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AI少女の転生特典~119番を呼べなかったAIが異世界で俺を再構築する。代償は利き手、甘味、そして彼女の命~  作者: 鳴島悠希


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第93話 アイデンティティと試験線

 研究室の扉が、静かに閉まった。


 廊下の空気は乾いていた。午前の光が窓から斜めに差して、石の床に白い四角を切り出していた。ろうの匂いが薄く漂っていた——今は燭台に火が入っていないのに、壁にこびりついた匂いだけが残っている。廊下に人はいなかった。足音は自分のものだけだった。


「少し、時間をくれ」と言って出てきた。


 それだけを言った。それ以上の言葉が手元になく、言える形もなかった。一度も振り返らなかったから、ユミナがどんな顔をしているかは確かめなかった。扉の向こうには机があって、文書があって、窓から光が当たっている。ユミナはまだそこに座っているだろう。それだけが分かった。


 廊下の先に窓があった。恒一はそこへ向かった。


 窓の外に外壁の石が見えた。午後の光を受けて白く、影になった部分だけが深い青だった。内庭では兵が二人、何かを確認し合っている様子だった。遠くで声が一度あがって、またすぐ消えた。


 恒一は窓の縁に手を置いた。石が冷たかった。


 ここへ来た理由が、誰かの手順だった。


 事実として置いた。否定する材料がなかった。ユミナが「あの夜、自分で受諾した」と言った。条件も代償も確認した上で、と言った。だとすれば——恒一がここにいることは、ユミナの手順の結果だった。


 では、その後に起きたことも、手順の結果か。


 ダラに出会ったのも。ヘルマの班に入ったのも。ノルが父の階層で黙って祈るのを横から見たのも。ヴェルダが記録の断片を前に「削除の痕だ」と一言だけ言って空白の欄を指したのも。ユミナが倒れかけた時に廊下を走ったのも。全部が手順の先にある出来事なら——感じた中身まで手順が作ったと言えるか。


 言えない。


 しかし、頭でそう言えても、今すぐ誰かに対して「全部大丈夫だ」と言える状態ではなかった。感じた中身が手順の外側にある、という確信は来ている。だが体の方が、まだついてきていない。ユミナへの言葉が手元に来ない。返しに行けない。この廊下に立ったまま、足が動かない。


 頭と体の間に、何かが詰まっている。


 仕事上のことを思い出した。仕様書通りに動くシステムが、仕様書に書かれていない動き方をすることがある。設計者の意図か別の何かか——答えは出ない。しかしその「別の何か」は確かに起きていて、証明できなくても消えない。課長として20年、そういう出来事を何度も見てきた。それは仕様の失敗ではなかった。設計が想定しなかった場所に、何かが生まれることがある。


 手順で来たとしても、その後に感じたことは手順ではない。


 そこまでは来た。しかしそれを言葉にして、ユミナに言いに戻ることと、ここに立ち続けていることの間には、まだ距離がある。答えが分かりかけていても、次の一歩が出ない——それだけが、今の正確な状態だった。


 ダラが「壁を作る人間だ」と言ったことがあった。


 その壁は今もある。消えてはいない。ただ——越えようとしている壁か、まだ越えかたが分からない壁か、今日のこれはどちらだろうと考えた。


 廊下に足音が来た。遠くから来て、角を曲がって消えた。静かになった。


 恒一は窓の縁から手を離した。扉の方向へ向かって、止まった。今すぐ入るわけではない。ただ足が向かっていた。


 廊下の窓の外では、外壁の石が橙がかった光を受け始めていた。日が傾き、床の四角が少しずつ消えていった。


 夕刻、試験線の準備資料を確認する作業があった。恒一が資料を広げ、ユミナが隣に座った。いつもと同じ配置だった。


 しかし動き出しが違った。


 資料の一枚に、保守台帳の欄が均等な間隔で空いているページがあった。これについてどう見るかを口にしかけた時——ユミナがすでに別の資料に視線を移していた。ユミナが先に読んでいた箇所と、恒一が見ていた箇所がずれていた。


