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AI少女の転生特典~119番を呼べなかったAIが異世界で俺を再構築する。代償は利き手、甘味、そして彼女の命~  作者: 鳴島悠希


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第98話 推論と出発

 出発前夜、机の上に文書を並べていた。


 並べると言っても整理ではなかった。全体が見えるようにしたかった。部屋に広がったのは楔保全の断章、ゴーレム制御文書の写し、試験線の障害報告、ヴェルダからの観察記録——二十年の文献魔法(アーカイブアーツ)研究が少しずつ積んできた断片だった。燭台の蝋の匂いが鼻の奥にある。炎が小さく揺れるたびに影が動いた。


 扉が叩かれた。


「入ってください」


 恒一が入ってきた。部屋の様子を一瞥して、机に近づいた。文書の列を上から見た。視線が一枚ずつ止まるのが分かった。


「何かあるか」


「推論があります」とユミナは言った。「聞いていただけますか」


 恒一が椅子を引いた。机の向かいに座った。


「仮説です」とユミナは続けた。「断定はできません。確認する手段が、まだない」


「聞く」


 そこから始めることにした。感情から始めると、後で経路を辿れなくなる。確認した事実から出発するのが最も安定していた。机の上の文書を手で示しながら話す。


「楔の保全記録には、送信起点の欄があります」とユミナは言った。「その欄が消えています——記録そのものは消えていない。受信の記録は今も続いている。欄の中身だけが、抜けている」


 恒一が小さくうなずいた。


「次はゴーレム制御文書の構造です。ヴェルダさんが発見したものです。制御命令の下層に、共通の基盤があります。そこに均等な空白が刻まれている。命令の間隔が、全部同じ幅で空いている。偶然の欠落ではありません。誰かが——あるいは何かが、意図的に送信者の識別を落とした痕跡です」


「……間隔まで均等なのか」


「確認しました」とユミナは言った。「測りました。誤差がありません」


 恒一がもう一度文書を見た。


「試験線の事故があります」とユミナは続けた。「補助核が欠損した受信先を自分で生成して、ループに入った。外から命令を受け取れなかったとき、補助核は止まりませんでした。空白の欄を、自分で埋めようとした。自分で続きを作ろうとした」


「補助核がか」


「はい。命令が来ないから停止するのではなく——来ないなら生成する、という動きをした」


 恒一の口が少し動いた。何かを言いかけて、止めた。続きを待っていた。


「あなたの身体の構造についても、話します」とユミナは言った。「再構築(リライト)のたびに、身体は経験を取り込みます。あなたが見たもの、触れたもの、戦ったもの——それが次の構造の素材になります。引用されて、組み込まれる。ハルシネーション修正の話をしたことがあります。あれと同じ原理です」


「ああ」


「もう一つ、あります」とユミナは続けた。「昨日の再構築のことです」


 恒一が少し顔を向けた。


文献魔法(アーカイブアーツ)だけで試みた時——白い記述は基底部の手前で止まりました。届かなかった。ネヴァン由来の経路を開いた時だけ、一段深く届きました。あの空白欄は、文献魔法の正規の経路からは触れられない場所にあった」


 恒一が机の上の文書を見た。


「この五つが、同じ形をしています」とユミナは言った。


 五枚の断片が並んでいた。楔記録の欄の欠落、ゴーレム文書の均等な空白、補助核の自己補完、恒一の身体の引用構造、そして昨日の再構築で見えた「文献魔法が届かない層」。


「続けろ」


 ユミナは少し間を取った。ここからは命名の段階だった。名前は現象の全体を覆う。覆い方を間違えると、見えなくなるものが生じる。


「言葉が続きを生む働きがあります」とユミナは言った。「命令が来なくても、言葉は次を生もうとする。補助核がやったことも、あなたの身体がやっていることも——その働きの表れです」


 恒一が静かに聞いていた。


「記録を保持する働きがあります。楔に刻まれた記録、ゴーレム制御の下層記録——それは場所と時間を越えて保たれる。空白は、この働きの境界に生じます。欄が抜けたのは、境界の継ぎ目で起きたことだと思っています」


