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AI少女の転生特典~119番を呼べなかったAIが異世界で俺を再構築する。代償は利き手、甘味、そして彼女の命~  作者: 鳴島悠希


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第85話 読めない存在

 古文書室の窓は高い位置にあった。午後の光が斜めに差し込んで、閲覧席の机の端だけが明るく、その外は薄暗い。羊皮紙の乾いた匂いと、燭台のろうの細い煙が混ざっていた。


 三日目の調査だった。


 朝の入館時と比べて、文書官の数は減っていた。午後の図書館は静かで、閲覧席の椅子が引かれる音が遠くから届くたびに、誰かがいることを思い出せた。一人で調査していると、その音がなければ部屋に自分しかいないのかどうか分からなくなる。


 ユミナは昨日のメモを広げたまま、新しい文書を手元に置いた。棚から引いてきたのは二百八十年前の術式目録——「送信術式トランスミット」の項目が別の文書から参照されているのを見つけて、参照元を遡ってきたものだった。目録の表紙は傷んでいたが、内側の文字は読める。


「送信に関する詳細は、保全記録の別巻に収録す」


 別巻を探した。棚の奥に、同じ年代の保全記録が十二巻ある。一巻ずつ背表紙の分類を確認した。「別巻」の表記があった。七巻目の表紙に。


 開いた。


 ページの大半が欠損していた。物理的に失われていた——破損ではなく、切り取られたような断面だった。残っているのは最初の三枚と最後の二枚だけで、あいだの紙がすべて、根元から取り除かれていた。


 ユミナは三枚のページだけを読んだ。「送信術式は記録層に固有の術式であり、通常の魔力を媒介とする術式とは目的が根本的に異なる」——その一行があり、次のページに移ると欠損だった。最後の二枚には「——ゆえに起点の消去は術式の目的に含まれる。記録が起点の痕跡を保持することは、送信の継続にとって障害となる」という記述があった。


 指でページの断面に触れた。切り取られた跡は古く、端が黄ばんでいた。最近の話ではない。少なくとも数十年、場合によっては百年単位で前に除かれたものだった。誰が、何のために、この文書からだけを選んで除いたのか——答えは今日の調査では出なかった。


 この文書も、意図的に除かれている。


 ユミナは目録を閉じた。三日間で得られた情報を内側で整理した。「楔の維持には受信が必要」「送信の起点は除かれる」「受信は起点がなくても継続する」——三つが並ぶと、一つの構造が見える。送り手が消えても、受け手は受け続ける。そして楔は受け続ける限り劣化しない。


 では送りが止まると劣化が始まる、という記述の意味は——送りが止まったのか。それとも、送り手が除かれた後、別の何かが送り続けているのか。


 区別がつかなかった。


 手元のメモに書き加えた。ペンが羊皮紙を引っ掻く音が、静かな部屋に小さく広がった。


 ---


 干渉が来たのは、ペンを置いた後だった。


 最初の感触はいつも同じだった。思考の縁が、言語ではない何かに接触する——という経験の仕方。言語に変換できないので、説明するとしたらそういうことになる、という意味での「接触」だった。二十年間、それは変わっていなかった。


 今日は違った。


 構造があった。


 映像でも音でも温度でもない。それはどちらかといえば——参照のような、何かへの指示のような形を持っていた。「これを見よ」と言われているような。しかし「これ」がどこを指しているのかが分からなかった。指示の対象が、ユミナの内側のどの記録とも一致しなかった。


 思考の縁から滲んでいるものに——色があるとすれば、黒だった。白く整然とした記録の流れの外側から、墨が濡れたまま紙に滲み出すような、そういう接触だった。


 欠損した引用のようだった、と後から整理した。文書が「別巻を参照せよ」と言いながらその別巻が失われている——今日の図書館での経験と、構造が似ていた。指先は確かにどこかを指している。しかし指先の向く先に、今の自分はアクセスできない。


