Echo 26 『 anDante 』
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対応番号 : 43
過去の記憶も、今の記憶も全て手放し、忘れようとしていた。
逃げるためじゃない。ただ自分が自分で無くなるように。
暴風で荒れ果て、バリバリと雷鳴がとどろく。その嵐の海に身を投げ捨てるように、どんどん深くへ沈んでいく。深海の奈落に沈む、あの全身を押し潰すような冷たい水圧が、再び俺の肌を包み込む。なのに、なぜか身体の芯だけが異様に熱い。
空中に出現した火炎の天秤が、パチパチと音を立てながら、片方に大きく傾く。次の瞬間、暴風のような激しい海の渦に巻き込まれ、俺の身体は上下左右も分からぬまま、もみくちゃに翻弄されていた。
その渦の最深部に吸い込まれると、光が不気味に反射する万華鏡のトンネルに入り、壁面に歪んだ自分の醜い姿がいくつも映し出された。自責する四方八方の声で、理不尽に対する激しい怒りと、やりきれない悲しみが、胸の奥からカッと込み上げる。その醜い姿から逃れようと必死にもがくと、俺はいつの間にか、生ぬるい煙の立ち込める燃える墓場に立っていた。
そこには「佐野 甘奈」の名前が、石碑に深く刻まれていた。その墓場の石に向かって、縋るように手を伸ばした瞬間、身の皮膚をじりじりと焼きただせるような、灼熱の砂嵐が上空から容赦なく降り注いだ。息が出来なくなり呼吸が無くなる。視界が点滅していき、意識がフェードアウトしていく。
そうして砂嵐の上方へと力任せに投げ出されると、俺はあの、肌にペトリと張り付くような湿潤な洞窟の中にいた。
しかし、強烈な違和感を覚える。
暗闇の壁面から、無数の不気味な目と口がヌッと生え出て、口々に、ありもしない虚言と妄想の罵詈雑言を、俺の脳内へ直接投げつけてきた。
「お前のことなど誰も必要としない」
「役立たず」「人ですらない化け物」
「出しゃばんじゃねぇよ気持ち悪い」
「助けられなかったくせに」
「英雄気取り」「めった〇しにしてやる」
「屠〇してやる」「卑怯者」「生きる資格はない」
「どうせまた同じ失敗でしょ」「裏切者には〇を」
「呆れた」「人として最低だ」「クズ」
「ゴミでも食ってろ」「なんでお前が生きている」
「お前のせいだ」「虐〇に値する」
「お前の正義は偽善だ」「誰も幸せになれない」
「同じ空気すら吸いたくない」「視界から消えろ」
「存在価値のない障〇者」「遺伝子から間違えている」
「出来損ないの社会不適合者」「人間やめたら?」
「間引かれて当然の人間」「まだよちよちかな?」
「化け物風情が人間を語るな」
「怪物が言葉を喋るなんて面白いね」
「言葉を発するなよゲロくさい」
「人みたいに笑ったらどうだ?笑えよ」
「怪物でも怖がんのか?何とか言ってみたらどうだ?」
「つまんねぇこいつ、ちゃんばらごっこしようぜ」
「偉そうにして何にもできないくせに」
「きっしょ」「差別差別と騒ぎ立てるバカですかぁ?」
「犬の〇〇でも食ってろ」「コンクリ詰めして沈めてやる」
「触るのですら穢らわしい」「お前の居場所なんてねぇよ」
「きみぃようちえんせい?」「お前の優しさなんて所詮ゴミ」
「ゴミに失礼」「クソワロタ」
「ネットのおもちゃにしない方が失礼」
「こいつ晒し首にしようぜwww」「そんなこと言ってない」
「非難するしか能のない無能」「生物として失格」
「脳みそあんのか?」「轢き〇してやる」
「〇す価値もないゴミ未満」
「やめろ!!やめるんだ!!!!」
俺がどんなに耳を塞いだところで、その声は止まることは無かった。耳を塞いだまま俯き、ただ両眼を閉じて暴言の嵐が過ぎ去るのを待っていた。
気付くと、眩い光を放つ球体が上方にいつの間にか現れ、俺の喉元から体内へと無理やり滑り込み、身体の芯から細胞一つ一つが爆発するように光り輝いた。
すると、俺は一切の音がない、真っ白な世界に立っていた。目の前には、後ろ姿のまま静かにしゃがみ込んでいる甘奈の姿があった。
俺は怖くてただ俯いていた。
「由記君、おいで。私と1つになろう」
スッと彼女が立ち上がり、その足元が視界に入る。俺の耳元で、ゾクゾクとするような甘ったるい囁きが、皮膚を撫でるように聞こえる。
「私だけは、あなたを許してあげる」
俺はただ、誰かに許されたかっただけなのかもしれない。藁をも縋るように彼女の顔を覗き込んだ、その瞬間。
唇の隙間から、ドロドロとした真っ赤なザクロの果肉が覗き、生温かい液体が顎へと赤く滴り落ちる、甘奈の顔がそこにあった。
「うぐっ…!!?」
俺はその鮮烈すぎる赤色を目にした瞬間、胃袋を直接素手で抉られたような、強烈な吐き気と不快感に襲われた。
「由記君、どうしたの?」
彼女の赤く染まった、冷たく湿った手が、俺の頬にピトリと当てられる。俺は全身の細胞でそれを拒絶しようとした。こいつは甘奈じゃない。甘奈の形をした、別の何かだ。その不気味な、得体の知れない何かの存在に、俺は心臓を冷たい爪でギュッと掴まれたかのような、根源的な恐怖を覚えた。
「ねぇ、こっち見て?」
俺は恐怖のあまり、両目を強く閉じることしかできなかった。
(もうやめてくれ、俺はもう、罪悪感だけで押しつぶされそうなんだ……)
しばらく耐えていると、甘奈のような何かの、あの肌を刺すような圧倒的な存在感が、不意に消えたかのような気がした。
(だ、大丈夫なのか……?)
