第90話 レイナの警告
魔力石が薄くなっていた。
形は変わらない。触感も、重さも、以前と同じ。しかし三日前から、ユミナは同じ石を握るたびに、一回ごとの容量が小さくなっていることを体感していた。補充しなければ一日持たない。数日前まで、二日は使えていたのに。
窓の外では、城の内庭で兵が朝の訓練をしていた。整然とした足音が規則正しく地面を叩く。ユミナは写し書きを続けながら、その音を数えるともなく数えていた。
ネヴァンからの干渉は、昨日から一段と多くなっていた。
意味があるように見えて、文脈に接続できない。出典がわからない。確信度を計れない。それでも断片が降りてくる。断片が来ると、ユミナは一度それを止める。検証する。文脈を探す。出典を探す。見つからなければ「対応不能」と記録する。しかし記録した後、その断片は消えない——残り続けて、また何かと接触しようとする。それを繰り返す。繰り返すたびに、抑制の回路が少し削れる。
どこから来るのかが、わからなくなっていた。それが一番消耗する部分だった——わからない、ということ自体が。
扉が鳴った。
「ユミナ殿。少しよろしいでしょうか」
レイナが立っていた。胸当てを外した軽装で、しかし背筋はいつも通り真直ぐだった。手には何も持っていない。剣を握り続けてきた手の形をしていた。
「もちろんです」とユミナは言った。
「立ち話で構いませんか」とレイナは言った。「長くはかかりませんわ」
廊下へ出た。石の壁が規則的に列を作り、午前の光が窓から斜めに入っていた。廊下のこの向きだと、光が石の面を削るように当たって、影が深い。ユミナは少し目を細めた。
「顔色が以前より悪くなっていますわ」とレイナは静かに言った。前置きなしだった。「一目でわかります」
ユミナは一拍置いた。「研究が続いていますので」
「それだけではないでしょう」
問いではなく、確認だった。
ユミナはレイナの視線を受けた。感情を読もうとしたが、読めなかった。責めるような色がない。怒りも、困惑もない。ただ——知っている、という静かさがあった。
「わたくしも、同じでしたわ」とレイナは言った。「十年間」
「…………」
「当初は戦っていました。それが正しいと思っていた。でも——ある時、気づいたのです。戦っていないと」
「慣れた、ということでしょうか」
「そうです」とレイナは答えた。「それが——怖うございました」
廊下に一瞬、音がなくなった。訓練の足音が遠くなった。
「侵される恐怖は、まだ戦えている証拠ですわ。怖いと感じるうちは、まだ自分が自分のままでいる。でも——気づけなくなった時が本当の危険です」
レイナが少し間を置いた。「ひとつだけ、聞いてよろしいですか」
「……はい」
「封じることと、使うこととは——別のことですわ」とレイナは言った。「わたくしは、内包して抑えることしかしませんでした。——ですが、抑えているだけで、ここまでの消耗は出ません」
少し間を置いた。問いの残りは、沈黙に置いた。
ユミナは答えなかった。答えられなかった。
ユミナは壁の石の目地に視線を落とした。規則的な縦の線が続いていた。
「沈黙の中で慣らしてしまうことのほうが、危険、ということですか」
「そうですわ」
声に力が込もらなかった。事実の確認だった。ユミナはレイナを見た。その表情に、かつての苦労の跡は出ていなかった。ただ、静かに今の自分として立っていた。それが——ユミナには、遠かった。
ユミナは目地を一本ずつ数えた。数える行為に意味はなかった。ただ、何かを数えていなければ、この言葉をどこに置けばいいのかわからなかった。
「わたくしは、一人では抜け出せませんでしたわ」とレイナは続けた。「引き出してくれた人がいた。それより前にも——声をかけてくれた人たちがいた。その一人一人が、糸になっていたのだと思います。今は」
「…………」
レイナが少し間を置いた。「あなたには——誰か、おられますか」
ユミナは少し待った。
「います」と言った。
はっきりと、答えた。
「では——その方には、話してみるお気持ちはありますでしょうか」
壁の目地を数えるのをやめた。
「…………」
答えなかった。レイナもそれ以上は押さなかった。しばらく、廊下に二人で立っていた。遠くで兵の声が短く上がって、また静かになった。
