Echo 03 『 滴る吐息 』
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対応番号 : 5 / 6
「……ねぇ」
窓の外では、叩きつけるような大雨が世界を白く煙らせている。ガラスを打つ雨粒の振動が、古い家の柱を細かく震わせていた。
ここ最近、ある意味では由依と上手くやれていると思う。相変わらず「女を口説くような真似はしないでよね」などと釘を刺される日々だ。
俺ってそんなに女たらしなのだろうか。
学校では転入生という身分もあって、好奇心の目に晒されることが多い。
「甘奈と付き合ってるって本当か!?」なんて詰め寄られることもあるが、俺は教えられた通り「幼馴染で、ずっと昔から付き合ってたよ」と返すしかない。
そんな俺を見て、同級生どもは「くぅ~勝ち組かぁ……羨ましいなぁ」なんて零す。だが、その言葉はどこか薄い膜越しに聞こえていた。笑い声が耳に届くたび、自分だけが別の場所に立っているような感覚が残る。
一匹狼の俺の周囲には、幼馴染の甘奈と由依、生徒会長の晶子。そして……。
「ねぇってば、聞こえてるの?」
そう、この家族の「妹」である未夏も、この学校に通うことになった。父親の長期不在に伴い、パパっ子の彼女が転校手続きを経てこちらへやってきたのだ。
「あぁ、悪い。考え事してた」
ぼやきながら、俺はリビングのソファに深く腰を沈めた。
今日はゴールデンウィークの真っ只中だが、外はあいにくの土砂降りだ。RIMEで連絡を取り合っているが、甘奈は家事に追われ、由依はバイトで忙しいらしい。
二人の家庭は、聞けばひとり親だという。母を亡くし、甘奈が亡き母の代わりに酒浸りの父親を甲斐甲斐しく世話しているのだと、以前由依が愚痴を言っていた。
かつて由依が吐き捨てるように言った言葉を思い出す。
「お姉ちゃんは、酔って泣き言を言う父親をずっと支えてるの。お姉ちゃんが疲れてぐったりしてるところなんて見たことないよ。……だから、あんたみたいな『世話の焼ける男』を見ると、お姉ちゃんが苦労する姿が重なってイライラするの」
俺は手元のリモコンをそっと置いた。
画面の中で大声を出す芸人の姿が歪み、由依の頑なな横顔が脳裏に重なった。彼女が向けてくるあの冷ややかな視線の鋭さが、どこか腑に落ちる。俺の後ろに、彼女は別の誰かを重ねていたのだろう。
俺はリビングの机にあるリモコンを弄り、特に見るわけでもない番組をザッピングする。
湿気を吸った畳と古い木材の匂い。雨に冷やされた空気が、裸足の足裏からじわりと体温を奪っていく。テレビの中では芸人が大げさに笑っていたが、その甲高い声だけが妙に空間から浮いていた。
傍目から見れば、ただ暇を持て余している高校生にしか見えないだろう。未夏は何度もあくびを噛みころし、ソファに寝そべったまま爪先でクッションをトントンと不規則に叩いていた。
「はぁ~あ、何か楽しいことないかなぁ」
都会の喧騒を知る彼女の目に、窓の外の静寂はどう映っているのだろうか。学校の授業こそDX化されているが、生活の根幹まではデジタルに染まりきっていない。
窓の向こうには、霧に煙る深い森が広がっている。重く濡れたシダレヤナギの枝が、風に揺れるたびに水滴を落としていた。空は低く、世界全体が湿った布で覆われているみたいだった。
この辺りでは「精霊」デバイスも電波状況が悪く、応答速度が目に見えて落ちる。結局、調べ物や勉強以外では、自分の手足で動いたほうが早いような環境だ。
未夏の友達の話では、都会では「精霊」なしでは決済も手続きもできない「完全依存社会」らしい。脱獄プログラムを組んで「精霊」を強制オフにし、不法な仕事に手を染めて退学になった生徒もいるという。
そんな歪んだ「最先端」の噂を聞くたび、俺は深く息を吐き出し、窓の外の静かな景色を眺めては小さく胸をなでおろした。
「そういえば未夏、GWの課題は?」
