第91話 限界
ユミナが石を替えたのを、恒一は今日も数えていた。
朝に一回。昼の少し前に一回。今日のところはまだ二回だった。昨日は三回目が昼すぎより早い時間帯に来ていたから、今日は少し遅い。しかしそれが良い兆候かどうかは分からなかった。
廊下の端に立って書き付けを整理している体で、恒一はドアの蝶番から数歩離れた位置にいた。研究室の扉は開いていた。正面ではなかったが、机の方向に視野の端が届く。
ユミナが昨日から何かを言いかけて止めることが増えていた。朝食の時もそうだった。廊下で短く会話した時もそうだった。口を開いて、一拍置いて、「いいえ、なんでもないです」で終わる。それが一日に何度か続いていた。
だから今日は、少し距離を縮めた。書き付けをここで整理するという名目で、廊下のこの位置にいた。
頁をめくる手が昼を過ぎた頃から重くなっていた。
ユミナの本来の速度は恒一には計れない。しかし「遅い」かどうかは分かる。今日の午後は昼前より明らかに遅かった。頁の端に指をかけたまま、何かを待つように少し止まる。文書の上に視線が落ちたまま動かなくなる、という瞬間が何度かあった。
ユミナが立ち上がった。書き棚の高い段に手を伸ばした。
次の瞬間、体が傾いた。
恒一は扉を越えていた。廊下から研究室に入るまでの動作が意識の外にあった。気づいた時にはユミナの肩を抱えていて、椅子の背に当たりながら二人で床に滑った。膝がついた。腰を落として体を受け止めた格好になった。
腕の中でユミナが軽すぎた。
体重がない、ではなかった。支えるものが少なかった——密度が違う、とでも言うしかない感触だった。
触れた瞬間だった。
魔力感知を展開する前だった。術式を使う前に、腕を通じて何かが来た。温度でも質感でもない——皮膚の下から届くような何か。二つの流れがあった。一つは白く整った流れで、まだそこにある。もう一つは、その下でざらついていた——表面の白い流れとは別の何かが、深いところで動いていた。暗く、不均一で、削れながらも止まっていない流れ。
瘴気と呼ぶべきものは、言葉では知っていた。ユミナから教わり、文書で読んだ。しかし今感じているのは、それとは何かが違った。侵されているのではなく——削れている。魔力の枯渇でなく、もっと根にあるものが薄くなっているような感触。器の素材自体が少しずつ使われ続けてきた跡。二つの流れが重なっている、その事実だけが、うまく言葉にならないまま手の中に残った。
転生特典の説明を聞いた日から、何かが引っかかっていた。「旧き者の恩寵」という言葉でユミナが説明を止めた時の、わずかな間。その後も何かを言いかけて止める気配が続いた。恒一はそれを深く追わずにいた。しかし今この感触が、あの頃からの引っかかりを一点に繋げた。
ユミナが目を開けた。焦点が合うまで、少し時間がかかった。
「……大丈夫、です」
「大丈夫じゃない」と恒一は言った。それだけだった。
「すみません」
「謝らなくていい」
立てるかどうかを確かめた。ユミナが床に手をついて起き上がろうとしたので、肩を持って椅子まで移動させた。座ったユミナの顔を見た。蒼白とまでは言えなかったが、血が薄い色だった。
廊下に出て突き当たりの水差しから器に水を注いで戻ってきた。ユミナが両手でそれを受け取って、ひと口飲んだ。
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窓の外に陽が傾いていた。
恒一は壁際に立ったまま、考えていた。
嘘をついていた、という言葉が最初に来た。しかしそれは違うと、すぐに分かった。
ユミナが何かを隠していることは、ずっと前から分かっていた。どれくらい悪いのかを正確に言わない。「善処します」という言葉で返す。石の消耗が増えても、聞かれた範囲でだけ答えて止まる。それは嘘ではなかった。全部を言わないことと、嘘をつくことは違う。
では、なぜ全部を言わなかったのか。
答えより先に、別の問いが来た。——言ったとして、何が変わっていたか。
言えばよかった、と思うのは簡単だった。しかし言った後のことを、ユミナは二十年間どう想像していたか。「誰かに打ち明ける」という経験が、ユミナにどのくらいあったか。孤児院から学院へ、一人で二十年を生きてきた人間が「話す」という選択肢を当たり前に持っていたとは、思えなかった。
嘘をついていたんじゃない。
嘘をつかないと、立っていられなかったんだ。
そのまま立っていられていたのが、今日ここで崩れた。それだけだった。
「……恒一さん」とユミナの声が来た。
「聞く」と恒一は言った。
しかしユミナは続けなかった。一拍置いて、「今日は、ここまでにします」とだけ言った。
恒一は頷いた。「そうしよう」
資料を片付けるユミナを待って、一緒に廊下へ出た。城の窓から夕方の光が石の床に伸びていた。ユミナの足取りを確かめながら歩いた。
少し先でユミナが立ち止まった。振り返らずに言った。「……ちゃんと話します。でも——」
「今日じゃなくていい」と恒一は言った。
ユミナがわずかに肩を落とした。それだけだった。
廊下を並んで歩いた。夕方の光が段々と傾いていった。恒一の足音と、ユミナの足音が、ほとんど同じ間隔で石の床を叩いた。




