第97話 出発前の日々
出発まで三日になった朝、朝食の味が変わっていた。
正確には、以前と同じ料理を食べているのに、味の輪郭が一段細かく来る。パンの表面の焼け具合と内側の柔らかさが別のものとして届く。スープに入っているハーブの種類が、以前は「何かある」程度だったのに、今は二種類の草の香りを別々に認識していた。以前の身体でここまで分かったかどうか、確認する手段がない。しかし違う気がした。
四回目の身体は、感知が細かい。
それが単純にいいことかどうかはまだ分からなかった。多く入ってくる分、処理が追いつかない瞬間がある。石畳を歩く時、以前は「硬い」だけだったのが、今は継ぎ目の感触まで来る。歩きながら考えごとをしていると、足の下の情報量が多すぎて、どちらかが雑になる。ユミナに言うべきかと思ったが、「記録しました」と返ってくるだろうことは分かっていた。問題があれば言う、と自分で判断した。
その日の作業は書類の整理だった。
恒一の担当はアルヴェリアでの調査でユミナが集めた記録の写し——楔記録の断章、試験線の障害報告、ゴーレム制御文書の解析メモ——を、エルセアへの携行に適した形に仕分けする作業だった。ユミナが優先度をつけ、恒一が束にして封をする。単純な仕事だった。
文書を手に取るたびに、文字の読み方が変わっていることに気づいた。
以前は「読める」だった。今は「読んでいる」と感じる。以前の身体の時より、一語の密度が違う。文字の形を目が追いながら、音と意味が同時に来る感覚があった。三回目の身体の時に「試しに読んだら読めた」と気づいた段階から、もう一段進んでいる。
書かれている内容を追いながら、ふと手が止まった。
楔記録の写しの一枚を持っている。内容を読もうとしていたが——手が止まったのは、内容のためではなかった。空白の欄があった。送信者の欄が除かれた形式の記録だった。文字として認識する前に、指の腹が紙の表面で止まっていた。
何かがある、ではなく——何かがない、という感覚が、文字を読むより先に来た。
試しにもう一枚取った。送信者欄が正常に記録されている文書だった。指が止まらなかった。また一枚。空白の欄がある文書だった。指が、欄の上で一瞬、止まった。
止まった。それだけだった。
意識より先に来る、とはこういうことか、と思った。記録を「読む」のではなく、記録の「形」を身体が先に拾っている。術式の感知でもない。目で見た情報でもない——触れた感触から、欠けている部分の形が来る。ユミナに言うべきか迷って、黙っておくことにした。言えば「記録しました」より先に「侵入の糸口になりうる」という分析が来る気がして、今はまだ自分だけで持っていたかった。
午後になって、ユミナが調査ノートの最終確認をしていた。
恒一は隣の机で封筒に宛先を書いていた。しばらく、お互いの作業の音だけがあった。
「分かりません」とユミナが言った。
恒一は手を止めた。書き損じたかと思ったが、ユミナは自分のノートを見ていた。
「楔の外縁構造が——このページと次のページで、整合しない部分があります。わたしが写し間違えたのか、原本に齟齬があるのか、解析に誤りがあるのか。今のところ、判断できません」
「どれくらい重要か」
「分かりません」
もう一度、同じ言葉が来た。以前のユミナなら「断言するべきでない」「確認が足りない」という形を取っていた。今は違う言い方だった。分からない、という事実をそのまま置いた。
「持っていくか」と恒一は言った。
「はい。現地で原本と照合します」
「それでいい」
ユミナが頷いた。ノートを閉じた。閉じ方が、いつもより少し遅かった。
夜、荷物をまとめながら、恒一は今日気づいたことを整理した。
指が空白の上で止まった。ユミナが「分かりません」と言った。どちらも小さな変化だった。小さいが、方向がある変化だった。指の止まり方には使い道があるかもしれない。ユミナの「分かりません」は、使い道とは別の話だった。
封筒の束を革袋に入れて、紐を結んだ。窓の外に王城の灯りが見えた。街の灯りより少ない。夜の空気が冷えていた。出発まで、あと三日だった。
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出発前日の昼過ぎ、フェリルが廊下で声をかけてきた。
恒一が荷物の最終確認から戻る途中だった。壁際に立っているフェリルと目が合った。
「少し、よろしいですか」
「聞く」と恒一は言った。
フェリルが内庭に続く扉を示した。人のいない場所で話したい、という意味だった。
内庭に出ると、午後の日差しが石畳に白く落ちていた。日当たりのいい壁際に花が植えられていた。その香りが何か分からなかった。
フェリルが足を止めた。恒一も止まった。
「先日の話の続きを、してもいいですか」とフェリルは言った。「保守台帳とわたしのノートの、書式の話です」
「ああ」
「もう少し調べました」とフェリルは続けた。「地名の一致だけではなく——記録の優先順位のつけ方、省略の仕方、欄の配置まで似ていました。わたしが世界観を作った時に参照したフォーマットと、ここの文書の形が」
恒一は黙って聞いていた。
「わたしが書いたものは、物語です」とフェリルは言った。「TRPGのフリー世界観を参考にした、わたしの物語でした。それが、ここにある」
少し間があった。内庭の向こうで鳥が短く鳴いた。
「わたしは前の世界で、物語を書いていました」とフェリルは続けた。「ここへ来てから、ずっと考えていました。自分が参照した世界観と、ここが一致しているということは——わたしはここの物語を、書いていたのか。それとも、ここにある物語を外から見ていただけなのか」
恒一には判断する材料がなかった。ただ、フェリルが長い時間その問いを持ち続けていたことは分かった。
「もし本当にこの世界が、あの世界観の続きだったとしても」とフェリルは言った。「あなたは——それでよかったと、思えますか」
恒一は石畳を見た。白い光が目地を作っていた。
フェリルが問うのは、恒一に対してだけではない気がした。自分が書いた世界に自分がいる、という感覚を恒一は持っていない。しかし——「ここへ来たことが、誰かの手順だったとすれば」という問いは、似た形をしていた。出自が自分のものではない場所から来ているとすれば、ここにいることは借り物なのか、という問い。
「仮に誰かに書かれた世界でも」と恒一は言った。「ここで一緒に生きた時間まで、借り物にはならない」
フェリルが少しの間、黙っていた。
「……そうですね」と言った。
短かった。短い返答だったが、「そうかもしれません」ではなかった。確認の言葉だった。
「わたしは」とフェリルは続けた。「今度はこの世界の物語を書き始めています。前とは違う——参照するものではなく、ここにいて見たものを書いている。そうするうちに——ここが本物だと、分かってきます」
「見たものを書く」と恒一は繰り返した。
「書くことで、確かめているのだと思います。見たことが自分にとって本当のことになっていく感覚が——あります」
恒一には物語を書く感覚が分からなかった。「書くことで、それが本物になっていく」という感覚は——何かに近い気がした。何に近いかは、うまく言えなかった。
「参考になった」と恒一は言った。
「……わたしの方こそ」とフェリルは言った。「ありがとうございます」
石畳に落ちていた日差しが少し傾いていた。内庭の花の香りがまだあった。名前が分からなくても、あった、ということは分かる。それでいい気がした。
出発は、明日だった。