恐る恐る、薄目をあけて視界を戻すと、そこには ──
自分の両手がべっとりと赤黒い血まみれになり、甘奈に酷く似せて作られた、冷たい木製の操り人形が、俺の腕の中でガタガタと横たわっていた。
「う、う……うわぁぁぁああああああああああああ!!!!!!!!!!」
過去の断片が頭の中で激しくひしめき合い、胃袋の中でドロドロにごちゃ混ぜになる。
あの頃の、なんてことのない楽しかった思い出。
今まで忘れてしまっていた日々。
血反吐を吐き、骨を折られながら苦しんだあの凄惨な戦い。
自分の身を挺して、ただ信じて突き進んだはずの道。
目の前で甘奈がいなくなった瞬間。
仲間たちが次々と消え去り、失望しきった冷淡な顔で俺のもとを去っていく。
「待ってくれ……みんな……なんでだよ。俺を利用してたのに、どうしてそんなことが出来るんだ!!?」
暗闇の虚空に向けて、俺の枯れた叫びが虚しく響く。
「なんでだよ……俺が部活してるところを見てみたいって、言ってたじゃねぇか!!」
「やっと思い出したんだよ……由依が遅刻して俺にぶつかった時なんかも、どんなくだらないことでも一緒に笑ってくれて」
「いつも一緒に帰ろうって、言ってくれてたじゃないか……」
「なぁ……なんとか言ってくれよ……」
額を冷たい地面に何度もこすりつけ、無気力に拳を床に叩きつけても、硬い感触が跳ね返るだけで、何一つ反応はない。俺は力なく、地面にそのままの姿勢から倒れ、横たわった。思考も、感情も、信念も、記憶も、何もかもがもぬけの殻になった俺の身体には、空虚感ですら手に余るほど、重苦しいものだった。
自分の存在を全否定することそのものが、かつて自分が存在したことを逆説的に認めてしまう。存在したことを否定するのをさらに否定したとしても、やはり否定しようとした醜い事実を認めてしまう。そうした事実のすべてを無視してしまうこともまた、否定という概念の存在を肯定してしまう。
この拭いきれない罪は、俺の全身を黒く染め上げていく。
あの赤い空が、今も上空から俺を冷たく見つめている。
無数の冷徹な眼が、善を成そうと、俺を悪に染め上げる。
残されていた感覚が、起き上がる。まるで生きたいと願うかのように。虚空に向けて震える手を伸ばし、何もないはずの空間で、何かを掴もうとする。すると、何もなかったはずの指先に、驚くほど大きな、確かな温もりが触れた。俺はその愛おしい温度を確かめるように、手繰り寄せる。
「あなたは、どんな人になるのかな」
その声が響いた瞬間だけ、この世の一切を忘れられる、何者でもない絶対的な安心感が全身を包んだ。漆黒の闇が全身を包み込み、底へと引きずり出していく。完全に暗転した世界の中で、小さな光の粒子たちが、静かに歌うように明滅する。足元から芽が生え、それは瞬く間に俺の身体を取り込んで、巨大な樹木へと成長していく。樹木と完全に一体化した俺は、もはや思考を止め、ただそこに静かに存在していた。
光来がその樹木の存在に気付き、歩み寄ると、自身の庭にあったオリーブの枝を3本、その根元にそっと添えた。そこへ、眩い光を放つ黄金の鳳凰が静かに降り立つ。光来は胸の前で両手を合わせ、静かにこう言った。
「あなたに完璧な勝利を」
その瞬間、全身がカッと赤く染まる。木々は激しく燃え上がり、鳳凰の黄金の羽がみるみるうちに融解し、俺の右腕が、燃える木の枝とドロドロに融合していく。その木はいつしか鋭利な剣の形を成し、煮えたぎる灼熱の炎と化す。その凄まじい光が辺りのすべてを包み込み、世界を照らして暗闇をも飲み込んだ──まさにその時。
「……ハッ!?」
唐突に、俺は激しく息を吸い込んで目を覚ました。
コンッコンッコンッという時計の秒針の音が、静かな和室に規則正しく響いていた。
「…戻った、のか」
俺は、右手のひらに、汗ばんだ温かい肉体の感触をしっかりと掴んでいるのに気が付いた。視線を落とすと、そこには実李が、看病の途中で力尽きて寝落ちしたかのように、俺の手を両手でぎゅっと握りしめて眠っていた。俺がその右手の中にあるものをそっと確かめると、そこには、いつの間にか一榎のあの冷たく硬い、黄金の羽が握られていた。
