Echo 25 『 零 』
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対応番号 : 41 / 42
一榎たちは、八咫烏財団が管理している区域まで、車を走らせているところだった。
「東宮は津波に飲まれ、明雲神社と富士山周辺の町も壊滅……」
信じたくない現実が、ナビの音声となって冷たく車内に響く。
俺はただ甘奈を助けたかった。
どうしてこんな結末なんだ。
「俺にもっと力があれば……」
俺はずっと、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、自分を自責していた。別にそれで、この最悪な現実が解決するわけでも無かったが、そうせずにはいられなかった。あの時見た空が、既にすべての運命を決定づけていたとしたのなら、
どうしてあの時、もっと早く気付けなかったんだ。
涙を流そうにも、目の奥が乾ききって、流れる涙は一滴も無かった。胸を掻きむしって嗚咽する時間も、絶望に縋る時間すら与えられなかった。ただ眼前にそびえ立つ冷徹な事実だけが、俺たちのちっぽけな希望や絶望を、粉々に踏みつぶしていた。
残された時間は、あとどれくらいなのだろうか。
俺はもう、生きることの重みを考えたくなかった。
どうせ生きたって、いずれ等しく終末が訪れる。
それなら早いか遅いかの、ただそれだけの違いだ。
だが、そんな思考の片隅で、なぜか奇妙に安堵している自分がいた。どうせ無駄だったんだ。何もかもが仕組まれて、嘘で塗り固められていた世界。その温かい余韻に浸ることがあったとしても、結局のところ、それは嘘の上に嘘を塗り重ねただけ。自分の激しい感情も、愛おしい記憶も、積み重ねた経験も、この心を動かす理由にはならなかった。
どんなに尽くしても、どんなに言葉を並べても、どんなに血の滲む努力をしようと、もう二度と届かない。夢ならどれだけよかったか。自分の思い描いていたありふれた日常が、一握の乾いた砂のように、サラサラと指の隙間から零れ落ちていく。
冷たい空気が肺を鋭く刺し、呼吸が浅く、短くなっていく。ゾクゾクとした悪寒が皮膚を駆け巡る一方で、内臓からは異様な熱気がせり上がり、額からは冷や汗が引きも切らずに流れ落ちる。頭がぼーっとして、視界のピントが合わない。寝るのが、底知れず怖い。もし目を閉じてしまったら……明日、世界はどうなっているのだろうか。天に浮かぶ『 無限の眼 』が、じっと皮膚を焦がすような不快な視線で、俺だけを凝視しているように見えた。
その不気味な静けさが、俺の胸をさらにギチギチと圧迫させる。
どうしてみんな、そんな目で俺を見ているんだ?
俺が一体、何をしたって言うんだ!?
俺はただ、あの人の隣にいたいだけなのに、どうしてそんなに、突き放すようにして視線が冷たいんだ!?
あぁ、俺が悪かったよ。
俺が悪かったって、罪を全部背負えば、それでいいんだろ!?!!