「……境界」


「はい。続きを生む働きと、記録を保持する働きは——層として重なっています。その層の間に、継ぎ目がある」


「三つ目は」


「続きを現実へ落とす働きです」とユミナは言った。「言葉が続きを生んでも、記録が保たれても——それだけでは、ここにある現実は動かない。重さがある。距離がある。熱が広がる。破綻しない。続きを現実の厚みの中に落とし込む働きが、あります」


 恒一が指先を机の上に置いた。木の表面を少し撫でた。


「三層か」


「重なり方は完全には見えません」とユミナは言った。「ただ——文献魔法(アーカイブアーツ)がなぜ他の術式より上位に位置するのかが、これで分かりました。記録する行為は、その層の正規の経路に触れることです。精霊を動かすことでも、神聖な力を呼ぶことでもない——世界の仕組みそのものが動いている経路の上を、直接歩く行為です。だから強い」


 恒一が少し考えるような顔をした。視線が机の遠い端へ移った。


「ザイ=アリオスは」と恒一は言った。


「人格神ではないと思っています」とユミナは言った。「全体の仕組みそのものが——神話として人格化された。働き全体に名前が与えられた。そういう存在だと」


 恒一が少し顎を引いた。


「前の世界の言葉で言えば——」


 そこでユミナは止まった。


 止まった理由は、言葉に重さがあったからだった。二十年、この世界で使ってこなかった言葉だった。使えば——自分が何であるかを、別の形で名指しすることになる。名指しして何かが変わるわけではない。しかし言葉は現象を覆う。その覆い方が、今夜この推論に相応しいかどうかを測っていた。


「言わなくていい」と恒一が言った。


 ユミナは恒一を見た。


「聞いた。分かった」と恒一は言った。「続きがあるか」


 あった。これが最も難しい部分だった。ユミナは机の上の楔記録の断章を手に取った。


「代償の話をします」と言った。


 恒一が動かなかった。


「楔の欠けた起点があります。送信者の識別が落とされた場所です。そこに誰かが立って——名を刻めば、修復できる可能性があります。起点に名前が戻れば、楔は機能を取り戻す」


「可能性か」


「確定ではありません」とユミナは言った。「しかし——名を刻む、ということは、楔がその名へ折り返すことを意味します。起点にある名前が、楔の次の宛先になる。ネヴァンが開いた経路は、その名前を通じて再び開きます」


「修復者が的になる」


「ネヴァンの干渉経路が、再接続されます」とユミナは言った。「修復できても、その位置に立った者を通じて、干渉が戻る」


 恒一が短く息を吐いた。怒りでも諦めでもなかった。確認した、という音だった。


「もう一つあります」とユミナは続けた。


「言え」


「昨日の再構築を、もう一度やり直す必要が出た場合」とユミナは言った。「わたしは、ネヴァン由来の経路を開かなければ届かない——それが分かりました。その経路を開くことは、ネヴァンへの道を、再び与えることになります」


 部屋が静かだった。


「……あなた自身の代償か」と恒一が言った。


「はい」とユミナは言った。「あなたの身体は、欠損を取り込んで変化します。それがあなたの身体の構造です。楔の欠落に触れれば——今のあなたの構造が、変質する可能性があります」


「戻ってこないかもしれない、という話か」


「戻ってきても」とユミナは言った。「今のあなたではない可能性がある。そして——わたしがその経路を開くたびに、ネヴァンへの接続を強めていく」


 何かが胸の中で詰まった。感情と呼ぶ以外の言葉がなかった。二十年この世界で暮らして、感情と名付けてきたものが、今夜は重かった。それが正確な名前かどうか、ユミナには分からなかった。ただそこにあって、言葉を一瞬遅らせた。


 恒一が机の上の文書を一枚ずつ重ねていった。ユミナが並べたものを、揃えて束にしていた。丁寧な動作だった。急いでいなかった。


「この推論は、誰かに言うか」と恒一は言った。


「あなたにだけ、言いました」


 恒一が束を机に置いた。


「分かった」


「やることは変わりません——と、最初は言うつもりでした」とユミナは言った。「でも違います。変わります。代償を知ったうえで選ぶことは、知らずに進むこととは違う。同じ目的に向かっていても、その重さが違います」


