Echo 13 『 黒い馬 』
——— 新原高等学校 生徒会室にて
「…状況が動き出したようね」
怪しげな雰囲気の中、彼女は9つの頭を持つ蛇の燭台を撫でながら、心の眼で主人公たちの状況を観察していた。
「んで、私の出番はないってわけ?」
甘娜はそう言うと、目を細めて生徒会長の机に腰を掛けた。
「今回は直接行くわけじゃないのよ…あなたが失敗したから彼らが直接出向くことになっているの」
「ふーん、つまんない」
彼女は机から降りると、近くに備えてあったパイプ椅子に座り、足を組んで背中を預けた。
どこからともなく紫色に光る蝶が現れ、机の上に降りてくる。
「そろそろ時間か」
「えぇ、私は情報を提供したわ。約束はしっかり守ってちょうだい」
生徒会長は人差し指で蝶を突つくが、意に介さないそぶりで蝶は机に留まる。
「心配に及ばない。あの腰抜けの裏切者は我ら「壊れた神の教会」が必ず叩き潰す。邪魔者は排除するまでだ」
事務的な、感情が乗っていない声。言葉1つ1つに、冷徹な処刑宣告が打刻されているかのようだった。
「そう、では契約更新でよろしくて?」
革張り椅子の音が軽快に鳴る。
「お前たちが裏切らない限り、我々は神と共にある」
ひらりと舞ったかと思うと、蝶は歪んだ異空間に吸い込まれるようにして消えた。
「今回は我々の出番は無いようですね」
シスターは剣の手入れを執拗に何度も繰り返し、舐めるような目つきで鞘に納めると、金属のこすれる音が部屋に軋む。
「ただこれで少なくとも、私たちは自由に動ける時間が出来たというわけ」
生徒会長が深く腰掛けたその姿に、一同は思慮を巡らせる。
甘娜は物足りなさそうな顔で、ぶつくさ文句を言った。
「彼ともうちょっと遊びたかったのになぁ」
「それはあなたが失敗したからではなくて?」
厳格な声が、室内の空気を氷のように冷たく張り詰めさせた。彼女は生徒会長の机に深々と腰を掛ける。がら空きの背中を見せつける様は、彼女が相応の実力の持ち主であることを物語っていた。
「姉として妹への教育が行き届いていないのでは?」
彼女は微笑んで天井を見つめ、生徒会長に問いかける。
「あのねぇ…お姉ちゃんは関係ないでしょ」
甘娜は苛立ちを隠せなかった。力では互角と言い張りながらも、彼女の前ではただ爪を噛むことしかできなかった。
「でも十分時間稼ぎにはなったわ。おかげであの小娘を誘拐できた」
「うーん…でも苦しそうにしてましたよ…」
もう一人、シスターの弱弱しい声が彼女に抗議する。
「えぇ、でも彼らをおびき出すにはこうするしかなかった。情報を与えれば勝手に来てくれるのだから安いものよ」
そう言うと彼女は真剣な表情で目だけを動かし、張り詰めた声が生徒会室に響く。
「新原高等学校の生徒会長として、どんな手段を採ってでも存続させることが優先第一なの」
——— 一方その頃
「はっや——————い!!!」
ハヤブサになったかのような猛烈な加速。風が耳元を轟々と吹き抜け、景色が線となって後方へ流れていく。
「まるで風のようになったかのようだろ?」
「こんなにスピードを出して大丈夫なんですか……」
「気にすんな、これくらいなんともない」
一榎は慣れた手つきでスピードをどんどん上げる。
足がフワフワと浮くような浮遊感と、スピーカーから流れる軽快なリズムが不安を打ち消してくれた。
「あ、これ知ってる!|ブルーベリーズ《Blueberries》の曲でしょ?あの二人組小動物みたいな見た目で好きなんだよねぇ」
「麻椰、どうしてそんなの分かるんだ」
「え?だってあんたの妹さん、この曲よく聞いてたから嫌でも覚えるっしょ」
(…そういや妹の趣味なんて全く気にしたことなかったな…)
「僕もこの曲が好きなんだ。彼女たちに励まされてるような気分でね。ビートを刻みつけるように記憶に残りやすいんだ」
確かに聞いているとなんだか心まで踊ってしまうような気持ちになってくる。
(未夏もいつもこの曲を聞いていたのか…)
ジリジリッッ ......キュージリリリッジリッッジリッッ......
