第94話 緊急対応
柵を越えた瞬間、風が来た。
前進する機関車が生み出す気流が、正面から押してきた。熱かった。精霊核が吐き出す熱気が地面近くに溜まっていて、その中に飛び込んだ形だった。喉の奥に焼けた油と鉄の匂いが入り込んだ。背後で技術者たちの声が上がった——制止だったが、足は止めなかった。
腰のロングソードはすでに抜いてあった。刃に雷撃を纏わせてある。今まで使ったことのない術式だったが、形は来ていた。数日前に整備で見た場面が来た。技師が雷釘を使っていた。低い電撃が鉄に食いつく瞬間——あの感触が、身体の中に残っていた。理屈ではなく、身体が先に知っていた。
低く、抑えて。刃の表面に電撃を這わせるように。
走りながら刃を構えた。車体が迫った。レールが鳴っていた——車輪と軌道の接触音ではなく、過負荷のフレームが共鳴する音だった。刃の端を車体側面に当てた。
その瞬間、刃が鉄に食いついた。
腕が引きちぎられそうだった。肩から根元まで衝撃が走った。車体の速度が腕全体に流れ込んで、横方向に引きずられた。足が地面から浮いた。一瞬、体が横に吹き飛ぼうとした。膝を落として体重を下に掛けた——引きずられながら、かろうじて踵が地面に触れた。歯が、振動で鳴った。
術式回線を開いた。
ユミナの声が来た。回線の向こうから、機関車の術式干渉が混ざる雑音を抜けて。いつもの平板な声だった——しかし言葉の間隔が、少しだけ詰まっていた。
「聞こえます」
恒一はそれを確認として受け取った。次を聞いた。
「補助核の接続面は右側前部です。経路の構造を送ります」
注釈が来た。言語ではなく術式の構造体として。ユミナが読んだ補助核の内部構造が、恒一の感知範囲に投影された。
接続面が見えた。術式文字が表面を走っていた。ループしている。同じパターンが同じ間隔で繰り返されていた。
刃の吸着を一度緩めた。一瞬だけ浮いた——風圧が一気に増した。加速する機関車の前面気流が、剣を持った腕を後方へ押しのけようとした。車体の熱が手のひらを焼いた。すぐに刃を当てて食いつかせた。フレームの振動が肘から肩まで伝わった。
前方へ移動した。吸着と解放を繰り返しながら。
鉄の匂いが、熱とともに鼻の奥に溜まっていった。視界の端を線路が走っていた。曲線が近い。
「受信経路はどこだ」
「四層目です。外側から三層が指令、四層目が受信専用です——そこに欠損があります」
車輪の付け根付近のフレームへ刃を噛ませた。雷撃の出力を少し上げた。鉄の唸りが来た——車輪の回転に逆らう微細な制動が生まれた。速度が、ほんのわずかだが落ちた。
「今だっ!」
「っ!」
差し込んだ刃から恒一を通してユミナが文献魔法を展開した。読解機能を接続面の内側に入れる。
しかし熱が来た。車体の振動ではなく、術式の逆流だった。送り続けている何かが、入ってきた読解経路を逆に使おうとしている。
肩から肘へ。そして身体の内側が焼けるような感触が走った。
構造を見た。四層目に空白の欄がある。幅が均等だった——あの保全記録に書き取ったのと同じ形だった。削除された欄。起点を失った受信経路が、自分でパターンを生成して送り続けている。
ユミナが一瞬だけ止まった。
「急いでくれっ!長くは保たない!」
「!!」
その一語の前の間が、処理判断の速さとは違った。しかし恒一はそれに気づかなかった。構造体が来るのを待った。
構造体が来た。断片だった。完全な形ではない——欠損した受信経路の欄に、それが嵌まった。
ループが、止まった。
止まった。
速度が落ちる。補助核の明滅が弱くなっていった。曲線区間の手前で、機関車が減速し始めた。恒一は刃を離した——その瞬間、膝が折れた。
剣に纏わせた電撃が音を立てて失われる。
地面が来た。硬かった。膝から肘に順に衝撃が伝わった。砂利と土の匂いが鼻をついた。
三回目。致命傷なことはわかっていた。そして、次に何が起きるかも。
足音が来た。
速かった。
柵を越えてくる足音だった。恒一はユミナの足音を知っていた。廊下でも、作業場でも——ユミナの足音は早足だった。歩幅が少し広く、少し急いでいる。それがいつもだった。
しかし今は、走っていた。
はっきりと。砂利を踏む音が速かった。走る音だった。
膝を着く気配がした。恒一の肩に手が来た。
「恒一さん!!」
いつもの声じゃない。
いや、前回は恒一は馬車に巻き込まれすぐに意識が遠のいていた。
言葉と言葉の間が詰まっていた。
「今すぐ動いてはいけません。崩れます」
ユミナの手が恒一の腕を握った。力が入っていた。
「……すまない」と恒一は言った。
片手を地面に着いたまま、顔を上げた。線路の上で機関車が止まっていた。補助核の明滅は消えている。技術者たちが走り寄ってくるのが見えた。曲線区間の先——草刈り作業班の姿がある。誰も怪我をしていない。
「……止まったか」
「止まりました」とユミナが言った。
その後、一語だけ、間が来た。続く言葉が来なかった。
恒一が顔を上げると、ユミナが俯いていた。何を抑えているのか、顔が見えなかった。
「ユミナ」と恒一は言った。
「……少し、待ってください」
声が——かすかに、震えていた。
技術者たちの声が後ろから来た。遠かった。恒一はユミナの方を向いたまま、動かなかった。何かを言うべきかどうか、分からなかった。ただ——待てた。
しばらくして、ユミナは顔を上げ、恒一を抱え上げた。




