Echo 02 『 潮風の屋上 』
異世界転生ナシ x 学園日常ハーレム x 異能ファンタジーバトル x SF怪異ホラー
平成の黄金期に毒された読者大歓迎
毎日19:00に更新、ラストまで予約投稿しているためご安心ください。
始業式の喧騒は、記憶を失った俺の耳にはどこか遠い場所の出来事みたいに響いていた。
体育館には拍手の音が満ちる。
椅子の脚が不快に床を擦った。
誰かの笑い声が遠くで聞こえる。
天井のスピーカーからは、教師の声が反響していた。
音の洪水の中にいながら、自分の輪郭だけが世界から切り離されて浮き上がっているように錯覚し、ただじっと床の一点を見つめていた。それでも時間は止まらない。
気づけば俺は、二年生からの編入生として、新しいクラスの教壇に立っていた。
教室中の視線が、一斉にこちらへ向く。
窓際から吹き込む春の風がカーテンを揺らし、チョークの粉が白く舞った。
期待。好奇心。観察。
様々な感情が混ざった視線が肌に刺さる。
教壇の端を軽く掴み、ただ名前と前の学校名だけを短く告げて頭を下げた。黒板の文字がやけに白く見える 。
「編入初日で緊張してる? 大丈夫、この学校の生徒はみんな君を歓迎しているわ」
隣の席からかけられた声に、俺は思わず視線を向けた。
背筋の伸びた姿勢。風に揺れる黒髪が美しい。漂うのは、制服の上からでも分かる凛とした空気。彼女は学校の雰囲気を簡単に説明し終えると、小さく微笑み、丁寧に頭を下げた。
「自己紹介が遅れたわね。私は青ノ 晶子。生徒会長をやってるの。あと、明雲神社で巫女として手伝いもしているから、礼儀には少しうるさいかもしれないけれど……。困ったことがあったら、いつでも相談してね。これからよろしく、在原くん」
その瞬間、ふわりと微かな香りが鼻先を掠めた。
石鹸の清潔な匂い。その奥には、古い木造神社のような乾いた木の香りが混じる。さらに仄かに漂う、線香にも似た静かな匂い。まるで夏祭りの早朝みたいな空気だった。
息を一つ、深く吐き出す 。強張っていた肩のラインが、自然と滑らかに落ちていく。窓から差し込む春の陽射しを浴びながら、俺は次の授業の教科書へと指をかけた 。
やがて昼休み。
俺は甘奈がメモに残してくれた場所——屋上へ向かった。階段を上るたび、人気のないコンクリートの空気が少しずつ冷たくなる。
最後の踊り場に辿り着き、重たい鉄扉に手をかけた。
ギィ、と鈍い音。次の瞬間、強い潮風が一気に吹き抜ける。
「……っ」
思わず目を細めた。海の近いこの街の屋上は、まるで別世界だった。
どこまでも高い青空。フェンスの向こうに広がる街並み。
潮の匂いを含んだ風が、肺の奥まで入り込んでくる。教室の熱気が、一瞬で洗い流される感覚。
「だーれだ?」
不意に背後から柔らかい掌で視界を塞がれた。
少しひんやりした指先。だが、その触れ方と、耳元で弾けるような声の調子に、脳の奥が微かに反応した。
「この声は……由依、か?」
「あー、バレた。少しはお姉ちゃんみたいな声で騙せると思ったのに」
パッと視界を塞いでいた手が離れる。振り返ると、頬を膨らませた由依が立っていた。少し遅れて、甘奈が苦笑混じりに歩いてくる。風で髪が揺れていた。
歩み寄ってきた甘奈がたしなめるように言う。
「由依、あまり由記くんを試すような真似はしないの」
由依は腕を組む。
「お姉ちゃんが少しは優しくしろって言うからやっただけ。別にこいつを認めたわけじゃないし」
ツンとそっぽを向く。だがその視線だけは、妙に細かく俺を観察していた。
