Echo 17 『 新原富士山 』
「……あいつら、次は絶対に逃がさない」
手のひらに残った偽物の箱の感触を、怒りとともに握りしめ俺は誓った。俺はなかなか寝付けずにいた。枕に頭を沈めても、瞼の裏に浮かぶのは奪われた『御神体』の残像ばかりだ。もっと力を付けなければならない。
じっとりと手のひらに滲む冷や汗と、胸の奥をキリキリと締め付けるような罪悪感を抱えたまま、俺は這いずり回るようにして早朝を迎えた。
「…朝よ」
低い声がその事実を物語っていた。俺は鉛のように重い身体を起こし、朝日に照らされ影になった佑果に向き合った。
「おはよう、佑果」
「さぁ、さっさと儀式を終わらせましょ」
「…案外冷静なんだな」
「今更騒いだところで仕方ないですもの、あの『Black Moon』は姿を消すのが得意だし、盗まれてしまったからには無闇に動いてもこちらが不利」
「あの『御神体』で何をするつもりなんだろうな?」
「十中八九、富士山に何かを仕掛けるはずだわ。今はまだ…推測でしかないからあまり言えないわ」
「…まずは儀式を終わらせないとな」
俺と佑果は真剣な顔で、冷え切った朝の石段を、一歩ずつ足裏にその硬さを確かめるように歩いていった。
杏奈は社殿の奥、ひんやりとした空気が淀む場所で、鏡の前に立って俺たちを待っていた。
「おはようございます、では早速『エクソダス コイン 』を石台の上に置いてください」
佑果がそれを取り出し、石台の上に置く。金属が石に触れる「チィン」という高い音が耳に響いた。
「汝、汝の心を信じるか」
「信じます」
「鏡よ、映る姿に偽りがないならば、依り代に従いて、主の源を示し給え」
石台の上の『エクソダス コイン 』が、カタカタと微震を始め、やがて猛烈な速度で回りだす。大気を切り裂く微かな風切り音を立てたかと思うと、垂直にピタリと止まった。俺はただとにかく祈ることしかできなかった。
「ただ感じなさい、風の導きを信じるのよ」
俺は静かに両眼を閉じた。吸い込んだ冷たい空気が肺を満たし、ドク、ドクと波打つ心臓の鼓動だけが、確かな現実として肌に伝わってくる。内側から広がる温かい感触を、全身の細胞で受け止めることに集中した。突如、全身の血流が激しく迸り、まるで身体ごと巨大な圧力の渦に巻き込まれたような錯覚に陥る。
「もう少しですよ、執行者様」
「万が一何かあっても、冷静さを保ちなさい」
感覚がギリギリまで研ぎ澄まされ、俺は深く息を吐き出した。
『 ロード インバーテッド 』
熱い電流のような金色の光が、皮膚を突き破って身体の芯へと流れ込んでくる。それと同時に、脳髄を直接かき乱すような感情の奔流が押し寄せた。
海
冷たい水
沈む感覚
裏切り
家族
師
社会
断絶
頭の奥を、錆びた鉄槌で容赦なく殴られたような激痛と、三半規管を激しく揺さぶる眩暈。
「はっ、あ、くっ……!」
呼吸は荒くなり、肩が激しく上下する。
その時、杏奈が両手で俺の手をそっと包み込んでくれた。その手のひらの、柔らかく、少し湿り気を帯びた温もりが、俺の荒れ狂う神経をじわじわと宥め、落ち着きを取り戻させてくれた。
「…大丈夫ですか?」
「あぁ…そうみたいだ」
あの時と比べると、2回目だからか精神的にも安定している。
「これで頭の中で地図をイメージすると、光っている場所を探知できるはずよ。俯瞰して見るような感じでやってみなさい」
俺は佑果の言われるがままに、頭の中で地図をイメージしてみた。
「…うっすらとだけど、近くとやや遠い所にある気がする」
「まぁすぐだし無理はないわね。もう少し慣れてきたら、しっかり分かるようになると思うわよ」
皮膚の裏側に残る不思議な感覚。手がかりはまだ完全ではないが、一歩前進した確かな手ごたえがあった。
「あら、ここにいたのね」
甘い声が後ろから鼓膜を揺らす。そこには一人の女性が立っていた。
「あら、茉佑じゃない。久しぶりね」
