた。


 かつて由依(ゆい)が吐き捨てるように言った言葉を思い出す。


「お姉ちゃんは、酔(よ)って泣き言を言う父親をずっと支えてるの。お姉ちゃんが疲れてぐったりしてるところなんて見たことないよ。……だから、あんたみたいな『世話の焼ける男』を見ると、お姉ちゃんが苦労する姿が重なってイライラするの」


 俺は手元のリモコンをそっと置いた。

 画面の中で大声を出す芸人の姿が歪み、由依(ゆい)の頑(かたく)なな横顔が脳裏(のうり)に重なった。彼女が向けてくるあの冷ややかな視線の鋭(するど)さが、どこか腑(ふ)に落ちる。俺の後ろに、彼女は別の誰かを重ねていたのだろう。


 俺はリビングの机にあるリモコンを弄(いじ)り、特に見るわけでもない番組をザッピングする。


 湿気を吸った畳(たたみ)と古い木材の匂(にお)い。雨に冷(ひ)やされた空気が、裸足(はだし)の足裏(あしうら)からじわりと体温を奪(うば)っていく。テレビの中では芸人が大げさに笑っていたが、その甲高(かんだか)い声だけが妙(みょう)に空間から浮いていた。


 傍目(はため)から見れば、ただ暇(ひま)を持て余(あま)している高校生にしか見えないだろう。未夏(みか)は何度もあくびを噛(か)みころし、ソファに寝そべったまま爪先(つまさき)でクッションをトントンと不規則(ふきそく)に叩(たた)いていた。


「はぁ~あ、何か楽しいことないかなぁ」


 都会の喧騒(けんそう)を知る彼女の目に、窓の外の静寂(せいじゃく)はどう映(うつ)っているのだろうか。学校の授業こそDX化されているが、生活の根幹(こんかん)まではデジタルに染まりきっていない。


 窓の向こうには、霧(きり)に煙(くゆ)る深い森が広がっている。重く濡(ぬ)れたシダレヤナギの枝が、風に揺れるたびに水滴(すいてき)を落としていた。空は低く、世界全体が湿(しめ)った布で覆(おお)われているみたいだった。


 この辺りでは「精霊(せいれい)」デバイスも電波状況が悪く、応答速度が目に見えて落ちる。結局、調べ物や勉強以外では、自分の手足で動いたほうが早いような環境だ。


 未夏(みか)の友達の話では、都会では「精霊(せいれい)」なしでは決済(けっさい)も手続きもできない「完全依存社会」らしい。脱獄(だつごく)プログラムを組んで「精霊(せいれい)」を強制オフにし、不法な仕事に手を染めて退学になった生徒もいるという。


 そんな歪(ゆが)んだ「最先端」の噂を聞くたび、俺は深く息を吐き出し、窓の外の静かな景色(けしき)を眺めては小さく胸をなでおろした。


「そういえば未夏(みか)、GW(ゴールデンウィーク)の課題は?」


「あれ? もう終わったよ」

 腕のデバイスでネットサーフィンをしていた未夏(みか)が、画面越(がめんご)しにこっちを覗(のぞ)き込(こ)んできた。


「嘘(うそ)つけ、まだ休みが始まったばかりだぞ」


 未夏(みか)は片方の口角(こうかく)を上げてにやりと笑い、また視線をデバイスに戻した。


「……一体、どんな裏技(ウラワザ)を使ったんだ?」


 一応聞いてみると、彼女は「当ててみてよ」と小悪魔的(こあくまてき)な笑(え)みを浮(う)かべるだけで教えてくれない。


「先生を買収(ばいしゅう)でもしたのか?」


「まさかぁ」

 クスクスと笑う妹。デバイスの監視(かんし)がある以上、不正は即座に検知されるはずだ。


「それとも、この『精霊(せいれい)』自体にすべてを任せたのか?」


 彼女は椅子(いす)の背(せ)もたれに体重を預(あず)け、ぷいっと顔を横に背(そむ)けた。


 離(はな)れ離(ばな)れに暮らしていた俺たちは、実質的(じっしつてき)には初対面(しょたいめん)に近い。それでも、こうして雨音(あまおと)を聞きながら過ごす時間は、お互いの呼吸の音さえ気にならず、ただ背中に伝わる毛布(もうふ)の温(ぬく)もりを静かに受け入れていた。


