第95話 最後の再構築
草の匂いがした。
背中に草の感触があった。草地だ、と時間をかけて認識した。視界が揺れていた。日が傾いている。影が長い。遠くで鳥の声が一度鳴いて、消えた。
「恒一さん」
すぐ上からユミナの声がした。
「……ユミナ」
声が掠れていた。喉を通るのに時間がかかった。
「再構築が必要です」
「……分かった」
「今回は、同じではありません」とユミナは言った。「あなたの中に変化が残る可能性があります。そして——不可逆です」
一拍、止まった。
「わたしが——できうる最善を、します」
普段は言わない言葉だった。恒一はゆっくりユミナの顔を見た。声の質は変わっていなかった。しかし——普段の「確認します」「記録しました」とは違う何かが、その一語の中にあった。報告ではなかった。そうでなければ、あんな言い方をしない。
少し離れた場所に人影が見えた。レイナだった。足を止めて、距離を保ったまま立っていた。視線がこちらに来て、ユミナに向かって——また遠くへ離れた。
「……俺に止める理由があるか」
「ありません。でも——決めるのはあなたです」
草の上で右手を動かした。指先に草が触れた。今の身体の状態がだいたい分かった。
「やってくれ」
ユミナが術式の感知を走らせ始めた気配がした。腕から、肩から——何かが流れ込んでくるような感触があった。白く整った圧だった。ユミナが術式を展開する時の、いつもの手触りだった。
ただ、いつもより速い。
ユミナの顔を見ていた。目が閉じていた。術式の内側を読む時の表情だった。いつもと同じ顔だった。なのに——何かが、違う気がした。唇の端が、かすかに張っていた。声は出ていないのに、何か言おうとして止めているような——そういう張り方をしていた。
術式が深い部分に差し掛かった時、その圧が止まった。
一拍の静止があった。
長くはなかった。前回の再構築でも、似たような停滞が途中にあった気がした——しかし今回は、止まっている時間が違った。もっと短かった。あるいは、止まる余裕がなかったのかもしれなかった。
次の瞬間、別の何かが来た。白い手触りとは違う、別の質の——黒い、と表現する以外の言葉が見つからなかった。濡れた墨が深いところから滲み出るような感触。恒一の知っているどの術式の手触りでもなかった。白い圧と、黒い圧が、同時に恒一の内側を動き始めた。
「それは、もう"封じている"手ではありませんわ」
レイナの声がした。静かだった。距離があったが、はっきり聞こえた。一言だけだった。断罪ではなかった。
深い部分で、何かが嵌まっていく感触があった。
それから——意識が遠くなった。
草の匂いだけが残った。
それから、何もなかった。
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草の感触が戻ってきた。
まず背中の草があった。次に、鳥の声が来た。空の端が橙になっていた。
「……ここは」と恒一は言った。
「試験線の近くです。草地に移しました」とユミナの声がした。
少しずつ視界が戻ってきた。術式の感知を走らせた。右腕の感触。左手の指先。腹の内側の術式経路。——動く。前回より、広い気がした。感知の端に、隅がある。
「……今までより、感知が広い気がする。隅がある」
「記録しました」
「悪いことか」
「まだ分かりません」
恒一はゆっくりユミナを見た。草地に膝を着いていた。声は平らだった。「まだ分かりません」も「記録しました」も、ユミナがいつも言う言葉だった。
頬に、光が走っていた。
濡れていた。
「……ユミナ」
「なんですか」
「顔が、濡れている」
ユミナが少し止まった。ゆっくり右手を上げた。指先で自分の頬に触れた。
触れた手が、止まった。
「……」
言葉が来なかった。ユミナの口が一度開いた。また閉じた。指先は頬の上にあったまま、動かなかった。
「……わたしは」と言いかけて、また止まった。
何を言いかけていたのか、自分でも分からない様子だった。頬から指先がゆっくり離れた。視線が落ちた。
恒一はその手を見ていた。
この二ヶ月、恒一が死ぬたびにユミナが再構築を行ってきた。一回目は馬車の事故で。二回目はゴーレムに潰された時で。そして今回——。恒一はそのたびに「ありがとう」と言ってきた。それ以上は、何も考えてこなかった。
考えていなかった。
ユミナが毎回、恒一の死ぬところを見ていたということを。
見て、それを手で止めてきたということを。
「ユミナは再構築ができる」という事実の枠に入れて——それ以上を見ていなかった。
人が死ぬのを見るたびに何かが削れるという当たり前のことを、ユミナに当てはめていなかった。
ユミナが術式を使える存在であることと、ユミナが人として何かを感じている存在であることを、同じように扱っていなかった。
自分では気づかないまま泣いていた——ユミナには、そういう部分がある。
分かっていたはずなのに。見ていなかった。
「……悪かった」と恒一は言った。
ユミナが振り返った。
「何がですか」
恒一は答えなかった。正確に言語化するには、まだ時間が足りなかった。ただ——言う必要があった気がして、言った。
少しの間があった。草の匂いがした。遠くで技術者たちの声がした。機関車の点検が始まっているようだった。
「……はい」とユミナはやがて言った。
「何がですか」への答えが来なかったことへの反応でも、察したからでも——おそらくどちらでもなかった。「悪かった」を、受け取った、という応答だった。
恒一が身を起こそうとした。ユミナが手を添えた。
レイナはまだ少し離れた場所に立っていた。視線がユミナの方に来て、また外れた。声はもう出なかった。それだけで十分だった。
空の端が橙になっていた。試験線の上に止まったままの機関車が、その光を受けて長い影を落としている。
恒一は立ち上がりながら、もう一度ユミナを見た。ユミナはすでに頬を拭っていた。
いつも通りの顔をしていた。ただ——それがいつも通りに見えることの意味を、今日初めて、少し違う角度から見た気がした。




