Echo 16 『 月夜のチェックメイト 』
——— 翌朝
俺が意識を浮上させると、すぐ隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。寝返りを打つ麻椰の温もりが微かに伝わってくる。少し薄暗い部屋を抜け出して外へ出ると、突き刺さるような朝日の礫が建物を焼き、反射する光が網膜を鋭く射抜いた。早朝の風はひんやりとしていて、火照った頬を撫でる感触がひどく心地よかった。
「おはようございますっ!」
箒を手にした杏奈が駆け寄ってくる。朝の光を浴びた彼女の肌は、水分をたっぷりと含んだ果実のような艶を放っていた。
「あぁ、おはよう。気持ちのいい朝だな」
「天気も晴れですし、今日は儀式日和です」
「儀式日和なんて言うんだ…」
「あ、ははは…つい癖で」
「ところで佑果はどこに?」
「姉さんならシャワーを浴びていますね」
「朝シャン派なんだ…」
「はい、ただちょっと長風呂と言いますか…薬草や花をお風呂に浮かべて過ごすのが好きなんですよ」
(見た目からは想像しにくいな…)
「まぁ、午前と午後で担当が分かれてるので、私からすると都合が良いと言いますか…へへへ」
「午後って何してるの?」
「私は町まで買い物に行ったり、立ち読みで本を読み漁ったりする時間を楽しんでます。姉さんはお客さんの対応や薬草を売ったりとかですね」
「意外と合理的」
「私は薬草については疎いので…まだ未熟者ですが、姉さんから色々学んでます」
「杏奈も頑張ってるんだな、俺も頑張らないとな」
俺は思わず、右手で杏奈の頭を撫でた。指先から伝わる髪のさらさらとした質感と、彼女の柔らかな体温を妹の未夏に重ねていた。
「ひゃい!?こ…これはどういう?」
「あぁと…その、可愛いと思ってしまってつい癖で」
「あわわ、し、執行者様から撫でられるなんて…バタンキュー」
杏奈は恥ずかしさのあまり、その場でM字座りになり両手で顔を隠してしまった。
「おぉ、おい大丈夫か?」
「あのね、お客さんじゃないんだし、少しは手伝ってあげなさいな」
後ろからの声に振り返ると、風呂上がりの佑果がタオルを肩に巻き、湿った香木の匂いと湯気を纏って立っていた。
「えっと、姉さん、これは執行者様のせいじゃないんです…」
「はぁ、もう少しサバサバと指示出しちゃってもいいのよ。儀式の準備までもう少しかかるんだから、この人たちにも手伝ってもらわないと」
「あははは…なんか、ごめんな」
「えっと…じゃあ水やりしてくださいっっっ!!!」
「打ち水よ、杏奈」
「あはは…」
テンパっている杏奈と的確に指示を出す佑果。二人のやり取りを背中で聞きながら、俺は空を見上げ、甘奈を救う決意を改めて固める。胸の奥で、静かな熱が脈打つのを感じていた。
一方その頃、部屋の中では麻椰がまだ夢の中にいた。布団の重みに身を任せ、シーツの摩擦を楽しみながらぐずぐずと丸まっている。
「う~…まだねみゅい…」
俺たちは不慣れな手つきながらも、朝から晩まで神社のお手伝いをした。
「はぁ~…疲れたぁ~」
「麻椰、俺の半分も働いてないじゃないか…」
「えぇ、うちはただの女子高生だしぃ」
「それだと佑果と杏奈はどうなるんだ…」
「あれは角の生えた人間で、うちはただの人間!!」
「はは、はいはい」
「むぅ…なんかムカつく」
口では文句を言いつつも、彼女の明るい振る舞いは参拝客の心を解かしていた。
「でも麻椰にあんな才能があるって思わなかったな」
「…えへへ、うち巫女に転職してみようかな。なんちって」
「あ、あの、執行者様、麻椰さん…夕食の時間です」
「荷物の仕分けは一旦ここまでか」
杏奈の呼び声に、俺と麻椰はバキバキと音を立てるように背筋を伸ばし、社務室へと向かった。
拝殿を揺らす風の音が、時折「ゴォッ」と重く唸り、古い木造の社務所にまで微かな振動を伝えている。
「お待たせ~。ありあわせだけど、食べて」
