Echo 01 『 春の陽光 』
異世界転生ナシ x 学園日常ハーレム x 異能ファンタジーバトル x SF怪異ホラー
平成の黄金期に毒された読者大歓迎
毎日19:00に更新、ラストまで予約投稿しているためご安心ください。
「ゆうき~! 早く起きないと遅刻するわよ!」
耳元で響いた母さんの怒声に、浅い眠りが無理やり引き剥がされた。
重たい瞼を開くと、カーテンの隙間から差し込む朝日が白く滲んでいる。喉が少し乾いていた。
俺の名前は、在原 由記。
事故で記憶を失い、今日から明雲高校の二年生として編入することになっている。
洗面所で顔を洗う。冷たい水が頬を伝い落ちる感触に、ようやく頭が覚醒していく。鏡の横では、小さな光の粒みたいな立体映像が浮かび、今日の天気や登校時間を機械音声で読み上げていた。
この学校ではAIによる最先端の授業が行われ、生徒には「精霊」というパーソナルデバイスが支給されるらしい。便利な時代——なのだろう。だが記憶のない俺には、そのどれもが少し現実感の薄い未来の景色に見えた。
母さんとは似ても似つかない。それでも母さんは、妙なくらい献身的に俺の世話を焼いてくれる。寝癖を軽く整え、玄関の扉を開ける。途端に、春の柔らかな空気が頬を撫でた。
そこには幼馴染の甘奈が立っていた。
朝日に透けた桜の花びらが、彼女の足元でふわりと舞う。
風が吹くたび、細い髪が揺れ、制服のスカートが小さく波打った。
始業式の朝独特の、少し浮ついた空気が通学路に満ちている。
「あ、おはよう」
彼女は俺の姿を見つけると、小さく手を振った。
「待たせちゃってごめん」
俺は足を早めて彼女に近づく。一歩前に踏み出すと、甘奈はまるでそれが当然みたいな顔で笑った。
記憶を失った直後は、彼女が隣に立つたびに、無意識に一歩身を引いてしまっていた。
近すぎた。肩が触れそうなほどの距離が、あまりにも自然だったからだ 。けれど最近は、ふと肩が触れ合っても、自然とそのままの歩調を保って歩けるようになっている。
「今日は始業式だからって、夜更かししてたんでしょ?」
甘奈が顔を覗き込んできた。
「……っ」
俺はあからさまに視線を泳がせ、喉を鳴らした。
「何してたか、当ててみようか?」
悪戯っぽく微笑む彼女から、慌てて顔を背ける。
「う、うるせぇ……」
通学路を並んで歩く。川沿いに差しかかった瞬間、湿った風が頬を撫で、微かな潮の匂いが鼻をくすぐった。
シダレヤナギの若緑が陽光を透かし、水面に細い影を落としている。流れる水音を聞いていると、ふと、入院中の記憶が脳裏を掠めた。
耳の奥で、かつての言葉が静かに蘇る。
——「私は昔の貴方を知っています」
切なげに響いた彼女の声を、俺は今も忘れていない。
何もわからなかった俺に居場所を与え、身の回りの世話をしてくれたのは甘奈だった。家族が過去の話題を避ける中で、彼女だけが俺を「昔」と繋ぎ止めていた。
まるで、海に沈みかけた人間へ投げられた錨みたいに。
「ねぇ、今エッチなこと考えてたでしょ」
「んなっ!? んなわけあるか!」
俺はあからさまに動揺して声を裏返した。
「えーその慌てぶり怪しいなぁ」
見透かすような瞳から、慌てて顔を背ける。実際、風に揺れる薄い生地が描く柔らかな曲線に目を奪われていたのは否定できない。必死に誤魔化そうとした、その瞬間だった。
「……っっっ止まってぇぇ!!」
鋭い悲鳴が春の空を切り裂く。
背後から、凄まじい勢いの気配が迫っていた。
「うおおおぉぉ!?」
俺は甘奈の腕を引いて横へと跳んだ。
