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AI少女の転生特典~119番を呼べなかったAIが異世界で俺を再構築する。代償は利き手、甘味、そして彼女の命~  作者: 鳴島悠希


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第99話 ターレ港再び

 船が港の外縁を回り込んだ瞬間、鼻の奥に来た。


 エルセアの匂いだった。潮と、岩と、わずかに腐敗に似た何か——腐敗そのものではなく、腐敗を下に含んでいる、という重さの匂い。最初にこの港に降りた時は、これを「海の匂い」だと思った。今は違うと分かる。瘴気がある場所の空気は、底が少し違う。


 アルヴェリアの港は清潔だった。石灰の白さと水路の澄み——その後でここに戻ると、差がはっきり出る。


 甲板に出ると、風が正面から来た。耳の後ろを撫でる冷たさがあって、それから潮の粒が唇に当たった。恒一は手すりに手をかけたまま港の全景を見た。桟橋に作業者の影がいくつかあって、荷物を運んでいた。いつもと変わらない動きだった。しかし——人の数が少ない。


 ユミナが隣に来た。


「どう見える」と恒一は言った。


「……桟橋の荷量が、前より三割ほど少ないと思います」とユミナは言った。「積み出しは通常です。積み入れが減っています」


「商人が来なくなったか」


「入港船が少ない、ということだと思います」


 風が変わった。底の重さが一瞬強くなった。恒一の皮膚が、それを感知した——感知というより、皮膚の下が反応する、という感覚だった。4回目の身体になってから、こういう反応が増えていた。意識より先に体が何かを記録する。今の反応を内心で言語化するなら、「何かが増えている」だった。何が、とはまだ言えなかった。


「降りましょう」とユミナが言った。


 船が接岸した。


 ---


 桟橋は石畳の積み重ねで、船から陸への移行が段差なく続いていた。踏み出した瞬間に足の裏から地面の固さが来た。船上と陸上では、揺れの有無より地面の密度が違う。恒一はそれを感じながら荷袋を担ぎ直した。


 受付の建屋で入港手続きをした。担当者は一人だった。以前は二人いたはずだった。確認する気にはなれなかった。


 港から城下への通りに出ると、匂いが変わった。ここには焼いた肉の香りが混じっていた。露店が一軒出ていて、串に刺した何かを焼いている。炭の煙が流れてきた。あたりまえの日常が並んでいた。しかし通りを歩く人が、心持ち目線を下げているように見えた。これは主観かもしれなかった。


 ドラク商会の事務所は港から三区画入ったところにある。二ヶ月前に初めて来た時と、外観は変わっていなかった。石積みの外壁、鉄の看板、正面に立つ守衛の一人——守衛は恒一の顔を見た瞬間に、一度瞬きをした。


「……コウイチさんですよね」


「そうだ。グレンはいるか」


「います。どうぞ」


 中に入ると、事務室の奥から声が来た。


「聞こえてる」


 グレンは奥の机に座っていた。文書を一枚手に持ったまま、視線を上げた。眼光は変わっていなかった。あの、計算している時の目だった。


「生きて帰ったか」とグレンは言った。


「利益は生きて帰ってから数えろ、って言ってたな」


「言ったな」とグレンは言った。短く鼻を鳴らした。感情の動きを出力しないままの、承認の音だった。「座れ。話がある」


 恒一は椅子に腰を下ろした。ユミナが隣に立った。グレンは一度ユミナを見た。それから恒一に目を戻した。


「ガルシュタインが撤退を決めた」とグレンは言った。


 恒一は即座に返さなかった。少し間を置いた。


「いつから」


「今週中に引き上げ完了の予定だ。ガルシュタインだけじゃない。中規模の会社が三社、先月から撤退している。今月でさらに二社が判断待ちだ」


「なぜ今」と恒一は言った。「瘴気は前からあった」


「今月に入って、中層の探索コストが上がった」とグレンは言った。「変異動物の行動圏が二層ぶん上がった。採掘収益が落ちた。計算が合わなくなった——大手はそう判断する」


「ドラクは」


 グレンが手の文書を机に置いた。


「逃げる奴は勝手にしろ。うちは最後まで潜る」


 断言だった。声に熱がなかった分、重さがあった。恒一はそれを聞いた。


「理由を聞いていいか」


「ここ以外に場所がない社員が何人かいる」とグレンは言った。「それだけだ」


 説明ではなく、事実の報告だった。それ以上の言葉はなかった。


「ヘルマ班は」と恒一は言った。


「事務所の詰所に入ってる。お前が来ると言ったら、待ってると言っていた」とグレンは言った。「ヴェルダ・ロートも今日の午後に着く予定になっている」


「ヴェルダが直接来るのか」


「ああ。荷物が多い。助手を一人連れてくるらしい」


 それは想定していなかった。恒一は少し考えた。ヴェルダが実地に来るということは、アルヴェリアからの共有情報か、あるいは自分で確認したいものがあるということだった。


「リガードは」


「ガルシュタインは撤退するが、リガードは残ると言ってきた。個人的な判断だ。ガルシュタイン上層部とは話をつけたらしい」


 恒一は少し眉を上げた。


「……あいつが単独で動くとは思わなかった」


「俺も思わなかった」とグレンは言った。「ただ、そういう男だということだ。受け入れた」


 部屋の奥で何かが落ちた音がした。事務員の誰かが棚から書類を落としたようだった。あたりまえの音だった。それが余計に、今いる場所の普通さを際立てていた。外の瘴気の重さと、この部屋の日常的な空気が、同じ建物の中に並んでいた。