 だが思考を巡(めぐ)らせるうちに、俺は一つ、致命的(ちめいてき)な違和感(いわかん)を見落としていたことに気が付いた。

「……そういえば、GW(ゴールデンウィーク)の直前に転校手続きをしたんだったな」


 俺の言葉に、未夏(みか)はネットサーフィンをしていた視線を、微(かす)かにこちらへ流した。


「転校前の学校でGW(ゴールデンウィーク)の宿題を事前にやって提出したから、今手元にないって言ったんだよね」

 彼女は平然(へいぜん)と言い放った。


 DX化の隙間(すきま)を突き、管轄(かんかつ)の違いを利用して「免除(めんじょ)」を勝ち取るその手腕(しゅわん)。

 俺は思わずため息を漏らし、彼女のすました横顔から視線を外せなくなった。未夏(みか)は肩をすくめ、いかにも「作り物」と分かるような笑(え)みを浮(う)かべて見せた。


「そろそろシャワーを浴(あ)びるか...」

 俺は着替(きが)えを準備し、素(す)っ裸(ぱだか)になって蛇口(じゃぐち)をひねる。


 氷みたいに冷えた水が肩を打つ。

 思わず息が漏(も)れた。だが、水を身体にかける度に、肺(はい)に刺(さ)すような痛みがチクリと走った。火照(ほて)った頭の奥が、少しずつ静かになっていく。


「お風呂沸(わ)かしておいたから、適当(てきとう)に入って」


 ネットサーフィンしている未夏(みか)にそう告げ、俺はタオルを首にかけたまま、上半身裸(はだか)で机(つくえ)に突(つ)っ伏(ぷ)した。降(ふ)り続く雨音(あまおと)を子守唄(こもりうた)に、深い眠りへと落ちていった。



 ———



 数時間が経(た)っただろうか。


 まぶたの裏(うら)を焼くような、橙色(だいだいいろ)の光で目を開ける。机(つくえ)に突(つ)っ伏(ぷ)していた頬(ほほ)がじっとり汗(あせ)ばんでいた。


 あれほど激(はげ)しかった雨は止み、窓の外には洗い流されたような群青色(ぐんじょういろ)の空が広がっている。湿(しめ)った空気の中にだけ、5月とは思えない初夏(しょか)のような熱気が残っていた。


 微(かす)かな頭痛(ずつう)と眩暈(めまい)を感じながら、薄暗(うすぐら)い台所に目を向けると、未夏(みか)が同じように机に突っ伏して眠っていた。薄暗(うすぐら)い静寂(せいじゃく)が、粘(ねば)り気のある重さで部屋を満たしている。


