Echo 10 『 お兄ちゃんのバカッ!!!! 』
「それではと言っては何ですが、屋敷までおいでくださいませ」
彼女が乗っていた高級車の後部座席に案内されると、綾華は大丈夫だと頷いた。
「では遠慮なく…」
そう言って俺たちは車に乗り込んだ。
「辻ノ先輩は乗らないんですか?」
「…いや、今回は遠慮しておく。神社の片付けもあるのでね」
「そうか」
「由記。その……なんだ。お前は命の恩人だ。だからこれからは私を下の名前で呼ぶといい」
「えっと……綾華……先輩?」
綾華は少しだけ不満な様子で恥ずかしそうに視線を逸らし、耳の裏まで赤く染めてうつむいた。
「……あぁ、そう呼ぶといい」
俺は彼女に別れを告げ、柔らかな革の座席の感触を背中に感じながら、宝生院の車で屋敷へと向かった。
———
——— 車内にて
「それでは改めまして」
宝生院 早七が、流れるような動作で言葉を切り出した。
「初めまして。そしておかえりなさい、“ゆうき”くん」
出会った瞬間から肌を刺していた奇妙な既視感。改めて彼女の顔を覗き込むと、吸い込まれるようなその瞳の色が、俺自身のそれと鏡写しのように全く同じであることに気づき、背筋に微かな痺れが走った。
「…俺のお姉さん、ということか?」
「そうよ、そしてあなたがまだ執行者だった時、私は『運の女神』なんて呼ばれていたのよ」
彼女は一瞬だけ、遠い地平を見るような物寂しげな眼差しを浮かべ、「まぁ、もう昔のことだけれど」と吐息混じりに呟いた。
「その…」
「あぁ、早七でいいですわよ」
「…早七は、どうしてそんなに若いんだ?」
「あぁこれ?そうね、まずはあなたのことについて少し話さないといけませんわね」
彼女は、記憶の澱を掬い上げるように、ぽつりぽつりと語り始めた。
「あなたが海に沈められた時、私たちも黙っているはずも無かった。あなたを死刑にした人たちは、あなたの力だけを欲して何もかも抽出した。そしてあなたは抜け殻になってしまった。」
「でも私たちの協力者が内部に侵入して、あなたの力の源を一部奪取することに成功した。それをみんなで分け合うことで、老化を遅らせている」
「遅らせるだけなのか?」
「えぇ、一番いい方法はあなたの体液を直接身体の中に流し込むこと。それで若返りをするの。皮肉よね、人間の欲望のためにあなたが狙われるのは必然だって」
早七は、慈しみの色と深い悲しみが混ざり合った瞳でこちらを見た。家族を守ろうと、細い指先で懸命に運命を繋ぎ止めてきた必死さが、その表情から滲み出ていた。
「…俺を引き上げたのも、早七のおかげなのか?」
「私たちが引き上げた、と言うべきね。私はあなたの家族だから、ずっと目を付けられていたの。だから取引をしたの」
「取引?」
「まぁ内容なんて気にしなくていいわ。それより…」
彼女は俺の瞳をじっと覗き込み、恍惚とした、熱を帯びた表情で膝の上に跨ってきた。
「弟君、おかえり♪」
「あぁ、私の可愛い弟、帰ってくるのをずっと心待ちにしてたのよ」
彼女は強引に俺の口を塞ぎ、湿潤な舌を執拗に絡ませた。ヌチュリという粘着音が車内に響き、鼻腔を彼女の甘い香りが満たす。
「よーしよし、偉かったねぇ。お姉ちゃんが辛かった分も甘やかしてあげますからね~」
「あぁ心配しなくていいわよ。防音ばっちりで運転席に伝わらないから~」
露わになった瑞々しい肌の感触が胸に押し付けられ、脳内が真っ白に塗り潰されていく。
身体が言うことを聞かない。むしろ彼女のリードに導かれるように、指先から力が抜け、ドロドロに溶かされるままだった。脈動する粘膜が、一滴も余さず吸い尽くそうとするように熱くまとわりつく。視界から青い火花が消えるのと同時に、脳内に押し寄せていた猛烈な波が、ゆっくりと引いていくのを感じた。
「はぁ…ごちそうさまでした」
彼女はウェットティッシュで口周りを拭くと、俺の顔を見て満足そうに微笑んだ。
「そろそろ着きますよお嬢様」
素榛が車を停め、ドアを開く。そこは、静謐な空気が肌に触れる、詫び寂びの効いた古き良き邸宅だった。
「こちらにどうぞ」
華緋が扉を開け、俺は奥の部屋に通された。
———
——— 宝生院邸にて
昔ながらの畳。仄かに香る陽だまりに照らされたイ草の、青く乾いた匂い。足裏で感じる畳の凹凸は滑らかで、毎日丁寧な手入れがされているのが、肌越しに伝わってくる。正坐で組もうとすると、早七は胡坐でいいと言ってくれたため足を楽にさせて座った。
風通しがよく襖を開けた先には、和モダンな日本庭園が広がる。冷たそうな水玉模様の飛び石、規則正しく敷き詰められた白川御影砂利。その中心に、うねるような威圧感を持って鎮座する三波石。素榛が点ててくれた抹茶の深い苦みと熱さが、じんわりと五臓六腑に染み渡る。
「さて...まずは現状知っておかなければならないことについて、情報を共有いたしますわ。陽大」
呼びかけに応じ、空気がわずかに爆ぜるような気配と共に影が現れた。
「お呼びになりましたか?」
「最近の動向について目立ったところはありましたか?」
「特にありません!引き続き監視しますっ!」
ドロンと、煙のような質感だけを残して跡形もなく消えた。
俺は目をまんまるにして驚いていると、彼女はクスリと笑った。
「彼女はクノーでしてよ。あなたの先輩にあたる人ってところかしら」
(ふむ...同じ学校の先輩もいるのか...)