佑果が運んできたおぼんの上には、湯気を立てるうどんと、小皿に盛られたおにぎりが並んでいた。さっきまで森の冷気にさらされていた俺たちの鼻を、真っ先に襲ったのは、出汁の力強い香りと、炊きたての米が放つ柔らかな甘い匂いだった。
「わあぁ……うどんにおにぎり! 炭水化物のコンボ、最高っ!」
麻椰が身を乗り出し、両手を合わせて喜ぶ。
箸を割る。乾いた木が裂ける感触を指先に受け、うどんのつゆを一口。
「……っ、ふぅ」
熱い液体が喉を焼きながら胃の腑に落ち、内臓がじわじわと脈動を取り戻していく。麺を啜れば、唇を滑り落ちるツルリとした質感と、歯を押し返すようなモチモチとした弾力が口いっぱいに広がる。
杏奈が握ったおにぎりに手を伸ばす。
芯の方に熱を宿した米の温もりと、海苔のパリッとした乾いた音。大きく頬張ると、口の中でハラリと解ける米粒の甘みと、梅干しの鋭い酸味が混ざり合い、唾液がじゅわりと溢れ出した。
「ポリッ、ボリッ……」
たくあんを噛み砕く小気味よい振動が頭蓋に響く。その冷たさと塩気が、うどんの温かさで弛緩した口内を鮮やかに引き締めた。
「……生き返るな」
「でしょ? 杏奈、あんたが美味しいって言うたびに、厨房の影でニヤニヤしてるわよ」
佑果が優しげに目を細めた。外の森は深い闇と静かな轟音に満ちている。けれどこの四畳半には、咀嚼の音と温かな体温だけが充満していた。
「んあぁ~、今日も疲れた~」
麻椰は背伸びをして、眠たそうに欠伸をした。
「それじゃあ、儀式は明日決行よ」
「佑果」
佑果が寝室へ下がろうとした時、俺は彼女を呼び止めた。
「ん?どうしたの?」
「あまりうまく言えないんだけどさ、助けてくれて本当に感謝しているんだ。ホントにありがとうな」
そういうと佑果は照れくさそうな顔になった。
「何よ今更、別に私だってその…」
彼女は昨日のことを思い出し、顔を横に振って忘れようとするそぶりを見せた。
「あぁもう、私はそんな柄じゃないし。いい?夜更かしなんかしないで、ちゃんと起きてくるのよ」
そう言うと彼女は、恥ずかしさを隠すかのように、襖を勢いよく閉めた。
「へぇ、そういう趣味もあるんだ」
麻椰は俺を突いてからかった。
「どういう意味なのさ?」
「この女たらし」
「…そんなつもり全く無いんだけどな」
襖の向こうでは、佑果は荒い吐息で胸を上下させながら聞き耳を立てていた。
(はぁ…もう、あんなこと言ったけど、これじゃあ私が眠れそうにないじゃない)
彼女は両手で頬を軽く叩くと、電灯を消して布団に横たわり、枕に顔を埋めた。
———
ちょうどその頃 ——。
「へぇ…あそこに『御神体』があるって噂ね…」
「ねぇアルコーン、何か情報つかめた?」
「ちょっと待ってよ、今観察中なんだから」
闇夜に溶けて怪しげな二人組が、新原神社の動きを観察していた。
「うち、もっと派手に動きたいんだけど」
「あんたね、これヘマしたら来月はもやし生活って、分かってるでしょうね!?」
「そんなの『Black Moon』らしくないわ」
そう言うと彼女は、生い茂る樹木から華麗に飛び降りた。
「闇夜に紛れて颯爽と躍り出るのが、かっこいいに決まってるでしょ!」
「はぁ…また失敗し無けりゃいいけど」
「さぁて、仕事の時間ね」
彼女たちは音もなく地面に着地すると、暗闇へと消えていった。
———
夜。尿意を覚えて目を覚ます。
「ん…まだ夜か。お手洗い行かないと」
隣を見たら麻椰はまだ寝ていた。残念ながらここの神社のお手洗いは外にしかない。麻椰を起こさないよう、畳を軋ませないようにゆっくりと立ち上がり、社務室を出た。外履きに足を滑り込ませると、月夜の冷気が薄いベールのように肌を包み込む。
「ふわぁ…眠いなぁ」
俺は少し下がったところにある便所に向かって歩いて行った。お手洗いを済ませ、顔も洗ってさっぱりしてから外に出る。
ふと俺は視界の右側から射抜くような視線を感じる。
こんな時間に人が出歩いているはずがない。
俺は恐る恐る視線の先を見た。
顔も目も足も無い。全身が白尽くめの三角頭巾が、そこに立っていた。
(こ、こいつっ…佑果が言っていた!?)