「あれ? もう終わったよ」
腕のデバイスでネットサーフィンをしていた未夏が、画面越しにこっちを覗き込んできた。
「嘘つけ、まだ休みが始まったばかりだぞ」
未夏は片方の口角を上げてにやりと笑い、また視線をデバイスに戻した。
「……一体、どんな裏技を使ったんだ?」
一応聞いてみると、彼女は「当ててみてよ」と小悪魔的な笑みを浮かべるだけで教えてくれない。
「先生を買収でもしたのか?」
「まさかぁ」
クスクスと笑う妹。デバイスの監視がある以上、不正は即座に検知されるはずだ。
「それとも、この『精霊』自体にすべてを任せたのか?」
彼女は椅子の背もたれに体重を預け、ぷいっと顔を横に背けた。
離れ離れに暮らしていた俺たちは、実質的には初対面に近い。それでも、こうして雨音を聞きながら過ごす時間は、お互いの呼吸の音さえ気にならず、ただ背中に伝わる毛布の温もりを静かに受け入れていた。
だが思考を巡らせるうちに、俺は一つ、致命的な違和感を見落としていたことに気が付いた。
「……そういえば、GWの直前に転校手続きをしたんだったな」
俺の言葉に、未夏はネットサーフィンをしていた視線を、微かにこちらへ流した。
「転校前の学校でGWの宿題を事前にやって提出したから、今手元にないって言ったんだよね」
彼女は平然と言い放った。
DX化の隙間を突き、管轄の違いを利用して「免除」を勝ち取るその手腕。
俺は思わずため息を漏らし、彼女のすました横顔から視線を外せなくなった。未夏は肩をすくめ、いかにも「作り物」と分かるような笑みを浮かべて見せた。
「そろそろシャワーを浴びるか...」
俺は着替えを準備し、素っ裸になって蛇口をひねる。
氷みたいに冷えた水が肩を打つ。
思わず息が漏れた。だが、水を身体にかける度に、肺に刺すような痛みがチクリと走った。火照った頭の奥が、少しずつ静かになっていく。
「お風呂沸かしておいたから、適当に入って」
ネットサーフィンしている未夏にそう告げ、俺はタオルを首にかけたまま、上半身裸で机に突っ伏した。降り続く雨音を子守唄に、深い眠りへと落ちていった。
———
数時間が経っただろうか。
まぶたの裏を焼くような、橙色の光で目を開ける。机に突っ伏していた頬がじっとり汗ばんでいた。
あれほど激しかった雨は止み、窓の外には洗い流されたような群青色の空が広がっている。湿った空気の中にだけ、5月とは思えない初夏のような熱気が残っていた。
微かな頭痛と眩暈を感じながら、薄暗い台所に目を向けると、未夏が同じように机に突っ伏して眠っていた。薄暗い静寂が、粘り気のある重さで部屋を満たしている。
少し悪戯でもしてやろうか——そんな軽い思考は、彼女の顔を覗き込んだ瞬間に音を立てて凍りついた。
「えっ……と……未夏?」
応えはない。
彼女は、泣きながら眠っていた。
長い睫毛の先に雫が溜まり、頬を細く濡らしている。熱を持った吐息が、規則的に机へ落ちていた。
足元に、冷たい感触が触れた。
「これは……?」
裸足の裏に広がる水気。
涙にしては多すぎる。雨漏りにしては妙に冷たい。
まるで、水だけ温度が違うみたいだった。
その違和感を確かめる前に、未夏が寝ぼけ眼をこすりながら身を動かした。
「んあぁ……おはよ、お兄ちゃん……」
「……今は夕方だよ」
「どっちでもいいじゃん」
気だるげな彼女の額に手を当てようとする。驚くほどの熱気が伝わってきた。
「少し熱が出てないか?」
手のひらを額に当てた次の瞬間、まるで煮え滾る泥に触れたかのような錯覚に襲われた。
びくりと手が跳ね上がる。
肌の奥で、何か悍ましいモノがのたうち回っているかのような異常な熱量。
対照的に、俺の服を掴む彼女の指先は、墓石のように冷え切っていた。その歪な温度差が、背筋に冷たい刃を突き立てられたかのような、底知れない戦慄となって脳髄を駆け抜けた。