俺はふと疑問に思ったことを話した。
「早七の財団って、俺の学校を運営してるの?」
「そうよ、あの学校にあなたを入れたのも私の手筈なのよ」
「ってことは、あの生徒会長も?」
「えぇ、彼女は陽大の妹ですね。彼女の手腕にはとても感心しているんですよ」
(全て彼女の計算通りってことか...)
俺には以前から聞きたかったことがある。
「甘奈は今どこにいるんだ?ここ最近見かけないんだが」
早七の柔らかな笑みが消え、空気がピリリと引き締まるような真剣な面持ちに変わった。
(まさか...)俺は固唾を飲んだ。
「彼女なら無事よ…今のところはね…」
俺は少しだけ安心した。
「場所は?どこなんだ?」
「それが実は分かってないの、妹さんを別の場所で預かってて彼女ずっとうなされているのよね」
胃の腑を冷たい手で掴まれるような、気味の悪い感覚。それでも彼女たちを救わねばならないという決意が、腹の底で固まった。
「…それだと俺の妹の安否が心配だな…」
「それについてはご安心ください。彼女は当家にも出入りできるように許可しましたので、いつでも来れますよ」
「しかし…かなり距離があるじゃないか」
「少しだけあなたの能力を借りるわよ」
そう言うと彼女は指をパチンと鳴らした。すると、俺の身体から透明な熱気のような「何か」が抜け出し、みるみるうちに実体を持って、一人の女子高生の姿として目の前に顕現した。
「う、うわぁぁあああ!!!!なんだこれは!?」
「まぁそう驚かないでね。彼女まだ眠ってるから。華緋、彼女を起こしてあげなさい」
そう言うと華緋は、そのギャルっぽい見た目の女子高生を起こしてあげた。
「んみゃぁ…まだ寝たいんだけどぉ…うちなんで起こされてんの?」
彼女は目をこすり周囲を見渡すと、早七たちが放つ威圧感に圧倒され、瞳を潤ませた。
「うぅ、うちもう帰ってもいいすか?」
「ダメですよSCP-S759、もとい七本 彩福さん」
「うげっ、なんで私の名前知ってるし!?」
彼女は勘弁してくれという顔で「堪忍つかぁさい」と言いながら俺に懇願してきた。いや、俺も今初めて知ったから驚いているんだが。
「紹介しましょう、彼女はロードの本体とも言える中核の存在ですわね」
「なんで早七が知っているんだ…?」
「それは…」
彼女は頬を朱に染め、モジモジと指先を動かした。
「…乙女の秘密ってことにしていただけませんかしら?」
えぇ…そんなことある?
そう思っていると彩福は、こちらを見て不服そうに言った。
「乙女の秘密を暴こうとするだなんて最低な男っすね」
(いや、そんなこと俺に言われても困るんだが!?!?)
