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Echo 24 『 静寂 』


https://open.spotify.com/playlist/6bFZdpvxKZC0kdREsooTmc?si=a1feec7479d64356


対応番号 : 40



 足元の大地が生き物のようにのたうち回り、各々は爪が()がれるほど強く、近くの手すりや柱にしがみつくしかなかった。冷たい金属の感触が、手のひらにじっとりと(にじ)む脂汗で(すべ)る。


 スマートフォンのスピーカーが一斉に、鼓膜(こまく)をザラつかせる高音のアラームを吐き出し始めた。


「緊急速報です。ただいま津波が押し寄せています。ただちに避難してください。繰り返します……」




 ——— 海が、来る。




 その一言を、本当に理解できた者はどれほどいただろう。


 最初は地震だった。


 立っていられないほどの揺れが街を(おそ)い、視界が上下に激しくブレる。信号機が狂ったようにしなり、街中の窓ガラスがキィィィンと耳の奥を刺す悲鳴のような摩擦(まさつ)音を立てて次々と(はじ)け飛んだ。電柱がギチギチと不気味に(きし)み、足元のアスファルトが生き物のように波打つ。誰もが「大きい」と思った。だが、その時点ではまだ、多くの人が“いつもの延長”でしかないと、どこかで(たか)(くく)っていた。


 (たな)から落ちた商品を拾い集める店員。

 手汗(てあせ)湿(しめ)った画面を強く(にぎ)りしめる学生。

 車道で立ち()くすサラリーマン。


 その数十分後に、世界が変わるとも知らずに。


 海沿いでは、防災無線のスピーカーが()れんばかりの声で(さけ)び続けていた。




「大津波警報。(ただ)ちに高台へ避難してください」




 だがその警告は、(ほほ)を平手打ちするように吹き付ける突風に千切れ、混乱した街の喧騒(けんそう)へと完全に()き消されていく。老人の(ほね)()った細い腕を、必死に支える者がいた。家族を探して戻る者の、焦燥(しょうそう)(あら)くなった熱い息が白く(はじ)ける。車で逃げようとする列は道路を()め、クラクションの重低音が響く中、交差点は完全に固まっていた。




 そして ―― 海が消えた。




 沖合(おきあい)の水が異様な速度で引き、今まで隠されていた海底が()き出しになる。

 鼻を突く強烈な(いそ)の臭いと生臭い泥の気配が、引き潮の風に乗って一気に押し寄せた。漁船が泥の上にドスンと(かたむ)き、人々は(のど)()まらせて息を呑む。見たこともない、不気味な光景だった。




 次の瞬間、水平線の向こうに、天を(おお)うほどの“壁”が現れた。




 黒かった。




 瓦礫(がれき)も、船も、車も、家も、すべてを()(くだ)きながら進む、巨大な濁流(だくりゅう)だった。




 轟音(ごうおん)が、遅れて鼓膜(こまく)に叩きつけられる。




 それは地鳴(じな)りに似ていた。

 巨大な山がそのまま(くず)れ落ちてくるような、内臓を激しく震わせる重低音。無数の木材やコンクリートが粉砕(ふんさい)される、バリバリとした破壊音。そこには確かに人の悲鳴が混ざっているはずなのに、あまりにも巨大な音の暴力の前には、何もかもが圧殺(あっさつ)されて聞き取れない。逃げる人々の背後で、防波堤を軽々と越えた海が、街へ向かって一気に雪崩(なだ)れ込んだ。車が軽々と浮く。鉄製の街灯(がいとう)が、飴細工(あめざいく)のようにへし折れる。二階建ての家が基礎ごと強引に()がされ、まるで玩具(がんぐ)みたいに濁流(だくりゅう)の中で回転する。


 ある者は必死に爪を立てて屋根へ登り、

 ある者は腕の中の子供の体温を確かめるように強く抱きしめ、

 ある者はただ、(せま)る黒い壁を前に腰を抜かして立ち尽くしていた。


 水は容赦(ようしゃ)なく、すべてを飲み込み押し寄せる。


 肌を刺すように冷たい。(なまり)のように重い。胸が圧迫(あっぱく)されて、息ができない。

 鼻腔(びくう)の奥にこびりつく、泥と重油の混ざった悪臭。

 ふくらはぎに激突する、(くだ)けた木材の衝撃。

 皮膚を切り裂く、見えないガラス片。

 口の中に流れ込む、海水に混じった鉄臭い血の味。


 流された人々は、互いの()れた手を、骨が(きし)むほど強く(つか)み合い ── それでも、容赦(ようしゃ)ない水圧によって無慈悲(むじひ)に引き離されていく。




「助けて」




 そのかすれた(のど)からの(しぼ)り出しも、すぐに濁流(だくりゅう)轟音(ごうおん)にかき消された。


 津波は一度では終わらない。第一波が引いた後にも、さらに冷たく重い海が、何度も何度も押し寄せる。街だった場所は、もう街の形を留めていなかった。


 道路の境界も、

 家の位置も、

 学校も、

 商店街も、

 全部、ドロドロとした黒い泥の下に深く沈んでいる。




 恐ろしいことに、水の上で火災まで起きた。




 流された瓦礫(がれき)の山に火が燃え移り、冷たい水に(おお)われた街の上で、肌を()がす熱い炎だけが不気味に揺れている。避難所では毛布が足りず、(こご)えるような寒さで全身の震えが止まらない。暖房もなく、誰もが冷え切った指先で、携帯電話の『圏外(けんがい)』表示をただ見つめていた。暗闇のあちこちで、誰かの名前を呼ぶ()れた声だけが夜の寒気に響く。



 だが、返事はない。



 海は、何事もなかったかのように不気味なほど静まり返っていた。その無音の静けさが、かえって残酷(ざんこく)に肌を刺した。











「なんたる惨状(さんじょう)だ……」

 詩七(ゆきな)はその圧倒的な規模に、全身の毛穴が逆立つような戦慄(せんりつ)を覚えた。かつての青い海は赤く染まり、大地も空も、どす黒い真紅の色に包まれている。その真の姿を目の当たりにした時、既に敗北は(まぬが)れないものだったと、奥歯がガタガタと震える中で(さと)らされた。




 どうにかしたかった。

 しかしできなかった。




 行き場のない絶望が、冷たく乾いた白綿(しろわた)でじわじわと首を絞めてくるように、底なしの奈落へと自分を突き落とす。視界が急激に暗くなった。重い首をどうにか持ち上げて上を見上げると、そこにはすべてを拒絶するように冷たく(かがや)く『 黒い太陽 』があった。






 そこにあったはずの大地が、冷たい海に飲み込まれた日だった。


挿絵(By みてみん)

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