「作戦の詳細は」とグレンは言った。「俺が聞く必要がある話か」


 恒一は一拍置いた。


「いくつかある」と言った。「全部かどうかは、まだ整理中だ」


「整理ができたら来い」とグレンは言った。「俺に言えない部分があっても構わない。ただし社員の安全に関わる判断は教えろ。それだけだ」


「分かった」


 グレンが立ち上がった。終わりの動作だった。


「ヘルマ班は二階だ。階段を上がって右の突き当たり。ノルが入口で待ってるはずだ」


 ---


 階段を上がると、ノルが本当に入口のそばに立っていた。


 腕を組んで壁にもたれていた。廊下に出た二人を見た瞬間、腕が解けた。


「先輩!」


「……生きてる」


「マジで生きてたんすね!」とノルは言った。「いや、生きてると思ってたっすよ、連絡来てたし。でも直接見ると全然違うっていうか——」そこで口を止めた。一拍置いた。「……先輩、なんか変わりましたよね」


 恒一は少し間を置いた。


「変わった、か」


「目の感じが、っすかね。前より——」ノルは言葉を探すような顔をした。「止まる場所が増えた感じがするっす。前は一個見たら次に移ってたんすけど、今は一個のところに少し長くいる、みたいな」


 ユミナが横で小さく何かをするのを恒一は感じた。声は出していなかった。


「そうかもしれない」と恒一は言った。


「とりあえず中っすよ。ヘルマ先輩が待ってるっす」


 扉を押すと、部屋の中に炒った豆の匂いがあった。ヘルマが机の上に文書を広げていて、顔を上げた。


「……帰ってきたか」


 短かった。それで十分だった。


 恒一は荷袋を床に置いた。椅子に腰を下ろした。机の上に並んでいるのは、探索記録の写しだった。最新のものだった。区画ごとの変異動物の出現報告、瘴気濃度の観測値、地盤沈下の記録——ヘルマが着々と集めていた情報だった。


「ひと通り見る」と恒一は言った。「説明してくれ」


「ああ」とヘルマは言った。机の上の一枚を手に取った。「二層から上は通常運用できる。ただし三層以下は変異動物の分布が変わった。従来の安定区画に新しい個体が入り込んでいる。経路の更新が追いついていない」


「どの程度の変化だ」


「俺たちが最後に降りた時から比べると、安全に通れる経路が三割落ちた」とヘルマは言った。「遠回りすれば行ける。ただし時間がかかる」


「深層までの所要は」


「以前より半日ほど余分に見てほしい」


 恒一は頭の中で計算した。前世の感覚での換算——六時間。積み上げると、往復で一日以上の差が出る。


「地盤は」


「五層以深は、波が来ている」とヘルマは言った。「整流をかけながら移動することになる。連続作業になるから、俺の消耗が早い」


「補佐は」


「ノルがいる。問題ない」とヘルマは言った。それから一拍。「ヴェルダが来ると聞いた。彼女が加わるなら、読み取りと経路判断の精度が上がる。助かる」


 珍しい言葉だった。ヘルマが「助かる」と言うのはそう多くなかった。


「ヴェルダは今日の午後に着く」と恒一は言った。「グレンから聞いた」


「分かった」


 報告と確認のやり取りが続いた。部屋の中の空気が落ち着いていた。炒り豆の匂いが薄くなっていた。窓の外に港の桟橋の先が見えて、その向こうに海がある。空は曇っていた。雲の縁が低く、光が均一に落ちていた。


 ユミナが机の上の記録の一枚を手に取った。視線がすっと止まった。


「この数値は」とユミナが言った。「五層の瘴気濃度です」


「ああ」とヘルマは言った。「今月に入って上がっている」


「上昇の速度が変わっています」とユミナは言った。「前月の傾きと今月の傾きを比べると——加速しています」


 ヘルマが少し顔を上げた。


「分かってる。だから早く降りる必要がある」


 窓の外で風が来た。木の枠が微かに鳴った。ユミナが記録を机に戻した。


「続きは夕方に」と恒一は言った。「ヴェルダが来てから、一度全員で合わせる」


「ああ」とヘルマは言った。


 恒一は立ち上がった。部屋を出る前に一度窓の外を見た。港の向こうの海は穏やかだった。波が立っていなかった。それでも、水平線の手前のどこかに、何かの重さがあるような気がした。


 気がした、というだけで、確認する方法は今はなかった。



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