 少し悪戯(いたづら)でもしてやろうか——そんな軽い思考は、彼女の顔を覗(のぞ)き込んだ瞬間に音を立てて凍(こお)りついた。


「えっ……と……未夏(みか)?」


 応(こた)えはない。

 彼女は、泣きながら眠っていた。


 長い睫毛(まつげ)の先に雫(しずく)が溜(た)まり、頬(ほほ)を細(ほそ)く濡(ぬ)らしている。熱を持った吐息(といき)が、規則的に机(つくえ)へ落ちていた。


 足元に、冷たい感触(かんしょく)が触れた。


「これは……?」


 裸足(はだし)の裏に広がる水気(みずけ)。

 涙(なみだ)にしては多すぎる。雨漏(あまも)りにしては妙(みょう)に冷たい。


 まるで、水だけ温度が違うみたいだった。

 その違和感を確かめる前に、未夏(みか)が寝(ね)ぼけ眼(め)をこすりながら身を動かした。


「んあぁ……おはよ、お兄ちゃん……」


「……今は夕方だよ」


「どっちでもいいじゃん」


 気(け)だるげな彼女の額(ひたい)に手を当てようとする。驚くほどの熱気が伝わってきた。

「少し熱が出てないか?」


 手のひらを額(ひたい)に当てた次の瞬間、まるで煮(に)え滾(たぎ)る泥(どろ)に触れたかのような錯覚(さっかく)に襲(おそ)われた。


 びくりと手が跳(は)ね上がる。


 肌の奥で、何か悍(おぞ)ましいモノがのたうち回っているかのような異常な熱量。

 対照的に、俺の服を掴(つか)む彼女の指先は、墓石(ぼせき)のように冷(ひ)え切(き)っていた。その歪(いびつ)な温度差が、背筋(せすじ)に冷たい刃(やいば)を突(つ)き立てられたかのような、底知(そこし)れない戦慄(せんりつ)となって脳髄(のうずい)を駆(か)け抜(ぬ)けた。


 俺は素早(すばや)く布団を敷き、力なく横たわる彼女を背負って部屋へと運んだ。背中に伝わる彼女の熱と、規則正しいがどこか危うい心臓の鼓動(こどう)。


 手慣れない手つきでお粥(かゆ)を用意し、スプーンを口元へ運ぶが、未夏(みか)は頑(かたく)なに口を閉ざしたままだ。


「お粥(かゆ)じゃ嫌だったか? じゃあリンゴを擦(す)ってきてやるから」

 立ち去ろうとした俺の腕を、彼女の手が強く引き止めた。


「行かないで」


 弱々しい声。だが、その腕には、決して離すまいという確固(かっこ)たる意志が宿(やど)っている。彼女は布団の横をポンポンと叩き、隣(となり)に来るよう合図した。


「……お粥(かゆ)、ダメだったか?」


 未夏(みか)は首を振り、震(ふる)える声で、しかしはっきりと、俺の理性を揺(ゆ)さぶる言葉を口にした。


「口移(くちうつ)しで食べさせてほしい」


 その言葉に、喉(のど)が小さく鳴った。部屋の空気が急に重くなる。雨上がり特有の湿気(しっけ)が肌に貼り付き、逃げ場のない熱気が肺(はい)の奥へ沈んでいく。


 一瞬、自分の耳を疑(うたが)った。

 何を言っているんだ。


 いくら長年離れて暮らしていた期間があるとはいえ、未夏(みか)は俺の妹だ。家族に対してそんな一線を越えるような真似(まね)、倫理的(りんりてき)にも常識的(じょうしきてき)にも許されるはずがない。


「……っ、未夏(みか)、お前熱でどうにかなってるんじゃないか!?」

 俺は辛(かろ)うじて残った理性を振(ふ)り絞(しぼ)って声を出す。


 だが、その言葉は最後まで続かなかった。


 視界に映る未夏(みか)の姿が、あまりにも痛々しく、そして脆(もろ)そうに見えたからだ。普段の小悪魔(こあくま)めいた不敵(ふてき)な笑(え)みはどこにもない。真(ま)っ赤(か)に火照(ほて)った頬(ほほ)、苦しげに震(ふる)える唇(くちびる)、そして涙(なみだ)の跡(あと)が残る睫毛(まつげ)の奥で、ただ俺だけを必死に求めている、壊れ物のような瞳(ひとみ)。


 突き放そうとした指先が、凍(こお)りついたように止まる。

 もし今、この手を振(ふ)り払(はら)えば――脳裏(のうり)を過(よぎ)ったのは、暗黒の深海で一人、肉体をバラバラに引(ひ)き裂(さ)かれながら消えていく未夏(みか)の幻影(げんえい)だった。


 心臓が、肋骨(ろっこつ)を叩(たた)き割(わ)らんばかりに不吉なビートを刻(きざ)む。冷(ひ)や汗が首筋(くびすじ)を伝(つた)い、どろりとした焦燥(しょうそう)が喉(のど)を締(し)め上げた。