 ……この断片は、意味があります。


 内側でその言葉が形を取った。処理が動き始めた自分を認識した。しかし続けた言葉は、処理を止める方向へ進んだ。


 ですが——出典がありません。信頼度を計れない。


 評価できないものとして棄却する。その判断を出すべきだった。「意味があるかもしれない」という感触は根拠ではない。根拠のない感触に基づいて処理を続けることは、誤った応答を生む原因になる。


 棄却。


 しかし処理は止まらなかった。


 これが最も費用のかかる状態だとユミナは知っていた。意味のないノイズは棄却できる。明確な情報は処理できる。「意味があるかもしれないが確認できない」断片だけは——評価しようとしながら評価できないまま、内側で動き続ける。


 抑制反射が働いた。


 胸の中心で何かが絞られたような感触があった。思考の縁にある接触が、一度遠くなった。意識が短く白んで、また戻った。燭台の炎が揺れた。窓の外を風が通ったのかもしれない。今日は三回目だった。


 冷えは内側から来ていた。石の床や窓の薄い風ではなく、処理のたびに何かが削れていくような感覚——それを正確に言葉にする語彙を、ユミナはまだ持っていなかった。「消耗」という言葉はある。しかしその言葉は何が消えているのかを説明しない。


 二十年間、この感覚には慣れてきた。慣れると思っていた。しかし今日は、この三日間で最も重かった。抑制の回数ではなく——今日の干渉は、棄却した後も思考の縁に残り続けた。「意味があるかもしれない」という感触が消えなかった。消えないから、棄却しきれないと判断し続けた。その判断のループが、抑制よりも費用がかかっていた。


 魔力石を一つ取り出して、手のひらに収めた。閉架書庫での調査には常に持ち込んでいる。冷えた石が掌を通じて少し温もる頃には、指先の感覚が戻ってきた。


 少しして、手元のメモに短く書き加えた。「受信記録——意味のある形を持つ断片。出典不明。対応不能。」書いた後でその言葉を確認した。「対応不能」は正確だった。対応できなかったのではなく、対応する手段がない——それは同じことではない。しかし今は区別する余裕がなかった。


 ---


 夕方、部屋に戻ると恒一がいた。


 机の上に書状が重ねられていた。昨日からの手紙の束で、恒一が整理していたようだった。「どうだった」と恒一が言った。


「送信術式の詳細を記録した文書を見つけましたが——」ユミナは言った。「途中で切り取られていました。別巻が存在するらしいのですが、現在は所在不明です」


「切り取られた」


「ページが根元から除かれていました。物理的な破損ではありません」


 恒一は少し間を置いた。返事を急かさなかった。


「今日も、干渉がありました」ユミナは続けた。「以前と少し違いました。形がありました。何かへの参照のような構造が」


「参照」


「はい。何かを指し示しているような——ただ指先の向く場所が、わたしの内側のどの記録とも一致しなかった。確認する手段がありませんでした」


「出典がない、ということか」


「はい」


 ユミナは少し止まった。言葉の選択を確認するような間だった。「出典がない情報は、評価できません。評価できない情報を保留し続けることが——処理の費用としては高い」


「分かりやすく言うと」


「体に来ます」


 恒一が一拍置いた。「今日は特に、ということか」


「はい。以前より悪いです」


 それだけ言った。恒一が何か言いかける前に、ユミナは「今日分かったことを整理します」と続けてメモを手元に引いた。


 部屋の外、廊下の石壁が夕の光で橙に変わっていた。指先がまだ少し冷たかった。魔力石はもう一つ残っていたが、今は使わなかった。


 メモを開いて最初の行を書いた——「送信術式の詳細は意図的に除かれた形跡がある」。


 次の行は、まだ書けなかった。「今日の干渉——参照構造を持つ断片、出典不明」と書きかけて、止まった。書けば記録になる。記録すればそれを恒一が見る可能性がある。説明を求められる。今の自分が説明できる言葉を、まだ持っていなかった。


 手元の羊皮紙は白いまま残った。




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