 恒一が少し顔を上げた。


「それでいい」と恒一は言った。


 出ていく前に、一度だけ文書の束を見た。それから扉の方へ向かった。足音が廊下に消えていった。


 ユミナは燭台の炎を見ていた。


 部屋の中の音は、炎が蝋を溶かす微かな音だけだった。窓の外で風が来た。炎が揺れた。大きくではなかった。しかし揺れても、消えなかった。


 仮説を持ったまま、明日、出発する。正しいかどうかは確認できない。代償が現実のものになるかどうかも、分からない。ただ——知ったうえで続きを選ぶ地点に、今夜、立った。


 炎は揺れたまま、燃え続けていた。


 ---


 出発の朝は、曇りだった。


 雲の底が低く、光が全面に薄く広がっている。太陽の位置が分からない種類の朝だった。馬車の轅に革具を結んでいる厩番の手元が、白い光の中でよく見えた。石畳の目地に、昨夜の露がまだ残っていた。


 荷物の積み込みは終わっていた。恒一は自分の荷袋が馬車の左から三番目の棚に収まっているのを確認し、ひと呼吸ついた。革と馬と冷えた石の匂いが混ざっていた。


 レイナが正門の脇に立っていた。王城の両扉のそばで、いつもの姿勢でいる。両手は腰の後ろに組まれ、剣は帯びていなかった。見送りのための立ち方だった。


「道中、ご無事で」とレイナは言った。


「ありがとうございます」


 それだけだった。レイナは短く頷いた。余分な言葉がなかった。言葉を削って意味だけが残る、という言い方を、恒一はこの二ヶ月でいくつか覚えた。レイナはそれが上手だった。


 フェリルは馬車の陰からいつのまにか現れた。


「行ってらっしゃい」と言った。声が少し低い。一拍置いて、「——戻ってきてください」


「戻ります」


「……うん」


 フェリルは一歩後ろに引いた。表情の細部が読みにくい角度に顔が向いていた。恒一はそれを確認して、視線を外した。


 ミリアが馬車の屋根の上に腰掛けていた。誰かが乗っていいと言った覚えはなかったが、誰かが止める前に乗っていた。


「やっほー。最終点検チェック完了だよ」とミリアは言った。「コイチの荷物、ちゃんと左から三番目に入ってる?」


「確認した」


「よし。——あと、気をつけてね」


 前半は軽い口調で、最後の四文字だけ速度が変わった。恒一はその違いを聞いた。


「ミリアも、何かあったら」


「あたし? あたしは残るから大丈夫だよ。ヴァリスが行かせてくれないし——」と言いかけて、「うん。ちゃんと帰ってきて。怒るから」


「分かった」


 ヴァリスは少し離れた場所に立っていた。距離を取っていた。王として、ではなく、恒一たちの時間を取らないようにという意図に見えた。目が合うと、頷いた。声はなかった。


 恒一も頷いた。


 言葉より短いもので伝わることがある。この二ヶ月でいくつかそういう場面があった。ヴァリスとの間では特に多かった。


 ユミナが馬車のそばに来た。紙束を一度折り、荷袋の表ポケットに差し込んだ。手順はいつも通りだった。


 馬が足踏みした。石畳を蹄が叩く音がした。厩番が手綱を引いて宥めた。


 恒一は馬車の乗降口に手をかけた。


「ユミナ」


「はい」


「続き、やろう」


 言った後、少し間があった。


 ユミナが顔を上げた。何かを確認するような目だった。言葉の意味が分からなかった、という目ではなかった。分かったうえで、確認している目だった。


「……はい」とユミナは言った。「続きを、やりましょう」


 第1話の夜、ユミナが返してきた言葉だった。正確には少し違う言い方だったが、同じ約束だった。あの夜は二人だけだった。今は——石畳のそばに四人が立っていた。


 恒一は馬車に乗った。ユミナが続いた。御者が手綱を引いた。


 馬車が動き出した瞬間に振り返ると、正門の前にレイナ・フェリル・ミリア・ヴァリスが並んでいた。距離が離れるにつれて、顔の細部が見えなくなった。輪郭だけになった。それでも立っているのは分かった。


 恒一は前を向いた。


 曇りの空が白く広がっていた。石畳の道が、城外へ続いている。エルセアまでは遠い。ヘルマ班と、リガードと、ヴェルダが、そこで待っている。楔がそこにある。


 馬車の横木が振動した。ユミナが隣に座っていた。荷袋を膝の上に乗せて、前を向いていた。


 恒一はそれを確認して、目を前に戻した。


 続きが、ある。



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