「お会いできて嬉しいですわ、佑果先輩、杏奈先輩」
「わ、私は先輩と呼ばれるほど、凄くないですけど…あはは…」
「そういえばこれ、お土産に買ってきたの。佑果先輩はこのお花の香水、杏奈先輩にはこのよく眠れる枕を。」
「あ、ありがとう…少し試してみるわね」
「えへへ…枕はいくらあってもいいですからね...」
「喜んでもらえて何よりです」
彼女は私に振り向くと、少し困った顔を見せた。
「早七お姉さんから聞いたわよ。ごめんね~由記君の分のお土産が無くて…」
「あぁ…いえ大丈夫です」
「それでちょっとしたお願いなんだけど、大切なお話があるから付き合ってもらえないかしら?」
彼女は上目遣いで、じっとこちらをのぞき込む。香水の甘く、どこか退廃的な香りが鼻をくすぐり、俺はその深い瞳の奥に吸い込まれるような奇妙な浮遊感を覚えた。
「あ、あぁ…分かりました」
「よし、じゃあ決まり!必ず一人で私のところに来てね」
彼女は不意に距離を詰めると、俺の頬にそっと唇を寄せた。柔らかく、ほんの少し冷たい粘膜の感触。彼女はにこりと笑うと、風のように去っていった。
「なななっ…い、いきなりキ、キス!?」
「あぅ…今私、幻覚でも見たんでしょうか...プシュー」
2人とも恥ずかしそうにこちらを見ている。
(いや、一番恥ずかしいのはこっちだってば!?)
俺は身体の火照りを覚えながらも、彼女の向かった方角を見てみた。
「あそこは…新原富士山?」
「昔はお礼参りで有名だったけど、ロープウェイの老朽化で最近はあまり人がいないわね…。一応参道の入り口はあるわよ」
「あの茉佑って人…どんな人なんだ?」
「うーん…唐突に行動する感じで、人当たりが良くて社交的な人?」
「私たちの通っている学校でも人気者だったって噂でしたけど、実はあまりプライベートなことは分からないんですよね…」
(不思議系、ってことでいいのかな)
俺は先ほどキスされた頬を、まだ残る柔らかな感触を消すように手のひらで擦りながら、複雑な想いを抱えたまま登山することに決めた。
「昨日の余りものを食べて、水を飲んでから行ってくるよ」
「えぇ、気を付けて行ってらっしゃい」
「け、怪我したらすぐに呼んでくださいね!!」
「あのねぇ杏奈、それはいくら何でも過保護ってものじゃない?」
「ふぇ?そうなんですか?」
「ははは、それじゃあ行ってくるよ」
俺は支度を済ませ、沢庵とおにぎりで身体に活を入れ、冷たい水を喉奥へ一気に流し込んでから、新原富士山に向かった。
「ぜぇ…はぁ…まさかこんなにキツイとは思わなかった」
自分の肺が、引きちぎれそうなほど激しく伸縮しているのが分かる。最近、佑果と杏奈のところで居候させてもらっているせいで、完全に運動不足だった。じりじりと皮膚を焼く太陽が、容赦なく体内から水分を干からびさせていく。額から流れ落ちた汗が、目に入ってピリピリと痛んだ。
「頂上はもう少し先か…」
太ももの筋肉が悲鳴を上げ、パンパンに張っているのを堪えて頂上を見上げると、そこに陽炎に揺れる人のシルエットが見えた。
「はぁ、頂上についたら文句の一つくらいは言ってやろうか…」
俺は喉の渇きと疲労感に顔をしかめながらも、彼女が約束した場所まで何とか辿り着いた。
「意外と早かったのね」
彼女は風に長い髪を遊ばせながら、微笑んでこちらを見てきた。
「あぁ、誰かさんのおかげで良い運動になったよ」
「あら、私と二人っきりは嫌いだったり?」
「そんなことは言ってな…」
俺が言い切る前に、彼女の細い人差し指が、俺の唇にそっと触れた。指先は驚くほどひんやりとしていて、言葉が喉の奥に引っ込む。
「約束を守ってくれる人は好きよ、あなたみたいな誠実な人は特に」
先ほどまでの息苦しさや筋肉の痛みが一瞬で霧散するほど、頭の中で彼女の甘い声が反芻する。酸欠でグラグラする頭を冷やそうと、思い浮かぶ言葉を彼女に投げつけた。