「気のせいなのだろうか…」
先ほどまで脳を焼いていた、あの悍ましい悪夢を思い出す。
だが、俺の手のひらには、確かにあの感触が残っていた。
── いや、嘘だ。気のせいなんかじゃない。
思い出した瞬間、喉の奥から強烈な胃酸の酸っぱさが逆流し、俺は実李に気付かれないよう、慌てて左手で口元を強く押さえた。身体がガタガタと拒絶反応を起こして震える。視界の端には、さっきまで俺を罵倒していた無数の口や、血まみれの甘奈の人形が、まだべっとりと焼き付いて離れない。心臓が早鐘を打ち、冷や汗がシーツに染みていく。
許されたい。楽になりたい。いなくなってしまいたい。
その泥泥とした本音が、まだ俺の足首を掴んで奈落へ引きずり込もうとしている。甘奈を救えなかった。その罪の重さに耐えかねて、今すぐにでも自分の首を絞め落としてしまいたくなる衝動が、波のように押し寄せては俺を圧迫する。
「う、あ……っ……」
歯の根が合わず、カチカチと情けない音が部屋に響く。逃げ出したい。こんな壊れた世界からも、自分の生々しい罪からも。
しかし、その絶望の淵で、俺の右手を包み込んでいる温もりが、かすかに微動だにした。
「……ん…大丈夫だから…」
実李が、眠気眼のまま、俺の手をさらにギュッと握りしめてきた。その手のひらの、柔らかく、少し汗ばんだ確かな体温。そして俺の指先に触れている、一榎から託された黄金の羽の、冷たくも鋭い、皮膚を刺すような金属の感触。
あぁ、そうだ。俺は今、生きている。死ねずに、ここにいる。どれだけ過去の記憶を消し去ろうと、どれだけ悪夢に脳を焼かれようと、俺の心臓はまだドクドクと、醜くも、泥臭くも、脈動を止めようとしない。
甘奈は最期に、俺に「生きて」と言った。その言葉は、俺を縛る呪いなんかじゃない。俺がこの地獄のような現実を踏み締めて立ち上がるための、唯一の光だったはずだ。
俺がここで壊れてしまえば、甘奈の最期の願いすら、本当に無かったことになってしまう。自分が犯した罪を、背負った罰を、ただの「絶望」という言葉で片付けて、眠るように諦めることなんて、それこそ甘奈への、そして俺を心配してくれた仲間たちへの最大の裏切りだ。
たとえ世界中のすべてが俺を化け物と呼び、罵詈雑言を浴びせてこようとも。俺が俺自身の存在を呪い、消えてしまいたいと願ったとしても。この右手に残る温もりだけは、絶対に偽物なんかじゃない。
震える足に、じわりと力を込める。
奥歯を、ミり、と嫌な音がするほど噛み締め、胸の奥で燻るドス黒い感情のすべてを、生きるためのエネルギーへと強引に変えていく。涙を拭うのではない。血の味のする唾を吐き捨て、その足で泥水を蹴り上げるんだ。
俺には、俺の人生を決めていい。
俺がどう生きるかは、他の誰でもない、俺がどう選ぶかだ。この先にある未来がどれほど凄惨な絶望だろうと、一向に構わない。希望がひとかけらも無くても構わない。
俺は、なりたい俺に、なる。ただそれだけだ。俺はあの凄まじい光の中で、確かに生かされたんだ。生きている限り、これからも筆舌に尽くしがたい苦痛が伴うだろう。それでも、この胸の奥にある本当の気持ちにだけは、もう二度と嘘をつきたくない。どれほど心身が傷付いてボロボロになろうとも、それがどんなに困難な道のりだろうと、やるべきだと決めたことをやって、ただ最後まで尽くすまで。
たとえその手が届かなかったとしても、届くように死に物狂いで頑張った、その自分自身だけは、何があっても自分自身の味方であり続けたい。やると自分の心に誓ったからには、自分との約束を最後まで守らなくちゃいけない。もしそれがダメだったとしても、最期に笑って許せる自分でいたいんだ。そのためにも、これからも、この残酷な世界と真剣に向き合わなくちゃいけない。俺のことなんか、周りは無様だと笑い飛ばせばいい。
どんなに蔑まれ、泥を塗られようとも、この胸の奥で燃える魂だけは、絶対に誰にも奪えやしない。自分を愛して何が悪い。自分で決めた茨の道を進むことに、後悔など微塵もあるものか。
どんなにわずかで絶望的な可能性だとしても ── 俺は、何度でもこの両足で立ち続ける。




