Echo 14 『 新原神社 』
「…とうとう、うちら2人だけになったね~」
「暗くなる前に早くいかないとな」
「ちょ、まだ降りたばっかだから…待っててばー」
山に足を踏み入れた瞬間に世界が切り替わった。
外界の乾いた熱気は嘘のように霧散し、肌を撫でる風が、しっとりとした重みを帯びていく。
鳥居をくぐり抜けた先、そこに広がっていたのは、数千年の時を止めたままの「森羅万象」だった。足の裏から伝わる参道の石畳は、幾万人の足跡に磨かれて驚くほど滑らかだ。けれど、その奥には確かな硬さが残っている。
左右から迫りくる杉の巨木たちは、天を突く矛のようにそびえ立ち、威圧感を持って俺を迎え入れた。ふと、その厚い樹皮に触れてみる。指先を這わせると、ゴツゴツとした生命の年輪が手のひらを強く押し返してきた。見上げれば、重なり合う枝葉が天然の天蓋となり、陽光を無数の断片へと砕いている。時折、その光の粒が頬を掠める。微かな熱と、森の深い呼吸が肌に触れ、俺は小さく息を呑んだ。
道沿いを流れる新原川のせせらぎが、鼓膜を心地よく震わせる。それは単なる音ではなく、空間全体を支配する清涼な脈動だ。飛沫が弾けるたびに、冷やされた空気が薄いベールのようになって全身を包み込み、首筋に滲んだ汗をゆっくりと奪い去っていく。
視線を上げると、この聖域の真骨頂である「巨岩」がその姿を現した。
「行者岩」に「鞍掛岩」――それらは湿った苔を分厚く纏い、どっしりとした湿り気を放ちながらそこに鎮座していた。岩肌に近づけば、太古の火山活動が残した荒々しい質感と、雨露をたっぷりと吸い込んだ土の匂いが鼻を突く。巨大な岩の割れ目に、まるで吸い込まれるようにして建てられた朱塗りの社殿。
その古びた木材が放つ微かな脂の匂いと、長い年月をかけて染み付いたお香の香りが混じり合い、肺の奥まで清められていくのを感じる。さらに奥へ進むため、急峻な石段に足をかけた。一段、また一段と踏みしめるたび、太ももに心地よい負荷がかかり、呼吸はわずかに熱を帯びていく。だが、その熱い息を吐き出すたびに、自分の中に溜まっていた濁りが洗われていくような、不思議な感覚に包まれた。
最奥の「御姿岩」に辿り着いたとき、俺の五感は最高潮に達した。社殿の背後に覆いかぶさるようにそびえる巨岩。それはもはや無機質な石などではなく、意志を持った巨大な生き物そのものに見えた。岩から滲み出る静かな冷気、絶え間なく滴り落ちる水の音。そして、森全体が発する「静かな轟音」。その力に圧倒され、ただ立ち尽くす。そのとき、俺の皮膚は確かに、この森の一部として溶け込んでいくのを感じていた。
「そ、そんなに急ぐことないじゃない…」
その声に現実に意識が呼び戻され、我に返った。
「もう少しだから、そこで休もう」
「あぁ…一体どこなのよ~、その場所ってのは」
苛立ちを隠せない麻椰をなだめていると、背後から澄んだ声が響いた。
「あのぉ…参拝客でしょうか?」
振り返ると、夕日でオレンジ色に染まったその頬は、どこか透き通るような非現実的な質感を湛えていた。その瞳には動揺と困惑、そして淡い期待が混じり合っている。
「も、もしかして…執行者様?」
「あ、あぁ確かにそのように聞いているが」
言い終わらぬうちに、その龍巫女は俺の両手を固く握りしめた。彼女の手のひらは驚くほど熱く、指先に触れる柔らかな感触から、言葉以上の切実さが伝わってくる。
「ずっとお慕いしておりました。お会いできて光栄ですっ!」
彼女の異様な期待とは裏腹に、俺は記憶喪失であるため全く実感が湧かなかった。
「会って早々で悪いんだが…由依はここで看病されていると聞いてきたんだ」
俺がそう告げると、彼女はハッとした顔で手を離し、しとやかに両手を重ねた。
「これは失礼いたしました。私ここの巫女をしております若林 杏奈と申します。」
