Echo 09 『 始原の稲妻 』
降り頻る雨が、肌に刺さるような冷気を帯びてきた。
雨粒は容赦なく衣服を透かし、皮膚の熱をじわじわと奪い去っていく。吐息は白く混じり、指先はかじかんで感覚を失い始めていた。
「はぁ、つまんないの」
触手からは辻ノ綾華の力が、まるで枯れた井戸のように感じ取れない。
「でもぉ、メインディッシュはこれからっ♪」
彼女は彼の身体を掴むと、粘りつくような湿り気を持った触手を、吸い付くようにねっとりと絡め上げた。
「それじゃあ、あなたの精気をいただきま……」
その瞬間、鋭い閃光が彼女の網膜を焼いた。触手が力なくうなだれ、切り口からはドロリとした熱い血潮が、生々しい音を立てて噴き出す。
(この私が、後手を取るだなんて……!!!)
「くっぅ、誰っ!?」
「申し遅れました。私、十司 素榛と申します」
空から舞い降りるその姿は、天使か、あるいは悪魔か。片翼は漆黒、もう片方は純白。
「面白いことをやってくれるじゃない……!」
不敵な笑みを浮かべた彼女の周囲で、触手が大気を震わせ、地面を何度も叩きつける重低音が腹に響く。
「油断してはなりませんよ」
「何ですってぇ?!」
鋭利な刃が触手を掠め、火花と共に破片が勢いよく宙に舞った。
「誰っ?!」
彼女は驚愕に目を見開いた。先ほどから伏兵が二人もいたなど、計算外だったからだ。
「……!!! 躾のなってないメイドですわね!!!」
触手が地面を抉り、怒涛の衝撃波が肌を叩く。飛散するコンクリートの破片が頬を掠めるが、誰も傷一つ負っていない。
「……!!! どうして!??」
「大変申し上げにくいのですが、今あなたが攻撃したのは——」
十司 素榛は、冷徹な眼差しを向けて言い放った。
「残像です」
「ア、アハ、アハハハハハハハハハハ!!!!」
狂ったような高笑いが、瓦礫に反射し不協和音に響く。
「なかなかいい前菜じゃない!! そいつを食べるのは、あなたたちを喰らってからにしてやるわ!!!」
彼女が素榛に向かって突進しようとしたその時、空一面を埋め尽くす銀の稲妻が、彼女を標的に飛来する。
「このクリスタル スカルによって、あなたに死をもたらしましょう」
「『 ディバイド ゲルク 』」
熱を帯びた血の雨が降り注ぎ、大地は瞬く間に赤黒く染まっていく。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
絶叫と共に、肉塊は跡形もなく消滅した。
「目標、殲滅を確認」
「姉さま、お疲れさまでした」
「ふぅ、一時はどうなるかと思いましたが……間に合いましたね」
素榛と華緋はそう言うと、俺と綾華を背負い、一歩を踏み出した。
ミシッッッ
その小さな、しかし乾いた破壊音が、静まり返った戦場に響いた。
「……っ!!! 危ないっっ!!!」
素榛は華緋を庇ったが、避けることはできなかった。鈍い衝撃が腕を走り、雨に薄められた鮮血が、足元にどす黒い血溜まりを作っていく。
「……姉さま!! あぁ、私を庇ったばかりに……」
「気を付けろ。まだ来るぞ」
飛び散った肉片がうごめき、塊となって脈動を始める。その不気味な肉の波打つ音が耳障りに轟く。
「殲滅失敗、作戦変更だ。目標:SCP-E739を無力化する」
肉塊から無数の目玉が開き、粘つく視線でこちらをギョッと睨みつける。そのおぞましさに心臓を直接握りつぶされたような恐怖が走り、膝がガクガクと震え、大地に縫い付けられたように華緋は足がすくむ。
「華緋、やつの弱点を調べろ!!」
「えぇ姉さま……『 ザ ロード アイズ !! 』」
「……彼女は『6つの心臓』を宿している……ということは!」
「ちっ、あと4回倒さないと消滅しないのか。厄介な相手だな……」
「ミナ……コワス……コワシテヤル……!!!!」
空気を震わせる衝撃波。直後、大地が陥没し、巨大なクレーターが目の前で口を開けた。
「いくらこの時空が転移してるからといって、このままでは元の時空に甚大な影響が出るぞ…」
見渡す限りの残骸。赤く染まった、鉄錆の匂いが充満する戦場。
その戦闘の真っ只中、辻ノ 綾華が眼を醒ました。
「起きましたか、綾華」
「ぐっ……やつは本当に倒せるのか?」
「本領発揮じゃないかもしれないが、協力してくれるか?」