次の瞬間、ガシャーン!! と派手な金属音が響く。猛烈な勢いで自転車ごと突っ込んできたのは、甘奈の妹、由依だった。
「ごっめーん甘姉ぇ! 今度からちゃんと遅刻しないように寝坊しないからさぁ!」
由依は派手に転びながらも、すぐに顔を上げる。
「もう、何度起こそうとしたって枕を投げつけたりするからでしょ」
甘奈が呆れたようにため息をついた。
「あ、あれはわざとじゃなくてぇ...」
春の風に乱れた髪を押さえながら、由依がむくれた顔で唇を尖らせる。
「いつも言ってるけど、朝食を抜かさないようにって言ったら今度はパンを咥えて登校するだなんて...」
甘奈が腰に手を当てて説教を始める。
「だって間に合わないんだもん」
由依は不満そうに頬を膨らませた。
「だってじゃありません」
甘奈の厳しい視線が妹を射抜く。
「うぅ...」
そんなむっとした顔で妹をしかりつける甘奈を見て、俺の口元は自然と緩んでいた。胸の奥に灯った小さな灯火が、強張っていた肩の力をじんわりと抜いていく。
だが、俺を見る目だけはやたらと冷たい。
「また鼻の下伸ばして変なこと想像してるんでしょ。……うわっ、ドン引きー」
由依が冷ややかな視線をこちらに向ける。
「いや、俺は別に……」
俺は慌てて両手を振って否定した。
「お姉ちゃんにセクハラしてるんでしょ、この浮気魔」
なぜか俺への当たりだけが強い。怪我をして記憶を失ったのは俺の方なんだが。
「だいたいさぁ、美少女のお姉ちゃんが、記憶もないバカに付き合ってるってほうがおかしいんだよ。…下のお世話までされなきゃ気が済まない変態のくせに!」
罵声を浴びせられ、俺は言葉を失う。
「……っ、由依……!」
甘奈は両手で顔を覆い、指の隙間から覗く耳までを真っ赤に染め上げた。
……下のお世話?
その言葉だけが、湿ったアスファルトにへばりつくように耳の奥へ残る。
由依はペダルを強く踏み込み、振り返ることもなく自転車の濁音を残して走り去っていった。残された沈黙の中、甘奈は小さく肩をすくめ、自身の爪先を見つめるように深く俯いた。
「あとで妹をきつくしかっておきますから……迷惑かけてごめんなさい……」
甘奈は消え入りそうな声で頭を下げた。
「なんで甘奈が謝らなきゃいけないんだ、そりゃあ痛かったけどさ」
けれど、俺の意識は別のところへ引っ張られていた。
———
入院中。
目覚めた直後に感じた、妙な身体の重さ。
誰かに触れられていたような、曖昧な感触が残る。
白いシーツが脳裏に浮かんだ。
漂うのは強烈な消毒液の匂い。
熱を持った柔らかな感覚。
———
あれは、本当に夢だったのか?
「……ねぇ、由記君」
気まずい沈黙を破るように、甘奈が上目遣いで制服の袖を掴みながら囁いた。
「……そういうの、興味あるの?」
喉の奥が、カチリと鳴る。
「……ある、よ」
掠れた声が、自分のものとは思えないほど熱を帯びていた。
指先が微かに震える。その困ったような笑顔も、何もかもから、視線がどうしても離せなくなる。数秒の沈黙。自分でも何を言ったのかわからないまま、無意識に本音が口から漏れた。
次の瞬間。
パァンッ——と、乾いた衝撃音が空に響く。
右頬が熱い。
「……っ、このバカッ!!」
甘奈は真っ赤な顔のまま走り去っていった。舞い上がった桜の花びらだけが、その後ろ姿を追いかけていた。
取り残された俺は、じんじん痺れる頬を押さえながら立ち尽くす。
「……昼飯、抜き確定かな……」
ズキズキと痛む頬。その熱と一緒に、胸の奥でも説明のつかない何かがじわじわと膨らんでいく。その正体がわからないまま、俺は春の匂いが残る通学路を小走りで駆け出した。