「長くなりましたわ」とレイナは言った。「邪魔をしてしまいましたね」
「いいえ」とユミナは答えた。「ありがとうございます」
レイナの足音が廊下を遠ざかった。角を曲がって見えなくなった。城の奥の方から、金属がぶつかる音が来た。修繕か、訓練か。それもすぐ止んだ。ユミナは石の壁の前に立ったまま、動かなかった。
廊下の奥から、別の足音が来た。
弾むような置き方だが、音の大きさは必要最小限だった。ミリアが来た。手に薄い書物を持ち、視線をページに向けている。こちらを見ていなかった。
ユミナは身体を正した。
ミリアが顔を上げた。視線が来た瞬間——一拍だけ、何かが違った。いつもと同じ軽い表情のまま、その目の奥が別のものを見ていた。試験線で最初に顔を合わせた時と同じ種類の視線だった。密度があった。何かを「読む」時の目だった。
「あれ、ユミナちゃん」
「……ミリア殿」
「廊下で立ってたの? 何かあった?」
問いの形をしていたが、確認のための問いではなかった。何かを知った上で問わないでいるための、間の取り方のような言葉だった。
「少し、立っていました」
「そっか」
ミリアがまた書物に視線を落とした。そのまま通り過ぎた。弾む足音が廊下の先へ消えていく。
角を曲がる手前で、ミリアが一度だけ振り返った。
「またね」
それだけだった。声は軽かった。しかしその目の奥に——断じない代わりに、押さえているものがあった。ユミナはそれが何かを判断する前に、ミリアは角を曲がって見えなくなった。
光の差し込む角度が変わっていた。
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研究室に戻ると、机の上の写し書きが待っていた。インクが少し乾いていた。窓の外の訓練は終わっていて、内庭はもう静かだった。
ユミナは椅子に座った。手を膝の上に置いた。
レイナの言葉を辿った。「慣れた時が怖かった」。「気づけなくなった時が本当の危険です」。「沈黙の中で慣らしてしまうことのほうが危険」。
論理としては正しかった。証明できる。繰り返しの暴露によって、反応の閾値は上昇する。それは機能的な適応でもあり、検出精度の低下でもある。慣れることの危険性は、それが問題の解消に見えるという点にある。
ユミナは自分の手を見た。
三日前から魔力石の容量を使い切るのが早くなっていた。それは慣れていない証拠とも言えるし——慣れながら消耗の速度が上がっているだけとも言える。どちらかを判断する方法が、今のユミナにはなかった。
二十年間、ユミナはネヴァンの干渉を「対応不能」と記録し続けてきた。記録すること自体が、自分のやるべきことだと思っていた。記録していれば問題として定義できる。定義された問題はいつか解決できる——という前提があった。しかし、慣れてしまったら記録さえしなくなる。問題が消えたのか、見えなくなったのか、区別する方法がなくなる。
それが——判断できなかった。
自分が今、戦っているのか、慣れているのか。それだけではなかった——「封じることと使うことは別」というレイナの言葉が、消えていなかった。その問いに答えられなかった自分が、今どちら側にいるのか。恒一に石の数を数えられていることも、ヴァリスに時間がないと告げられたことも、ネヴァンの断片が増えたことも、全部が警告のはずだった。しかしユミナの処理はその一つ一つを「対応可能」「対応不能」で分類するだけで、自分がどちら側にいるかを判断することができなかった。
(恒一さんに、話す)
そう思った。
結論ではなく、選択として。「話すべきである」という論理的な導出ではなく——話したい、という、うまく名付けられない何かとして。ユミナはその「何か」に、今まで適切な語を当てたことがなかった。感情と呼べば正確ではなかった。欲求と呼べば薄かった。でも確かに、そこにあった。
いつ話すかはまだ決まっていなかった。何をどこまで話すかも、まだ整理できていなかった。でも、「話す」という一点は、今日、決まった。
写し書きの続きを開いた。インクを取り直した。窓の外に鳥が一羽、石の縁に止まって、また飛び去った。