まるで何かを確認するみたいに。
「その……甘奈。朝の件、ごめんな」
風に掻き消されそうになりながら、俺はなんとか謝罪を口にした。
甘奈はフェンス越しに街並みを眺めたまま、しばらく黙っていた。
遠くで電車の走る音が聞こえる。
やがて彼女は、ゆっくりこちらを振り返った。
「……ホントに、反省した?」
俺は気まずさに小さく頭を掻いた。
「ああ。悪かったよ。由依が突っ込んできて、頭回ってなかったっていうか……」
言い訳じみた言葉を並べた途端、甘奈は俯いたまま消え入りそうな声で呟いた。
「反省の……キス、して」
「っ……」
一瞬、激しい潮風の音だけが耳を叩く。甘奈の首筋までが赤く染まり、指先が強張る。その場から一歩も動けず、ただ縋るように視線を彷徨わせるしかなかった。
由依が二人の顔を交互に見つめた後、わざとらしく両手を広げて横から茶化してくる。
「おやおやぁ? 男のくせに~ここでビビってるわけ?」
「う、うるせぇ!」
「あはは。でも、お姉ちゃんが一途に好きだって言ってるんだから、私は応援するよ? ……あんたのことは嫌いだけど」
「……っ!」
甘奈は顔を真っ赤にしたまま、言葉にならない声を漏らして俯いた。その瞬間、吹き抜けた風が彼女の髪を大きく揺らした。
由依は面白そうに笑いながら、さらに追撃を重ねる。
「ここ最近、お姉ちゃん、あんたのことですっごい寂しがってたんだからね」
「由依っ!!」
「はいはい、お邪魔虫は退散しますよーっと」
軽い足音と共に、由依は屋上から去っていった。
再び静かになる。フェンスが風で微かに軋んでいた。妙に熱を持った沈黙の中、俺は甘奈が作ってくれた弁当箱を開いた。
卵焼きは実に見事な黄色に染まっている。
そこには、まだ少し温かさの残る唐揚げが並ぶ。
丁寧に切り揃えられた野菜が彩りを添えていた。
美味そうだ。
蓋を開けた瞬間、優しい湯気と一緒に甘い出汁の香りが広がった。
その一つ一つから、過剰なくらいの献身が伝わってくる。
「……いただきます」
箸を伸ばす。春の潮風が頬を撫でる中、俺はその味を静かに噛み締めた。
「こんな平穏な日々が続くといいなぁ」
甘奈は目を細め、柔らかい陽射しを受け止めるように微笑んだ。
「そうだな……」
箸を動かす手が自然と緩む。
卵焼きの優しい甘さが喉を通り過ぎるのを確かめるように、俺はゆっくりと咀嚼し、最後の一口を飲み込んだ。
「今日も美味しかった!いつもありがとう」
甘奈の頬が、ほんのりと桜色に染まる 。弾むような手つきで弁当箱を受け取ると、両手でぎゅっと胸元に抱きしめるようにしてから、ゆっくりとカバンに収めた。
「放課後って用事ある?」
首を傾げる甘奈を前に、俺はカバンを肩にかけ直した。
「……ない」
「そっか、じゃあ一緒に帰ろうか」
放課後——
「そういえば、由依はどうしたんだ?」
「あぁ…あの子、いつも遅れたりするから、補習受けたりしてるんだよね…アハハ」
甘奈は困ったように眉をひそめ、世話の焼ける妹に手を焼いているのを苦笑した。
「文武両道とか言うけどさ、俺は勉強だけでいいかな...」
「あらそう? 私、部活してる由記君の姿も見てみたいな」
甘奈の期待の眼差しが、俺の眼に映り込む。
「俺に出来っかなぁ」
「ふふふ……そんなこと言わずに一回だけでもやってみたら?」
甘奈は一歩距離を詰め、悪戯っぽく首を傾げて俺の目をじっと見つめてきた。
春の風に乗って彼女の香りが鼻をくすぐる。いつもこんな毎日が続くのも、案外悪くないものだ。