素榛は綾華の顔を窺いながら問いかける。
「はっ、言われるまでもない」
彼女は鉄骨を刀へと変え、凍てつくような集中力で精神を研ぎ澄ませた。彼女が剣を一振りすると、刀身から爆ぜるような炎が噴き出した。
「我が主に捧ぐ、この一振りが虚構を切り裂く道標とならんことを」
「『 神の名と共に、勝利は我にあり 』!!!」
刀は鳳凰の形へと変貌し、暴威的な熱風が鼓膜を震わせ、肌の表面をジリジリと焼き焦がす。
「尋常に、参るっ!!」
心臓の鼓動が一度、跳ねた。
直後、綾華の姿が視界から消失する。踏み込んだ足元のアスファルトが爆ぜ、肉塊の巨躯に一筋の紅い閃光が奔った。
「ギ、ガァアアア!!」
肉塊から無数に生えた目玉が、全方位から彼女を捉えようと蠢く。しかし、遅い。
鳳凰の翼を纏った彼女の軌跡は、重力を無視した超高速の演舞となって、異形の肉を縦横無尽に裁断していく。
「ハッ、フゥッ……!」
短く鋭い呼気。肺の奥が灼熱の空気に焼かれ、視界が酸素不足で一瞬、明滅する。だが、彼女の集中力は極限を超えていた。
肉塊から放たれた赤黒い触手が、死角から彼女の心臓を狙って殺到する。
「……くっ!」
背筋を駆け抜ける、死の冷気。
彼女は空中で身体を捻り、紙一重でそれを回避した。頬をかすめた触手の風圧で皮膚が裂け、熱い血が滴る。滞空するわずか一秒に満たない刹那。彼女は残る全精力を、鳳凰の輝きへと凝縮させた。
静寂。
周囲の雨音さえも消えたかのような、奇妙な無音。指先から感覚が消え、ただ「斬る」という意志だけが神経を直走る。
「これで、最後っっ!!!!」
絶叫と共に、鳳凰の咆哮が戦場を呑み込んだ。光の渦が異形の核を真っ二つに両断し、熱せられた血潮が沸騰する音を立てて周囲に撒き散らされる。
彼女の刀が肉塊を切り裂いた時、それは断末魔を上げる暇もなく、泥のように崩れ落ちた。
ドサリ、と重苦しい音が響き、急激に熱を失った大気が雨に冷やされる。
彼女は残身を崩さぬまま、肩で激しく呼吸を刻んだ。指先が、限界を超えた負荷でワナワナと痙攣し、握り締めた柄を離すことさえできない。
「……あ、……はぁ……」
喉の奥からせり上がる、焼けるような血の匂い。命を削り、虚構を断ち切ったその一撃の代償が、じわじわと彼女の身体を蝕んでいく。
勝利の余韻に浸る間もなく、肺を突き刺すような苦痛と、極度の緊張から解放された脱力感が、彼女を泥濘の地へと引きずり込もうとしていた。
「うっ……」
無理が祟り、綾華が膝をつく。激しい息遣いが雨音に混じる。
「まだ来るぞ、自己再生が終わらないうちに——」
空気が一瞬で氷結したかのように静まり返った。
華緋が振り返った先には、肉の触手に串刺しにされ、宙に浮く素榛の姿があった。
「あ……あ……姉さま……姉さま……」
「くそっ、どこに隠れていやがる」
戦場を覆う血溜まりが、再び意思を持つ怪物へと変貌していく。逃げ場のない、絶望の粘着質な感触。
———
……どれくらい経ったのだろうか。
悲鳴が戦場に響く。身体が鉛のように重い。
目を開けるとそこには絶望が佇んでいた。
「助けなければ……」
俺は泥を噛むように身体を持ち上げると、右手をその忌まわしい血溜まりに突っ込んだ。
「何をしている!?」
右手の神経を、何千本の針が突き刺すような激痛が走り抜ける。俺は歯を食いしばり、雄たけびを上げた。血が右腕にまとわりつき、皮膚の毛穴から筋肉の奥深くまで浸透していく。
右腕に電撃が走り出す。
『 ロード インバーテッド !!!!!』
空気中の血潮が渦を巻き、俺の右腕へと集束する。腕が捻じ曲がり、骨が軋む痛みに耐え、全神経を指先に集中させた。
血の主導権が俺に移り、素榛が拘束から解き放たれる。
眩暈と共に、世界が鼓動するのを感じる。
喜びも束の間、彼の視線の先には、一人の少女が立っていた。
「うーん、ちょっと想定外というかぁ…もうちょっとで勝てそうだったのになぁ」
そこには少女の姿をしたSCP-E739が立っていた。
「あーでもでも、4 vs 1で互角に持ち込めたから、実質私の勝ちって感じ?」
俺は両手を合わせて笑っている彼女を睨みつけると、彼女は少し困ったような顔を見せた。
「えっとさぁ、今回は引き分けってことにしておかなーい? 残機も少なくなってきたことだしさ、ねぇ?」