そんな理不尽をよそ目に、早七は話を続けた。
「実は彼女、元々は普通の女子高生だったんですけど、誤って能力を発動してあなたの中にずっといたんですよ」
「それであなたと同調していくうちに、あなたの能力そのものになっていったんです」
「えっとつまり…?」
俺は彩福を見ると、少しバツの悪そうな顔をして話した。
「えぇと…実は…『パラサイト プロトコル』ってのを発動しちゃいまして…」
(???なんだその能力は)
華緋が解説を挟んだ。
「つまり彼女は誰かの同意を経ることなく、宿主に寄生して栄養分を吸い続けることに特化した能力の持ち主です」
「えーっとつまり…居候?」
俺は彩福を見ると、どこからともなく取り出した鳩のお菓子を投げつけてきた。
「誰があんたの寄生虫ですか!!!ウチだって役に立ってたし!!!」
ポカポカと、猫のパンチのような感触で殴ってくる彩福を宥めるべく、早七に目配せすると鶴の一声を放った。
「彩福さん、彼の妹をここに連れてこられますか?」
「えぇ…めんどっちぃし…」
「今ならこのお屋敷でゲームやお菓子三昧で過ごせるように、手配してもよろしくてよ」
「やります!!やりますっ!!いえ、ぜひやらせてくださいっ!!」
「ふふ、聞き分けの良い子ですわね」
現金なやつだ。尻尾を振る子犬のように従順になった。
「はぁ…俺が主人なんだけどな」
そう言うと彩福は口を尖らせキャンキャン吠え始めた。
「うるさい!都合のいい時だけ呼び出す奴とは大違いなんだよ!」
「では早速やっていただけるかしら」
「もちろんです姉御!!!」
「早七と呼んでも構いませんわよ」
(まったく、これじゃあどっちが主人なんだか…)
彼女はロードの力を使い、時空間を繋げ始めると歪んだ扉が出現した。
ぬるりと人の肌が見えたと思ったその時、確かに俺の妹の姿が見え始めた。
「…!!未夏!!」
俺はその手を掴んだ。手繰り寄せた彼女の身体から、懐かしく確かな体温が伝わってくる。
「…お兄ちゃん…?」
「俺だよ、未夏。待たせてすまない」
俺はそう言うと未夏を抱きしめると、未夏はボロボロと泣き始めた。
「昨日夕方戻らなかったの、ホントに心配したんだからね!!!バカッ!!バカお兄ちゃん!!」
胸に響く、彼女の小さな拳の痛烈な衝撃。俺は彼女が泣き止むまで、その重みをしっかりと受け止めた。
「ほーん?これはもう出来ちゃってるって感じ?」
彩福がそう言って俺たちをからかった。少し驚いた顔で未夏が振り返ると俺に聞いてきた。
「お兄ちゃん、この人たち誰?」
「えっと…話せば色々長くなるんだけど。こっちが俺の姉の早七。こっちは…」
俺が言い終わらないうちに彩福は割り込んできた。
「どうも~彼んとこに居候してた彩福って言いま~す。これからよろしくね!未夏ちゃん!」
(あ、やべこれは怒られるやつだ)
「お兄ちゃん…これってどういうつもり???」
「えっと、これには深いわけがあってだな…」
未夏の手が、俺の頬を鋭くビンタした。パァンと乾いた音が響き、熱い痛みが走る。
「お兄ちゃんのバカッ!!!!」
(はぁ、心配してくれるのは嬉しいんだが、もう少し手心ってやつをだな…)
俺は何も言い返さず、彼女の怒りが鎮むのを待つしかなかった。
———
——— しばらくして
「えっとつまり彩福さんは、お兄ちゃんの中にずっといたってわけ?」
「まぁそうなるっしょ!あぁ大丈夫!!あんたの恥ずかしい姿は見てないからねっ!!」
未夏は顔を真っ赤にし、熱が出たように目を回して体育座りで顔を伏せた。
「うぅ…穴があったら入りたいよ…」
俺はそんな妹の肩をさすった。
「俺はもう気にしてないから…な?」
「…でも私が一番納得してないし…」
未夏は悶々としていた。
「それでは早速だけど、素榛、彩福。こちらにいらして」
早七は別室に俺たちを招き入れた。
「華緋、弟君の妹をお願いね」
「仰せのままにお嬢様」
俺たちは廊下を出て通路を突き進む。
「えっと、なんでうちが呼ばれたし」
「あなたがいないと話にならないからですわよ」
「ちぇ…ゲーム三昧で毎日過ごせるかと思ったのに」
「何か文句でも?」
「い、いえ!!全くございませんっ!!」
「素榛、あなたは入り口を守ってくださいな」
「承知いたしました」
早七が俺たちを招き入れたのは、装飾を削ぎ落とした、静謐で狭い和室だった。
「えぇと、こういうのって詫び寂びってやつ?」
「そうね。ここには最低限しか置かないですから」
「座布団はご自分で持っていらしてよ」
早七が持ち出した座布団のところから彩福の分までとり彼女に渡した。
使い込まれた布の感触を指に感じながら、俺たちは机も置かれていない畳の上で向かい合った。
「これで一安心ですわね」
「ふと疑問に思ったんだけどさ」
「なんでしょうか」
「俺たちを恐れているのなら、なんで殲滅をせずに監視なんかしてるんだろう」
「それにはSCPの生態が関わっています」
彼女は、重い真実を一つ一つ置くように語り始めた。