しかしどれだけ心の中で叫ぼうとも、神は黙ったままだった。
歪んで二重に見える視界の中に、ギラリと煌めく黄金の羽が、目の前で一榎の手から差し出された。
「お前に渡しておくよ」
「……気持ちはありがたい。けど、しばらく一人にさせてくれないか?」
乾いた喉から掠れた声でそう言って断ると、一榎は静かに、自身のカウボーイハットにそれを付け戻した。
——— 臨時拠点にて
「ここは早七が手配してくれた旅館だ。今日はゆっくり休め」
一榎はそう言うと、車を停めに雨の降る中、パーキングエリアに向かって行った。
「……ねぇ、これからどうする?」
杏佳は不安げに希果に話しかけたが、みんな気分の滅入るような憂鬱さに包まれているのは分かり切っていた。胸を締め付けられるような深刻さに苛まれているのは、俺だけじゃない。
目の前で最愛の妹を失ったことで、来弥は精神的にも完全に崩壊しかけていた。谷津姉妹が彼女の小刻みに震える両肩を必死に支えていたが、彼女の瞳は完全に光を失い、放心したように宙を見つめていた。
もう、俺は誰にも迷惑をかけたくなかった。どす黒い罪悪感が、胃のあたりをズシリと押し潰してくる。旅館の玄関が開いたその時、い草と古い木造特有の、落ち着いた和室の香りが、ふと鼻をくすぐった。
「よく頑張りましたよ、とにかく今は休みましょう」
誰かの温かい手のひらが背中に触れた。俺はようやくその感触で現実だと思い知り、姉の肩に顔を埋めて、子供のように声を上げて咽び泣いた。
熱いお湯が、じんわりと頭のてっぺんから不快な汗を洗い流していく。俺を心配してくれた未夏が、優しく、少し震える手で俺の背中を静かに洗い流してくれていた。
「お兄ちゃん……無事でよかった……」
未夏はそう言うと、濡れて温かい俺の背中に、自身の柔らかい頬をぴたりとくっつけ、全体重を預けてきた。濡れた髪の毛が一本一本、背中の皮膚に擦れる生々しい感触。未夏の細い吐息と、かすかな心臓の鼓動、そして高めの体温が、ダイレクトに伝わってくる。その命の重みが、今の俺にとっては、耐え難いほどに重く、苦しく感じられた。
「お兄ちゃんの重荷を、私は全部は背負えないかもしれない……けど今だけは、どうか私の温もりだけを感じていて欲しいの」
甘奈の代わりなど、この世界のどこにもいない。
そんなことは妹だって痛いほど分かっていた。
けれど俺は、そんなことにお構いなしに、行き場のないドロドロとした悲しみを、未夏の柔らかい身体に強くぶつけるように抱きしめた。
「お兄ちゃん…好き……」
未夏が俺の唇に、そっと自分の唇を重ねてきた。それは甘ったるい味なんかではなく、涙の塩気が混ざった、切なく苦い味だった。
俺は最低な人間だ。そんな嫌悪感を抱えながら、未夏より後に温泉から上がると、糊のきいた浴衣に着替えた。
食事の匂いを嗅いでも、一切喉を通らなかった。そんな俺を早七姉さんは心配そうな目で見つめ、箸で口元まで食事を運んでくれる。だが、その向けられる無条件の親切心に触れた瞬間、胸の奥がキュッと引き絞られ、呼吸の仕方を忘れたように浅くなる。
「……早七姉……ごめん。しばらく横になるよ」
俺は重い足を一歩ずつ動かし、寝室に向かって歩き出す。なぜか、いつもより階段がひどく近くに見えた。一段上がるたびに、肺の奥に鋭い痛みが走り、呼吸が浅くなって上手く空気が吸い込めなくなる。
「痛い…痛いよ……」
俺はそんな情けない弱音を、誰にも見せまいと必死に堪えていた。冷や汗で張り付いた浴衣の上から、左手で胸元を爪が立つほど激しく搔きむしる。冷や汗が止まらないのに、身体が熱い。視点がおぼつかなくなり、ぐにゃりと視界が歪んだ瞬間、ガクンと足元から世界が垂直に落ちるような錯覚がした。
「大丈夫!?」
下から、早七姉が慌てた足音を響かせて、俺に駆け寄る。
「……平気だ。ただ長湯して、頭がよく回ってなかっただけだよ」
俺はそんな見え透いた嘘を口にして、一段ずつ、鉛のように重い足で階段をまた登る。
(人生って落ちる時は、こんなに呆気ないものなのかな……)
ふと、そんな暗い諦めが頭をよぎってしまった。
俺が湿った重い布団を取り出そうとしたその時、階下から激しく押し問答をする騒がしい声が聞こえてきた。早七姉たちが、取り乱した来弥を必死に抑え込んでいる。