彼女は出会いの喜びを隠せぬまま、指先を細かく絡ませ、強張った肩を震わせながら、精一杯の緊張感でもてなそうとしていた。
「では、こちらにどうぞっ!」
彼女の先導に俺と麻椰は付いて行った。
———
——— 社務室にて
「ほらぁ、苦いかもしれないけどちゃんと飲むのよ」
奥の部屋では、もう一人の龍巫女が布団に横たわる由依を看病していた。
由依は高熱に浮かされ、乱れた吐息と共に身体を小さく震わせている。その肌は不自然な熱を放ち、苦しげに胸を上下させていた。
「はぁ…お姉さんが誘拐された上に、この子も攫われて捨てられていただなんて…不憫よね」
「お姉さん、お客様がいらっしゃいましたよ」
その声に、看病していた巫女が少しだけ声を尖らせた。
「今看病中なんだから、お客さんは後で…って」
振り返った彼女の視線が、俺の姿を捉えて止まった。
「由依っ!!!」
俺は荒々しく靴を脱ぎ捨て、足裏に畳の摩擦を感じながら由依の傍らへ駆け寄った。
「ちょ、ちょっと!病気が移ったらどうすんの!ただでさえ危篤な状態だってのに」
「…ふぅ…はぁ…由記お兄ちゃん?」
「由依!無事だったのか。ごめん、ごめんよ…忘れてしまって...」
俺は込み上げる涙を堪えきれず、由依の熱い身体を壊さないよう、けれど確かめるように抱きしめた。
「お姉ちゃんが…連れていかれてしまったの...」
「あぁ、話は聞いてる。俺が必ず、甘奈を助け出してやるからな」
「…そう…由記お兄ちゃんなら、出来るって信じてるから。お姉ちゃんをお願い…」
彼女は安堵したのか、強張っていた身体をふっと緩め、規則正しい寝息を立て始めた。
「……あなたの大切な人の妹さんだったのね」
「そうだ。俺はここに来て、甘奈のことも聞こうと思っていたんだ」
俺は真剣な眼差しで彼女に懇願した。
「どうすればいい?俺に何かできることはあるか?」
「…あのね、急ぎたい気持ちは分かるんだけど、杏奈の儀式の準備もしなきゃいけないし、結構大掛かりなの。だから数日間、ここに泊っていきなさい」
「あぁ、ようやく休めるぅ…くたくただよぉ」
麻椰が畳の上でゴロンと仰向けになり、手足を大きく伸ばした。硬い畳が背中を支える感触に、全ての緊張が抜けていく。
「そうね。執行者は記憶損失だって言うし、少し状況を整理したいところだしね」
彼女はそう言うと俺を見て少しバツが悪そうな顔になった。
「えっと…自己紹介が遅れたけど、私ここの巫女をしてる若林 佑果と言います。あなたたちには悪いけど、しばらく協力してもらうわ」
「あぁ~、ご飯食べられるなら嬉しいんだけどなぁ」
「こら麻椰、一応お世話になる身なんだから、そんなことは言わない」
「えぇだって、そしたらどこで食べるのさ。魚でも釣って焼いて食うの?」
…まぁ確かに、一方的にこちらから押しかけているようなものだから、そのあたりはもう少ししっかり考えておくべきだったな。
「まぁいいでしょう。ただし、ここはホテルじゃありませんから、1日2食までです。今回は特別ですよ」
あぁ、助かった。俺と麻椰が安堵した瞬間、腹の底から情けない音が鳴り響いた。
「早速で悪いけど、ごちそうになってもいいかな?」
「えぇ、すぐに用意いたしますので待ってくださいね、執行者様!」
「こらぁ、そうやって勝手に決めないの杏奈。嬉しいのは分かるけど、もう少し計画的にやりなさいよね」
杏奈が嬉しそうに駆け出していく。佑果はその背中を見送りながら、小さく溜息をついた。
拝殿を揺らす風の音が、遠くで低く唸っている。さっきまで歩いていた参道の険しさが、今はこの静かな社務室の畳を通じて、じんわりとした下半身の重だるさとして残っていた。
「さあ、冷めないうちに召し上がってください」