「あれっ、機械の故障?」
麻椰の疑念に、一榎は答えない。
「どうしたんだ?」
「あれを見ろ」
一榎はバックミラーに視線を向けて促す。
静寂が満ちる空間のなか、奇妙なまでの圧迫感に喉の奥がひりついた。バックミラー越しに、後方の暗闇へ溶け込む不自然な「《《黒い影》》」が視界に入った。最初は、ただ錯覚か、あるいは見間違いだと思おうとした。だが次の瞬間、皮膚の裏側を冷たい針で直に突き刺されるような、得体の知れない視線が背中にグサリと刺さる。
見られている。間違いなく、背後の「アレ」に、執拗に凝視されている。嫌な汗がじわりと首筋を伝っていく。バクバクと心臓の鼓動が不吉なリズムを刻み始めるなか、吸い寄せられるようにバックミラーへ目を凝らした——その瞬間、頭の芯がガチリと凍りつくような、総毛立つ戦慄が全身の毛穴を突き抜けた。
肺が酸素を受け付けるのを拒絶し、呼吸が完全に停止する。
ミラーの向こう、太陽の光に歪に浮かび上がったのは、夜の漆黒に引きずり込むような悍ましい異形だった。頭部には尖った王冠。そして、光を一切反射しない漆黒の影。衣服なのか肉体なのかすら判別のつかない闇の塊は、馬の肉体と境界なくドロドロに溶け合っているかのようで、そのシルエットはまるで神話に出てくる「ケンタウロス」にも見えた。奴の周囲の空気だけが、まるで生き物のようにねっとりと粘つく邪悪なオーラを放ち、空間ごと黒く歪ませている。
「——ッ!」
ひう、と喉の奥で引き攣った短い息が漏れた。次の瞬間、奴の四本の獣脚が、生物のものとは思えない爆発的な駆動で動き出した。アスファルトの地面を暴力的に抉り、肉片のような黒い泥を撒き散らしながら、凄まじい質量でこちらへ向かって足を走らせ、猛烈に迫ってくる。バックミラーのなかで、その悍ましい輪郭がまた一回り、急激に巨大化していく。
距離が、一瞬で詰まっていく。
人の顔などないはずの漆黒の頭部から、脳髄をじかに凝視されているような、底なしの狂気の圧が押し寄せる。心臓が肋骨の内側を壊れそうなほど叩き、指先は氷のように冷たくなっていった。じっとりと滲み出た手汗が、ハンドルを濡らす。
追いつかれる。捕まれば、魂ごと引き千切られる。
全身の細胞の一つ一つが、消えかける命を守ろうと全力で危険信号を鳴らしていた。理性が恐怖で思考を放棄するより早く、生き延びようとする生物としての防衛本能が、脳内で狂ったようにそう囁き、絶叫していた。
——— 逃げろ。今すぐ、死に物狂いでここから逃げろ。
俺は一榎を見た。分かっている、そんな顔で差し迫った恐怖に真剣な表情だった。
「ちっ、しゃらくせぇ…とっとと失せな!!」
一榎がレバーを引くとトランクが開き、次々と爆弾が後方に飛び散り乾いた空気が戦火によって張り裂けた。
しかしそれでも煙をかきわけ、あの漆黒のオーラが追いかけてくる。
「どどど、どうすればいいの!?!?うちらもしかして大ピンチ!?」
麻椰が顔から滝のように汗が噴き出し、慌てふためく。
「自慢のクラスター爆弾でも撒けねぇってことか…本気見せるしかねぇな」
「嬢ちゃん、車の運転を頼む」
一榎は車のルーフを開け上半身を後ろに捻り、腰につけていたリボルバー拳銃RSh-12を両手に構えた。
「『ガンスリンガー』の名は伊達じゃないってことを思い知らせてやらぁ!!」
「ちょちょちょちょっと!?うちまだ運転やったことないんですけどぉぉおおお!!!」
「『エニグマ ブースト - ヒート !!!』」
「…!!!『……!!!』」
咆哮のような銃声が鼓膜を打つ。次々と放たれる弾丸が金属を穿ち、ガトリングのように蜂の巣にする。
ピシッと金属音が割れたように、黒いオーラが煙のように消え去った。顔を見た時、俺はその姿に驚愕した。全身が金属で覆われ、顔は悪魔のような甲冑の見た目だった。
「なんだあの外骨格…」
「ちっ、よりにもよってあの手先だとは」
「知っているのか?」
「あぁ壊れた神の教会とかいう狂信者の集まりの中で、アノマリーの超能力を操れるメンバー。その選ばれた中であの異形はあいつらしかいねぇ」
「うぅ、なんとか話し合いで解決できないんすか?」
「頭のネジが外れたやつらに言葉なぞ通用するか。あれは全身機械化した筋金入りの脳筋アノマリーだぞ」
そんなことを話している最中、背後から心臓を冷たい手で直に掴まれたかのような、「死の気配」が急接近した。バックミラーをのぞき込む猶予すら与えられない。脳内の生存本能が、最大級の警鐘を鳴らし、全身の毛穴がぶわっと逆立つ。直後、鼓膜の奥へと冷酷に突き刺さるような詠唱が響き渡った。