俺は素早く布団を敷き、力なく横たわる彼女を背負って部屋へと運んだ。背中に伝わる彼女の熱と、規則正しいがどこか危うい心臓の鼓動。
手慣れない手つきでお粥を用意し、スプーンを口元へ運ぶが、未夏は頑なに口を閉ざしたままだ。
「お粥じゃ嫌だったか? じゃあリンゴを擦ってきてやるから」
立ち去ろうとした俺の腕を、彼女の手が強く引き止めた。
「行かないで」
弱々しい声。だが、その腕には、決して離すまいという確固たる意志が宿っている。彼女は布団の横をポンポンと叩き、隣に来るよう合図した。
「……お粥、ダメだったか?」
未夏は首を振り、震える声で、しかしはっきりと、俺の理性を揺さぶる言葉を口にした。
「口移しで食べさせてほしい」
その言葉に、喉が小さく鳴った。部屋の空気が急に重くなる。雨上がり特有の湿気が肌に貼り付き、逃げ場のない熱気が肺の奥へ沈んでいく。
一瞬、自分の耳を疑った。
何を言っているんだ。
いくら長年離れて暮らしていた期間があるとはいえ、未夏は俺の妹だ。家族に対してそんな一線を越えるような真似、倫理的にも常識的にも許されるはずがない。
「……っ、未夏、お前熱でどうにかなってるんじゃないか!?」
俺は辛うじて残った理性を振り絞って声を出す。
だが、その言葉は最後まで続かなかった。
視界に映る未夏の姿が、あまりにも痛々しく、そして脆そうに見えたからだ。普段の小悪魔めいた不敵な笑みはどこにもない。真っ赤に火照った頬、苦しげに震える唇、そして涙の跡が残る睫毛の奥で、ただ俺だけを必死に求めている、壊れ物のような瞳。
突き放そうとした指先が、凍りついたように止まる。
もし今、この手を振り払えば――脳裏を過ったのは、暗黒の深海で一人、肉体をバラバラに引き裂かれながら消えていく未夏の幻影だった。
心臓が、肋骨を叩き割らんばかりに不吉なビートを刻む。冷や汗が首筋を伝い、どろりとした焦燥が喉を締め上げた。
ドクン、と心臓がうるさく脈打つ。
倫理的なタブーを警告する脳内のアラームは、彼女の放つ圧倒的な熱気によって、じわじわと焼き切られていく。駄目だ、冷静になれ。そう念じるほどに、逃げ場のない部屋の湿気が俺の思考を白く混濁させていった。
正常な判断力なんて、最初から残っていなかったのかもしれない。
熱に浮かされているのは、未夏だけではなく、俺も同じだった。
妹という境界線が、どろどろと溶けて曖昧になっていく。抗うための正論すら頭から消え失せ、俺の理性は、彼女の放つ引力に抗うことなく流されていった。高熱にうなされ、縋るような瞳で俺を見る彼女を前に、拒絶する選択肢はなかった。
俺は意を決して、粥を口に含み、彼女の顔へと近づいた。指先で彼女の顎をそっと持ち上げ、唇が触れた瞬間、未夏の肩がびくりと震えた。
熱い。
想像以上に熱かった。
柔らかい感触より先に、熱だけが神経へ流れ込んでくる。
絡みつく舌の感触。
浅く混ざる呼吸。
湿った音だけが、静かな部屋にやけにはっきり響いていた。
彼女の腕が背中へ回る。
熱に浮かされた身体が、離れることを拒むみたいに強く縋りついてくる。しばらく続いたその往復の後、彼女の瞳に恍惚とした熱気が宿ったのを見たとき、俺の理性は消失しかけていた。
「ただいま~」
階下から聞こえた母の声に、心臓が跳ね上がった。俺と未夏、二人の間に凍り付くような緊張が走る。
「……また様子見に来るからな」
俺は妹の頭を優しく撫で、おでこをくっつけて、そう約束した。逃げるように部屋を後にし、母を手伝いに降りていった。
———
——— 未夏視点
「あーあ、やっちゃったんだ……私」
兄が去った後、私は天井を見上げていた。
まだ唇に熱が残っている。触れられた場所だけが、自分の身体ではないみたいに痺れていた。
自分でも引くほど大胆なことをした自覚はある。佐野 甘奈という「正解」がいることを知りながら、私は兄が寝ている傍らで、叶うはずのない恋に独り、濡れている場所を触り耽っていた。