少女は頼みごとをするかのように懇願してくる。
「お前の考えはお見通しだ。そうやって油断した隙を突いてくるやつだってことをな」
綾華が彼女の要求に乗らないように、鋭い口調で言い放った。
「なーんか傷付いちゃったなぁ、一応これでも同じ女子高生なんだよ?」
彼女は俺を試すように、舐めるような視線で上から下までじろじろと見た。
「へぇ……なかなかやるじゃん。」
「あんたになら特別に教えてもやってもいいかな…知りたくない?甘奈の場所」
心臓が跳ねた。なぜ甘奈という名前を知っているんだ。薄れる記憶の中で甘奈という言葉だけが、脳内に反響していた。
「彼女に何をした!!!」
「まぁそれはぁ、うちのところに来れば教えてやってもいいけど?」
「よせ、由記。あいつは適当な作り話をして喋っているだけだぞ」
「へぇ、まぁ確かにあんたのいう通りだ・け・ど」
少女は邪魔しないでと言わんばかりに、綾華を睨みつける。
「あんたを救世主と呼んで待ちわびてる子たちが、こっちにもいるってことは、覚えておいた方がいいかもね」
「…あんたの手には乗らないぞ」
俺は彼女の要求を冷たくあしらった。
「あら残念。それじゃあ彼女の血は保険として預かっておくね~」
彼女は素榛を左手で指差ししながら、透明なカプセルに詰め込まれた血を右手で見せつける。
「姉さまの…姉さまの血を返せ!!!」
「あらぁ怖い。そんな顔してると余計に老けた顔になっちゃうわよ?」
「その必要はない」
綾華の制止を振り切り、俺は彼女の前に出た。
「俺の右腕を持っていくがいい」
俺は赤く染まった右腕を差し出した。
女はきょとんとした後、腹を抱えて大笑いした。
「アハハハハ!!!!この男面白い!!!自分が何言ってるのか分かってるの?」
「どうかこれで、俺たちを見逃してくれないか?」
「何をバカげたことをっ…!!!」
「ふぅん、なかなか分かってるじゃない」
彼女はそう言って両手を俺の手に置いた。
「俺は在原 由記だ。由記と呼んでくれ」
「私の名前は 吉原 甘娜。由記くんになら下の名前で呼ばれてもいいかもねっ」
「早く持っていったらどうだ?」
「ふふ、はいはい。じゃあ遠慮なく~」
彼女の手が、俺の腕を切り離そうと冷たい触手を絡めてきた。その瞬間を、俺は待っていた。
グラグラする頭の中で、俺は一部の記憶を取り戻したのを見逃さなかった。
「引っかかったな」
「なっ!!!?」
俺は声を大にして言った。
右腕の電撃が、バチバチと空気を震わせる。
『 ブラッド インバーテッド !!!! 』
血管を逆流するような衝撃と共に、すべての血が本来の所有者の元へ引き戻されていく。
「うぅ、私は何を……」
「姉さま!!」
「力が、戻っていく……」
三人は驚いたように、自身の身体を見つめていた。
甘娜の身体が悔しさと怒りでワナワナと震えだす。
「な、なにをしたって言うの...!?」
「記憶を取り戻したんだ。さぁ、どうする?」
甘娜が俺の腕を見ると、先ほどとは打って変わって顔が青ざめていた。
「こ、後悔しても知らないんだからね!!!!!」
その時、目の前に幻想的な紫色の蝶が舞った。
「甘娜、そこまでだ。お前は賭けに負けた。お前を連れて帰る」
「……ふ、ふん!!! 次があるって勘違いしないでよね!!!」
彼女は蝶と共に、空間が歪むような異様な静寂の中に消えていった。
「終わったのか…」
俺はそう言うと、みんなから安堵の声が聞こえた。
「あぁ〜! 一時はどうなるかと思いました……」
華緋は元気を取り戻した素榛を心配し、後ろからぎゅぅっと抱きついた。
「……私が力不足なばかりに。済まない」
「綾華様は悪くありません」
素榛は綾華が気落とすのを気遣い、優しく声をかける。
「はは……それはそうと……」
俺は、目の前に並ぶ少女たちを見て、素朴な疑問を口にした。
「どうして、こんなにいっぱい集まったのかな……」
「それは私が説明しましてよ」
後ろから、清涼な風のように凛とした声が響いた。
毅然とした、清楚な雰囲気をまとった少女。
「申し遅れました。私は八咫烏財団を束ねる、宝生院 早七と申します」
彼女の姿を見た瞬間、胸の奥がチリりと熱くなった。どこかで、ずっと昔に会ったことがあるような、懐かしくも切ない直感が全身を駆け巡る。