「『アブソリュート ゼロ』」
世界から音が消えた。
凄絶なまでの絶対零度の波動が押し寄せ、周囲の大気が一気に氷結する。バキバキバキッ、と不吉な破砕音を立ててフロントガラスが一瞬で白く凍りつき、肌を切り裂くような凶悪な極寒が車内へと襲いかかってきた。吐き出す息は白さを通り越して凍えるほどになり、肺の奥が冷気で激痛を訴える。
「うわわわわわ!!!!!!めっちゃすべるぅぅううううう!!!!!!」
完全に凍結し鏡のようになった路面の上で、車体が激しく悲鳴を上げた。四本のタイヤまでもが瞬時に凍り付きそうになり、路面との摩擦を完全に失った金属の塊は、死のダンスを踊るようにスピンしながらガードレールへと猛スピードで滑り出していく。制御不能。このまま壁に激突してスクラップになるのも、完全に凍りついて肉塊にされるのも、もはや時間の問題だった。目の前に迫る冷たい死の壁。座席に叩きつけられる強烈な遠心力に、息をすることすら忘れる。
「くっ!!しっかり捕まってろ!!!!」
その絶望の淵を、一榎の鋭い声が切り裂いた。一榎はパニックに陥る社内を強引に割り込み、身をよじるようにして運転席へと滑り込む。手汗で滑りそうなハンドルをガチリと掴み直すと同時に、ダッシュボードの中央、赤く怪しく明滅する『Boost』ボタンを親指で力任せに押し込んだ。
カチ、という小さな起動音。一瞬の静寂——
——ヒュォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオ
「飛べぇぇぇぇええええええ!!!!」
——ドオオオオオオオオオオオオオン!!!!!!
一榎の咆哮と同時に、車体の後部から爆発的なエネルギーが解放された。ジェット噴射の青白い猛烈な炎が、鼓膜を容赦なく破壊するような大爆音を上げて炸裂する。氷の世界を力づくで焼き尽くすほどの圧倒的な推進力が、シートへと全員の身体を千切れるほど強く押し付けた。
強引にグリップを取り戻した車体は、路面を、重力を、そして背後から迫り来る死の氷結をその圧倒的なパワーで文字通り「振り切り」、空を切り裂く青い流星となって空へと高く、高く打ち出された。
「…目標追跡不可能と判断。ただちに帰投する」
「あら、いつもならしつこく追うのに、今日は諦めが早いのね」
「これを見てみろ」
漆黒の外骨格で身を包んだ彼女は、もう一人にそのひび割れを見せた。
「頭部の損傷はリスクを伴う。これ以上の戦闘は難しい」
「さすが、頼りになる~」
「私が傷付いたら守るのが難しくなる」
「そんなに気を遣わなくていいのに…でも」
その仮面から表情は窺えないが、少し不満そうな声色だった。
「いつもと調子が違うじゃない?」
「…そんなことはない」
「言い訳が下手よねぇ…あの男のことが気になったんでしょ」
金属の擦れる音が動揺を隠しきれず、ひび割れた仮面の奥で何かが揺れる。
「もしかして図星?」
「はぁ…そんなことはない。ただ完璧な状況で獲物を狩るだけだ」
「じゃあ、その日を待ってるわね」
彼女たちは黒い静寂の闇に沈んで消えた。
市内から山道へと入り、視界を埋め尽くすような深緑の山林地帯へと足を踏み入れた。初夏の生命力に溢れた木々が重なり合い、突き刺さるような日差しを遮ってくれる。肌をなでる空気はひんやりと湿り気を帯び、火照った身体を優しく鎮めてくれるような涼やかさがあった。夕闇が迫り、太陽が残光を惜しむように山嶺へと傾いていく。
「着いたぞ」
道を跨ぐ巨大な鳥居を通り抜け、一榎は俺たちに車を降りるよう促した。
「この先にある新原神社を訪ねるといい。そこに龍巫女が2人いる」
「え?本物のドラゴン!?」
麻椰が興奮した様子で身を乗り出す。
「神社を取り仕切ってる、龍の角が生えた巫女だ。きっと有力情報をもらえるだろうさ」
「由依がこの神社で看病されている、という話でしたよね」
「あぁ、そうだ。行方不明になってる人の情報も読み取れる貴重な御仁たちなんだ。失礼の無いようにしなよ」
そう言うと、彼女はエンジンの回転数を上げた。
「えっと、一榎はどっかにいくの?」
「あぁ、この先山を越えると峠をドリフト出来る最高の公道があるんだ。せっかく来たんだし楽しまなきゃな」
一榎がアクセルをフルスロットルに踏み込むと、内臓を揺さぶるような怒涛の爆音を響かせ、金色の車体は瞬く間に小さくなっていった。