「俺をこんなとこに呼び出して何がしたい?」
「風景を楽しむのも悪くないと思うの。ここから見える街や山、それに身体で感じる風。私にとってこの当たり前が凄く貴重に感じるの」
彼女の横顔からは、通り抜ける乾いた山風とともに、どこか憂いに似た哀愁の雰囲気が漂っていた。
「私はね、『バベルの塔』で実験体にされていたの。もしあなたが私を連れ出していなかったら、永遠にあそこに閉じ込められていたままだったわ」
(いや、待て。明雲神社と新原神社の姉妹しか知らないはずだぞ)
「どうして君が、過去の俺を知っている?」
「そうね、まずそのことを知るには、少し話す必要があるわ」
彼女の話す声色に変化はなかったが、まわりの空気がふっと重くなったような、肌がピリつくような怪しい雰囲気を纏い始めた。
「彼ら『|ゲマトレイヤー《Gematraiyer》』には、いくつかのプロジェクトがあったの。その中でたまたま私は逆探知でハッキングして、一部の計画を知ることが出来たわ」
「その名は『ムーン アーカイブ』プロジェクト」
「『ムーン アーカイブ』」
「えぇ、彼らはアノマリーと同化して人間を捨てることに喜びを感じる人たちだけど、自分たちの執着や欲望、それと恐怖までは捨てきれなかったみたい」
「そこで彼らが推し進めていたのは、生前の記録を月にあるデータサーバーに転送して、終末後に何かあっても復活できるように、バックアップを取っているみたいなの」
「なぜそう言い切れるんだ?」
「彼らの儀式の中で出てくるシンボルを見れば分かるわ。彼らが『ゴットメンシュ』と呼んでる儀式に必要な要素。それは『黒い太陽』の日に終末が訪れるって話」
「…にわかには信じがたいな」
「えぇ、でも彼らは本気でその終末の日を信じているの。もしかするとだけど」
彼女は俺を見つめた。その瞳の真剣さに、俺の胸の鼓動がドクンと跳ね上がる。
「甘奈はその生贄になってしまってるのかもしれない」
俺は衝撃に息を呑んだ。鼓動が早くなり思考が混濁しそうなのが分かる。
「なんだって…」
「あくまで私の予想よ。でもアクセスできた資料から読み解くと辻褄があってしまう」
「それはどういう?」
「もし、私たちが学んできた歴史、神話が偽物だったとしたら?」
「もし、この世界が虚構の上に成り立っている世界だとしたら?」
「あるいは、見たくもない現実に向き合わなければならないとしたら?」
俺は背筋を氷水で貫かれたような戦慄を覚えながら彼女を見た。どこまで彼女は知っているのだろうか。その張り詰めた静寂を打ち破るかのように、『精霊』デバイスが激しい振動を始めた。画面には録音メッセージと共に、一言メッセージが添えられていた。
「Vortex」
その文字を震える指で入力し、俺はそのデータを解凍して開いた。
「早七よ、このメッセージを聞いているということは緊急事態だわ。心して聞いてちょうだい」
「今、明雲神社と狭間神社が攻撃を受けているわ。あなたたちは若林さんたちと最初に狭間神社のある場所、富士山に向かってもらいます」
「一榎にも情報を共有して、車であなたたちを拾うように要請しているわ。何が起こるか分からないから、万全を期して望んでちょうだい」
「とうとう動き出したようね…」
「俺はすぐ降りてみんなに伝えてくる!!」
錆びついた壊れかけのゴンドラリフトを、近くにあった鉄パイプで力任せに破壊する。手のひらに硬い金属の衝撃が火花のように走った。急造で頑丈な金属板を作り出すと、ズボンのベルトを力一杯引き抜いた。
「うおぉぉぉ!」
凄まじい摩擦熱と、鼓膜を裂くような金属の擦れ合う轟音。全身を叩く強烈な風圧に耐えながら、俺は一気に参道を滑り降りていった。
頂上に残った茉佑はその後姿を見ていた。
「…あなたの答えを、待っているわ」
あの不気味に広がる赤い空が、ねっとりとした不敵な笑みを浮かべてこちらを見下ろしているような、そんな気がした。