奥歯を噛み締め、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。情の移った己の顔が、鏡を見るまでもなく歪んでいるのが分かる。
でも、もし「家族」という鎖がなければ。お兄ちゃんと私が、ただの他人として出会っていたなら。そんな仮定に逃げ込んでしまうのは、あの日、父の泣き顔を見てしまったからかもしれない。
私を理由もなく殴り、その直後に情けなく泣き崩れた父親。
「俺は、父親失格だ」
私は心の中でそんなことないと思った。扉越しに聞こえたその声に、私は絶望ではなく、歪んだ同情を覚えてしまった。
何不自由なく学生生活を送れてお金でも困らなかったし、私のわがままは何でも聞いてくれた優しいお父さんだ。
父親の身に何が起きたのか全部分かるわけではない。でも少なくとも苦しむ姿を見るのが嫌で、家族だから助けてあげなきゃと私なりに学校でもいい成績を出して親に心配かけないように家事も完璧にこなしてみせた。
そんな姿を見てお父さんは「困ったらちゃんと言いなよ」と言いながらお金を渡してくれていた。
別に困っているわけじゃない。でも少しの足しになればと合間を縫ってバイトしたりとかして、友達と遊ぶ時間が減っていたのを見かねて多分渡してくれたんだと思う。
でも他人はあくまで他人。無条件で助けてくれるわけじゃない。
善意で近寄ってくる男たちをたくさん見てきた。ただそれが私にとって重要じゃないように感じてしまって、どこかで敬遠してきたのもあると思う。
でも父親が長期出張で家に帰らなくなって寂しくなるのを父親なりに考えたのだろう。田舎にある実家通いで明雲高校に転校してみたらどうかと。
私は最初は断った。
お父さんのご飯は私が作ってきたんだよ。私がいなくなったら健康はどうするの?心配する私をよそ目に、父は重ねてこう言った。
「お前には1つ上のお兄さんがいる。でも記憶障害で苦労しているみたいなんだ。お父さんのことなら金があるから心配ない。」
スマートフォンの画面を持つ手が、ぴたりと止まった。思考が一瞬、白い空白に染まる。
確かに小さい頃、私には兄がいたけれどほとんど喋らなかった。父親に付いて行ったのもかなり小さい頃だ。私が駄々こねたものだから、仕方なさそうに「じゃあお父さんと一緒に付いてくるか?」と聞かれた時は、ふたつ返事だった。
だからここまで育ててくれた父親には凄く感謝している。
父の背中を思い浮かべ、私は深く、静かに頭を下げた。
胸の奥が、温かい何かで満たされていく。
「家族なんだから」――自分自身にそう言い聞かせ、小さく頷いた。
そして転校してから数日、兄を見つけ出した時、私の体は硬直した。
目の前に立つ彼の瞳を見た瞬間、息が詰まる。
そこに広がっていたのは、底無しの暗い沼。
すべてを諦めたような昏い光に当てられ、私の胸は万力で締め付けられるように激しく脈打ち、呼吸が浅く、速くなっていった。
お父さんのようなまなざしで、まっすぐな瞳で、穢れを知らない純粋な眼。
どうして神様は、あんな人を不幸のどん底に突き落としたのだろう。彼の瞳は、ひどく綺麗だった。
だからこそ危うかった。
雨上がりのガラスみたいに、少し触れれば壊れてしまいそうなくらいに。それなら家族の私が支えなきゃいけない。私はいけない領域に踏み込もうとしていた。
「たとえ世界が嘘で塗り固められていたとしても、家族ってことは唯一無二の絶対なのだから」
私がしようとしていることは傲慢かもしれないけれど、それが私にとっての唯一運命に対する反抗なのだから。家族という名の檻の中で、私はこの愛を貫く。
「私の愛で、癒されますように」
私は自分の右手を左手で包み込み、祈るように顔を埋めた。
夕闇が忍び寄る部屋で、私の熱だけがいつまでも冷めずに残っていた。窓の外で濡れたシダレヤナギの静かに揺れる音が眠気を誘う。