「来弥さん、落ち着いてください!!」
「彼も傷付いているんだから、そっとしといてあげて!!」
激しい摩擦の中にいるはずなのに、俺にはそのやり取りが、どこか遠い出来事を見ているかのように、冷めて映っていた。
「ふざけないで!!!あいつに、あいつに一言言いたいことがあるのよ!!!」
来弥は、引き止める素榛と華緋の腕を力任せに振り切り、俺のいる部屋の襖を乱暴に開け放った。
「どうして何にもしないの!?」
言葉と同時に、彼女の激昂した右手が、俺の左頬を乾いた音を立てて酷く叩いた。強烈な衝撃と共に、頬がカッと燃えるように熱くなり、遅れてジンジンとした痛みが皮膚の奥へ広がっていく。
「ちょっと!!うちの弟に何するの!?」
早七が青筋を立てて激昂し、来弥の身体を力任せに引き剥がそうと揉みあいになる。
「何が報われなかった顔してんのよ!!!私だって!!唯一の肉親の妹を、目の前で失ったのよ!!!」
部屋の中に、ピリピリと鳥肌が立つような緊張感が満ち、ピークに達する。
「私を見ろ!!」
来弥は爪先が食い込むほどの力で俺の浴衣の襟元を掴み、至近距離まで無理やり引き寄せた。早七姉が、物凄い剣幕で来弥の手を掴んで牽制する。
「お前のために、どれだけ多くの人が命を落としたと思っているのよ……」
「あんたのせいで……だけど……」
「けど、もうあんたしか、あんたしかいないんだよ!!!」
先ほどまでの狂気じみた勢いが急に途切れ、来弥は糸が切れたようにその場に崩れ落ち、両手で顔を覆い尽くした。
「こんな結末は嫌よ……」
床に涙をボタボタと滴らせ、低くすすり泣く声が、狭い和室に重苦しく響き渡る。
素榛と華緋が、痛々しい彼女の身体を両側から支え、静かに部屋から連れ戻していった。早七姉は俺にすぐさま駆け寄って、心配そうに、赤く腫れ上がり始めた俺の頬に、冷たくて優しい手のひらをそっと当てた。
「大丈夫?どこかおかしいところはない?平気?」
俺は引きつる頬の痛みを堪えながら、無理やり作り笑いをして見せた。
「大丈夫だよ姉さん、少し寝ればきっと落ち着くからさ」
俺の心の中では、ただ一刻も早く、一人にして欲しいと願うばかりだった。その向けられる親切な心が、かえって俺の剥き出しの自尊心をズタズタに抉り出していくのを肌で感じ、これ以上の罪悪感で、これ以上自分の弱みを見せたくなかったからだ。
「そう……もし何かあったら、お姉ちゃんに必ず言うのよ」
そう言うと彼女は、俺の顔を悲しそうに見つめた後、襖が擦れる静かな音を残して部屋を出た。
部屋の光を消し、敷かれていた冷たい布団に潜り込んで、ただただ暗い天井を眺めていた。何も考えたくなかった。考えるだけで、胃の底から酸っぱいものが込み上げて吐きそうになる。胃がキリキリと雑巾を絞られるように痛み、呼吸する息も浅く、短く往復していた。
時間はただ、無情に過ぎていく。
コンッコンッコンッという時計の秒針の音が、俺の精神を蝕んでいく。
突然、襲ってくる猛烈な肺の痛み。まるでナイフで内側から刺されたような激痛に、俺は爪の間に血を滲ませながら、傷だらけの両手で胸元を激しく掻きむしった。涙は勝手に出るが、そんな液体は何一つ解決なんてしてくれやしない。
泣くことすら、労力の無駄遣いだ。甘えるな。
呼吸したくても肺の痛みで上手く出来ない。このまま、ここで死ぬのか?俺は布団のうえでのたうち回りながら、自分の両手で、自分の首を強く絞めつけた。
このまま意識を失ってすぐ楽になってしまえばいいのに。
しかし結果的に甘奈を亡き者にしてしまったという冷徹な事実が、俺が楽になることすら許さない罪悪感へと変貌し、精神のすべてがドス黒い波に飲まれていく。
どれだけ謝ろうと、二度と戻ることは無い。
あの赤い空が、俺の死を望みながら、贖罪することを許さない。生きて欲しいという誰かの願いが、終末までの湿った冷たい白綿と化し、首を静かに締め上げる。
希望はない。絶望に沈むことも許されない。生きることも、死ぬことも許されない狭間で、俺は取り戻した記憶を思い出していた。
海
冷たい水
沈む感覚
裏切り
家族
師
社会
断絶