背筋を氷の刃でなぞられたような緊張が走る。冷や汗が滲み、心臓の鼓動が肋骨を突き破らんばかりに昂る。俺はゆっくりと後退した。相手は動かず、ただそこに澱んだ空気のように佇んでいる。ただこちらをずっと窺っているように見えた。
(迂闊に動いたら何されるか分からない…ここは救援を呼ぶしかないが…)
社務室とここまでの距離はそれなりにあった。もし大声で助けを呼んだとして、だとしても誘拐されるリスクもある。彼らの実力は推し量れない。俺はずっと警戒して前を見ながら、後退することぐらいしか出来なかった。
(どうすればいい…?)
一瞬、空気が軽くなった。シュッ、と鋭く空気を切り裂く音。耳元を掠め、薔薇の花びらが舞い散る。一直線に放たれた「何か」が頭部に当たると、その三角頭巾は地面に落ちた。
首から上が無かった。実体のない虚構の空白。
「ここに来たからには、生きて帰れると思わないでよね」
凛とした透き通る声。俺は膝が笑いそうになるのを堪えた。
その三角頭巾は、落ちたのを拾い上げ頭につけると、ゆっくりと後退し闇の煙の中に消えて行った。
「なんでこんな時に、ここにいるわけ?」
苛立ちを隠せない様子で佑果は俺に詰め寄った。
「お手洗いしにきただけなんだ。というか…佑果起きてたの?」
「う、うるさいわね!」
そう言うと彼女は先ほどの三角頭巾がいた場所で、何かを探すように地面をじっと見つめた。
「何かおかしいところはなかった?」
「えぇと…足が無かったような」
彼女は一瞬戸惑い顔をこわばらせたが、地面に目を凝らして何か見つけたように目を見開いた。彼女が手に取ったものは煙がかって見えにくかったが、トランプのカードみたいだった。
「この模様は…うーんよく見えないわ」
「これは…ジョーカー?」
俺はそう言うと、彼女は怪訝そうな俺の眼を見つめ、もう一回カードを見つめ、顔が豹変した。
「くそっ、やられた!!今社務室には麻椰と杏奈しかいない!!これはブラフだわ!!」
彼女は慌てた様子で坂を駆け上がる。
「何が起きているんだ?」
俺は息を切らせながら彼女に問うた。
「あいつらはきっと『御神体』を狙っているはず。ここの神社のものじゃない」
「それってどんな見た目なんだ」
「それは」
彼女が言い終える前に、空の月を跨ぐ二つの影が宙を舞った。
「あいたっ!!」「いてっ!!!」
どうやら着地が上手くいかなかったらしい。
佑果はその姿に向かって声を荒げた。
「何しに来たのよあんたたち、誰?」
その2人の影は足を払って汚れを落とすと、正面を向いた。
「よくぞ聞いてくれましたっ!私たちは『Black Moon』」
「影に隠れ、影に潜み、影に生きる」
「「この『Black Moon』が正義のお仕置きよ!!」」
「…はぁ」
(これは…何を見させられているのだろうか)
「ちょっと、溜息つかれたじゃない!」「はぁ、いつまでこんなのに付き合わされるんだろうか」「ポーズが悪かったのかしら、それとも着地?うーんそれとも」
「あなたたち!!!」
佑果の声で空気が張り詰める。
「何が正義のお仕置きよ!!その箱!!返してちょうだい!!!」
「やっべ、逃げねぇと!!」「捕まえてごらんなさーい!!」
箱が2つに分裂し、本物がどっちかさっぱり分からなくなった。
「くっ!!二手に分かれましょ!!」