 ドクン、と心臓がうるさく脈打(みゃくう)つ。


 倫理的(りんりてき)なタブーを警告(けいこく)する脳内(のうない)のアラームは、彼女の放つ圧倒的(あっとうてき)な熱気によって、じわじわと焼き切られていく。駄目(だめ)だ、冷静になれ。そう念(ねん)じるほどに、逃げ場のない部屋の湿気(しっけ)が俺の思考を白く混濁(こんだく)させていった。


 正常な判断力なんて、最初から残っていなかったのかもしれない。

 熱に浮(う)かされているのは、未夏(みか)だけではなく、俺も同じだった。


 妹という境界線が、どろどろと溶(と)けて曖昧(あいまい)になっていく。抗(あらが)うための正論すら頭から消え失(う)せ、俺の理性は、彼女の放つ引力に抗うことなく流されていった。高熱にうなされ、縋(すが)るような瞳(ひとみ)で俺を見る彼女を前に、拒絶する選択肢はなかった。


 俺は意を決して、粥(かゆ)を口に含み、彼女の顔へと近づいた。指先で彼女の顎(あご)をそっと持ち上げ、唇(くちびる)が触(ふ)れた瞬間、未夏(みか)の肩がびくりと震(ふる)えた。


 熱い。


 想像以上に熱かった。

 柔(やわ)らかい感触より先に、熱だけが神経へ流れ込んでくる。


 絡(から)みつく舌の感触。

 浅く混(ま)ざる呼吸。

 湿(しめ)った音だけが、静かな部屋にやけにはっきり響(ひび)いていた。


 彼女の腕が背中へ回る。

 熱に浮(う)かされた身体が、離れることを拒(こば)むみたいに強く縋(すが)りついてくる。しばらく続いたその往復の後、彼女の瞳(ひとみ)に恍惚(こうこつ)とした熱気が宿(やど)ったのを見たとき、俺の理性は消失しかけていた。


「ただいま~」


 階下(かいか)から聞こえた母の声に、心臓が跳(は)ね上がった。俺と未夏(みか)、二人の間に凍(こお)り付くような緊張が走る。


「……また様子見に来るからな」

 俺は妹の頭を優しく撫(な)で、おでこをくっつけて、そう約束した。逃げるように部屋を後にし、母を手伝いに降(お)りていった。




 ———


 ——— 未夏(みか)視点




「あーあ、やっちゃったんだ……私」


 兄が去った後、私は天井(てんじょう)を見上げていた。


 まだ唇(くちびる)に熱が残っている。触(ふ)れられた場所だけが、自分の身体ではないみたいに痺(しび)れていた。


 自分でも引くほど大胆(だいたん)なことをした自覚はある。佐野(さの) 甘奈(あまな)という「正解(ヒロイン)」がいることを知りながら、私は兄が寝ている傍(かたわ)らで、叶(かな)うはずのない恋に独(ひと)り、濡(ぬ)れている場所を触(さわ)り耽(ふけ)っていた。


 奥歯を噛(か)み締(し)め、爪が手のひらに食い込むほど拳(こぶし)を握(にぎ)りしめた。情の移った己(おのれ)の顔が、鏡を見るまでもなく歪(ゆが)んでいるのが分かる。


 でも、もし「家族」という鎖(くさり)がなければ。お兄ちゃんと私が、ただの他人として出会っていたなら。そんな仮定に逃げ込んでしまうのは、あの日、父の泣き顔を見てしまったからかもしれない。


 私を理由もなく殴(なぐ)り、その直後に情けなく泣き崩(くず)れた父親。


「俺は、父親失格だ」


 私は心の中でそんなことないと思った。扉越(とびらご)しに聞こえたその声に、私は絶望ではなく、歪(ゆが)んだ同情を覚えてしまった。

 何不自由なく学生生活を送れてお金でも困らなかったし、私のわがままは何でも聞いてくれた優しいお父さんだ。


 父親の身に何が起きたのか全部分かるわけではない。でも少なくとも苦しむ姿を見るのが嫌で、家族だから助けてあげなきゃと私なりに学校でもいい成績(せいせき)を出して親に心配かけないように家事(かじ)も完璧(かんぺき)にこなしてみせた。