杏奈が運んできたおぼんが、低めの木机にコトリと置かれた。漆塗りの御椀から立ち上る湯気が、目の前でゆらゆらと白く踊っている。鼻先をかすめたのは、どこか懐かしい、発酵した味噌の濃い香りと、炊き立ての米が放つ甘い芳香だ。
まずは、箸を割る。指先に伝わる割り箸の、カサリとした白木の感触。それを丁寧に割り、まずはみそ汁の御椀を手に取った。指先から伝わる御椀の熱が、かじかんでいた手のひらをじわじわと解かしていく。
一口、汁を啜る。
「……あぁ」
熱い液体が喉を通り、胃の奥まで真っ直ぐに落ちていく感覚。出汁の旨味と味噌の塩気が、染み渡るように五臓六腑に広がった。具材の豆腐は、舌の上で頼りなく崩れ、その淡白な甘みが荒れた心まで穏やかにしてくる。
次に、茶碗にこんもりと盛られた白い米に箸を伸ばす。粒の立った米を一口頬張れば、噛むたびに程よい弾力が歯を押し返し、唾液と混ざり合って濃厚な甘みへと変わっていく。この、重みのある「主食」の感覚が、今まさに自分の生命を繋いでいるのだと、心の奥底で噛みしめる。
箸休めに、小皿の漬物をつまむ。薄く切られた黄色に染められた沢庵を噛み締めると、ポリッ、ポリッという小気味よい音が、静かな部屋の中で自分の頭蓋に響いた。ひんやりとした冷たさと、ツンと鼻に抜ける酸味。それが、米の甘みで満たされた口内を、鋭く、それでいて心地よく引き締めてくれる。
「どう?見栄えこそしないかもしれないけど、これでも十分美味しいでしょ」
向かい側に座る佑果が、少しだけ表情を緩めて訊ねてきた。
「……ああ。生き返るよ」
外ではまだ、新原山の深い森がざわめいている。けれど、この四畳半ほどの空間には、ただ米を噛み締める音と、汁を啜る温かな気配だけが充満していた。簡素な食事。けれど、この確かな味と感触こそが、今、俺がこの「現実」に立っている唯一の証拠のように思えた。
「あぁ~お腹いっぱい。このまま寝ちゃいそう」
「布団は押し入れの中にありますから、好きに使ってくださいね」
杏奈はそう言うと、俺たちの食器を片付けてくれた。
「ありがとう杏奈。俺も手伝うよ」
「あ、あの…その…」
杏奈は顔を赤らめ、両手で指先をモジモジとした。
「えっと、どうしたんだ?」
「もう、そのくらい察しなさいよ。あんたが近くにいるせいで、杏奈が集中できないんだから、余計なお世話よ」
佑果は俺に文句を言うと、俺は苦笑した。
「べっ、別に!嫌いとかじゃありませんから!!その…嬉しくて」
「杏奈、夜も遅くなってきたんだし早く片付けないと」
「あぁ~!すみませんっ、今すぐ片付けてきますからぁ!」
杏奈はドタバタと速足で食器を下げて持っていった。
「えっと…杏奈ちゃんっていつもあんな感じなのか?」
「どうでしょうね~、毎日あんたの抱き枕を抱きしめてるくらいには意識してるんでしょうけど」
…喜べばいいのか、笑えばいいのか。
佑果の苦言に苦笑いしていると、厨房の方でドッシャーーン!!と派手な音が響いた。
「あぁ!!!うぅ…食器を落としちゃいました…」
(……あんな調子だと心配なんだよな)
「はぁ…私が見に行くから、あんたたちは寝る準備をしなさいな」
佑果は畳を力強く蹴って立ち上がり、厨房へと駆け込んでいった。
麻椰の不慣れな手つきを借りて布団を敷き、俺たちは由依の隣室で休むことにした。
「うち布団人生2度目!!あぁ布団で寝れるなんて幸せ~」
「麻椰、未夏の身体にいた時はノーカンなのか?」
「えぇ~?まぁ快適だったけど、狭いし手足伸ばしにくいしで自由ではなかったかも?」
「…今のは聞かなかったことにするよ」
俺は若干の気まずさを覚えながら、布団のシーツの糊のきいた感触と、社務室に漂う乾いた野草の匂いが、身体を深い眠りへと誘う。
「ふわぁ~、お腹いっぱいで眠いし、うち先に寝るね~」
「あぁ、おやすみ」
電灯の紐を力強く引き、目を瞑った。何分だっただろうか。意識が闇に落ちかけたその時。