「分かった!」
俺は石段を飛び降りるようにして、派手な羽飾りを揺らして逃げる人影を追った。足裏に伝わる砂利の不規則な振動と、肺を焼くような冷たい夜気の感触。 必死に腕を振り、生い茂る木々の隙間を縫うようにして距離を詰めていく。
「捕まえてごらんなさーい! ほらほらっ!」
挑発的な声が響く。相手は身軽で、まるで重力を無視したように屋根を蹴り、別の建物へと逃れていく。
だが、俺は死に物狂いでその影に飛びついた。
「……捕まえたぞ!」
「ひゃんっ!?」
もみ合いになり、俺の指先に、硬く、冷たい木箱の感触が触れた。 漆塗りのような滑らかな表面を爪が滑る。俺は渾身の力でその箱を奪い取ると、地面を転がりながら距離を取った。
「あちゃー! やられちゃったぁ。アルコーン、逃げるわよっ!」
「だから言ったじゃない! もう、撤収!」
二つの影は煙玉を地面に叩きつけた。シュルルルと噴き出す白煙が視界を奪い、鼻を突く硫黄のような臭いが喉を刺激する。
俺は激しく咳き込みながらも、奪い取った箱を胸に強く抱きしめた。
「はぁ、はぁ……。やった、取り返したぞ……!」
霧が晴れる頃、反対側から佑果も戻ってきた。その手には、もう一つの箱が握られている。
「……こっちも確保したわ。全く、逃げ足だけは速いんだから」
「無事でよかったぁ! 由記、ナイスファイト!」
騒ぎを聞きつけて飛び出してきた麻椰と、パジャマ姿で目を丸くしている杏奈が駆け寄ってくる。
「これが『御神体』……」
俺は掌に伝わる、ずっしりとした箱の重みを確かめた。月明かりに照らされた箱は、遠い年月をかけて守られてきた確かな重みを感じられた。佑果は緊張した面持ちで、俺は手元にある箱に手をかけた。俺はごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと蓋を開ける。木の擦れる「ギギッ」という乾いた音が、静まり返った境内に響いた。
だが。
蓋を開けた瞬間、俺の指先に伝わってきたのは、威厳のある年代物ではなかった。
「……え?」
箱の中から飛び出してきたのは、スプリング仕掛けの巨大なピコピコハンマーだった。
「あだっ!?」
勢いよく飛び出したハンマーが俺の鼻柱を直撃し、プラスチック特有の安っぽい衝撃と『パフッ!』というマぬけな音が響き渡る。
「ちょっと、こっちはどうなのよ!?」
佑果が慌てて自分の持っていた箱を開ける。中に入っていたのは、『御神体』——ではなく、色とりどりの「金平糖」と、一枚のメッセージカードだった。俺は鼻を押さえながら、落ちたカードを拾い上げた。そこには、踊るような文字でこう記されている。
『 深夜のパトロール、お疲れ様! 喉が渇いたらそのお菓子でも食べてね。本物は、もう少し「高い場所」で預かっておくよ。 —— Black Moonより 』
「……一杯食わされたってわけね」
佑果がわなわなと肩を震わせ、手に持っていた箱を地面に叩きつけた。
「な、なにこれぇ! うちの感動を返しなさいよぉー!」
麻椰が地団駄を踏み、杏奈はポカンと口を開けたまま固まっている。
俺は鼻に残るジンジンとした痛みの余韻を感じながら、遠くの夜空を仰ぎ見た。雲の向こう、天を貫く『ユグドラシル』が、俺たちを嘲笑うかのように怪しく明滅している。