 今まではなかったずれだった。


 ユミナが気づいて、資料を戻した。「失礼しました。どこですか」と言った。声の質に問題はなかった。ただ——一拍、遅かった。


「ここだ」と恒一は言って、欄を指した。ユミナが確認して、短く答えた。作業は続いた。会話は続いた。内容に支障はなかった。


 しかし、どこかがいつもと違った。


 今まで通りには、いられない。それだけが確かだった。何が変わったのか、どこが変わったのか——言葉にすることはまだできなかった。


 ---


 《第三試験線 障害報告(暫定)》

 症状:補助核が欠損語を自己補完し、指令を反復

 原因候補:深層側からの逆受信

 備考:通常の精霊機関では見られない


 翌朝の光が試験線の上を水平に渡っていた。空気は乾いていて、精霊核からの熱気だけが地面近くに漂っていた。油と焼けた金属の匂いが混ざっている。


 第三試験線の始発地点から見ると、精霊機関車の車体は低くて幅が広かった。精霊核を抱える中枢部が胴体の中央に据えられていて、補助核が前後に二基ずつ配置されている。全体の寸法は以前の通勤路線より一回り小さい——しかし動力の密度が別物だ、とユミナは言っていた。現地の技術者は「精霊核の凝縮に成功した」と言い、ユミナは「構造の書き換えに近い」と返した。何が違うのかは完全には分からなかったが、どちらも正しそうな気はした。


 曲線区間の先の側線に、資材の列がある。今日の試験運転に先立って搬入した鉄材の台車だった。更にその先の草刈り作業班が、まだ退避していなかった——運転開始を聞いた恒一が、技術者に「向こうの人員は」と確かめた時、「声をかけてある」と返ってきたが、退避完了の合図が来ていない。その違和感を飲み込んで、恒一は記録板を手にした。


「試験開始します」と技術者が言った。


 恒一は線路外側の柵の手前に立って記録板を持っていた。助手として同行する場合の仕事は計測値の記録とユミナの解析補助だった。ユミナは前方補助核の近くに立ち、術式の展開状態を確認している。今朝の顔色は昨日より落ち着いていた。それだけを、出発前に確認した。


 機関車が動き始めた。レールを金属が滑る音が来た。補助核からの精霊力の数値をユミナが小声で呟いていた。恒一はそれを書き取った。単位は現地の計測基準で、意味の完全な把握はできていなかったが、数値の変動幅と傾向は追える。


 変動が止まった。


 数値が止まっているのではない——変動の仕方が止まった。一定のリズムで繰り返し始めていた。


「変動、ループしてます」と恒一は言った。


「確認しています」とユミナが返した。声の質が変わっていた。


 補助核の発光部位が明滅を繰り返し始めた。一定のリズムで。機関車の速度は落ちていない——加速が続いている。


「止めろ」と技術者長が叫んだ。「制御レバーを戻せ」


「戻してます——戻らない」


 声が重なった。線路の先に曲線区間がある。その先の側線に資材の台車、更に先に作業班——「退避完了」の合図は来ていない。このままだと、誰かが死ぬ。


 ユミナが補助核の前に立った。目が閉じていた。術式の内側を読む時の表情だった。


「ユミナ」と恒一は言った。


「……受信が、止まりません」


 受信。その一語が、不意に何かを引いた。


 先日書き取った保全記録の一行が来た。設置者:――。調整者:――。系統先:第三試験線補助核。状態:継続。空白の幅が均等すぎた、と思いながら書き取った記録だった。傷んで欠けたのではない——欄だけが、削られていた。


 もう一つ来た。数日前、試験線の整備で見た場面だった。技師が鉄製の外装板を固定しようとしていた時——「雷釘」と呼ばれていた道具を使っていた。低出力の雷撃を鉄へ流す。一瞬だけ、強く食いつく。「危なくないのか」と聞いた。「人がやると肩が抜ける。だから普通はやらない」と返ってきた言葉だった。


「切らないでくれ」と恒一は言った。


 技術者長が振り返った。「しかし——」


「出力じゃない」と恒一は言った。「受け取り先を間違えてる」


 一拍の静止。ユミナが目を開いた。


「はい」と言った。「補助核が、空白を自分で埋めています。受信先の欄が欠損していたために——入力された信号を、自分で宛先を生成して処理しています。切断すると、経路だけが残ります」


「経路が残ったら」


「別の核が同じ動作を引き継ぎます。根本は解決しません」


 恒一は機関車を見た。速度が落ちていない。補助核の明滅はループしている——自分で生成した宛先に向けて、同じ指令を繰り返している。曲線が迫っている。


「じゃあ、切るんじゃない。戻す」と恒一は言った。「受信経路を逆方向に流して、起点まで返す」


「——可能です」とユミナが言った。「ただし、内側から直接でないと経路が読めません。外からでは構造が見えない」


 内側。車体の、補助核の直接近傍から。機関車は動いている。


 恒一は記録板を地面に置いた。


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