 そんな姿を見てお父さんは「困ったらちゃんと言いなよ」と言いながらお金を渡(わた)してくれていた。


 別に困っているわけじゃない。でも少しの足しになればと合間(あいま)を縫(ぬ)ってバイトしたりとかして、友達と遊ぶ時間が減っていたのを見かねて多分渡(わた)してくれたんだと思う。


 でも他人はあくまで他人。無条件で助けてくれるわけじゃない。

 善意(ぜんい)で近寄ってくる男たちをたくさん見てきた。ただそれが私にとって重要じゃないように感じてしまって、どこかで敬遠(けいえん)してきたのもあると思う。


 でも父親が長期出張(しゅっちょう)で家に帰らなくなって寂しくなるのを父親なりに考えたのだろう。田舎にある実家通いで明雲(めいうん)高校に転校してみたらどうかと。


 私は最初は断った。

 お父さんのご飯(はん)は私が作ってきたんだよ。私がいなくなったら健康はどうするの?心配する私をよそ目に、父は重(かさ)ねてこう言った。


「お前には1つ上のお兄さんがいる。でも記憶障害(きおくしょうがい)で苦労しているみたいなんだ。お父さんのことなら金があるから心配ない。」


 スマートフォンの画面を持つ手が、ぴたりと止まった。思考が一瞬、白い空白に染まる。


 確かに小さい頃、私には兄がいたけれどほとんど喋(しゃべ)らなかった。父親に付いて行ったのもかなり小さい頃だ。私が駄々(だだ)こねたものだから、仕方(しかた)なさそうに「じゃあお父さんと一緒に付いてくるか?」と聞かれた時は、ふたつ返事だった。


 だからここまで育ててくれた父親には凄(すご)く感謝している。


 父の背中を思い浮かべ、私は深く、静かに頭を下げた。

 胸の奥が、温(あたた)かい何かで満たされていく。

「家族なんだから」――自分自身にそう言い聞かせ、小さく頷(うなづ)いた。


 そして転校してから数日、兄を見つけ出した時、私の体は硬直(こうちょく)した。


 目の前に立つ彼の瞳(ひとみ)を見た瞬間、息が詰まる。

 そこに広がっていたのは、底無しの暗い沼(ぬま)。


 すべてを諦(あきら)めたような昏(くら)い光に当てられ、私の胸は万力(まんりき)で締(し)め付けられるように激(はげ)しく脈打ち、呼吸が浅く、速くなっていった。

 お父さんのようなまなざしで、まっすぐな瞳(ひとみ)で、穢(けが)れを知らない純粋(じゅんすい)な眼(め)。


 どうして神様は、あんな人を不幸のどん底に突き落としたのだろう。彼の瞳(ひとみ)は、ひどく綺麗(きれい)だった。


 だからこそ危(あや)うかった。


 雨上(あめあ)がりのガラスみたいに、少し触れれば壊(こわ)れてしまいそうなくらいに。それなら家族の私が支えなきゃいけない。私はいけない領域(りょういき)に踏(ふ)み込(こ)もうとしていた。


「たとえ世界が嘘(うそ)で塗(ぬ)り固められていたとしても、家族ってことは唯一無二の絶対なのだから」


 私がしようとしていることは傲慢(ごうまん)かもしれないけれど、それが私にとっての唯一(ゆいいつ)運命に対する反抗なのだから。家族という名の檻(おり)の中で、私はこの愛を貫(つらぬ)く。


「私の愛で、癒(いや)されますように」

 私は自分の右手を左手で包み込み、祈(いの)るように顔を埋めた。


 夕闇(ゆうやみ)が忍び寄る部屋で、私の熱だけがいつまでも冷めずに残っていた。窓の外で濡(ぬ)れたシダレヤナギの静かに揺(ゆ)れる音が眠気を誘(さそ)う。


挿絵(By みてみん)

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