第84話 二つの世界
廊下で声をかけられた。
午前のうちに片付けた仕事——カルスに頼まれた技術者向けの進捗記録の整理——を終えて、手を洗おうと東翼に向かっていた時だった。
「少し時間ありますか」フェリルが廊下の角から顔を出した。「三十分も要りません」
「構いません」
「ならこちらへ」
先を歩き始めた。廊下を二つ曲がり、東翼の突き当たりに近い小部屋へ向かった。窓が一つ、机が一脚、棚に羊皮紙の束。フェリルがここを使っているのは知っていた。
机の上に紙が二種類並んでいた。フェリルが椅子を引いて座り、恒一は向かいの椅子を使った。インクの細い匂いがあった。窓から午前の光が差し込み、机の角が白く光っていた。
「これを見てほしいんです」フェリルが一枚を引いた。「試験線の保守台帳の写しです。カルス様のご許可を得て先週書き取らせていただいたもので」
恒一は受け取った。見覚えのある書式だった。今朝自分が整理していた記録と同じ様式だ。日付、区間番号、現象の記述、対応内容——その順で並んでいる。最後の行は「継続観察」で閉じられていた。例外事項は欄外に逃がされていて、本文には混ざっていない。担当者の個人名より先に、区間番号と部署名が来ている。読み進めると、途中で原因が確定していない箇所に「原因保留・再確認予定」という注記があった。原因が分からないまま作業を続けた、という事実だけを記録して、それを本文の外に置いている。
「もう一枚」別の紙が来た。紙の質が違った。薄く、インクの滲み方も古い。文字の形も今のフェリルの書き方より不安定だ。
「転生してすぐの頃に書いたものです。前の世界で参照していた資料の書式が薄れていくのが怖くて——覚えているうちに書き留めておこうとして、片端から書いていました」フェリルが少し目を伏せた。「この世界に慣れる前の頃の字なので読みにくいかもしれませんが、骨格は分かると思います」
字が走っているが、構成の骨格は読める。「現象を確認する。原因の断定は保留する。再試験を行い、継続観察へ移る」——そういう順序で記述が続いていた。例外事項は本文に混ぜず欄外に小さく逃がしてある。区画名と部署名が冒頭に来て、担当者の個人名は後に来るか、あるいは空白だった。
恒一は二枚を交互に見た。
設定の話ではない。内容の話でもない。紙の上での記述の、組み立て方の問題だ。この世界の文字で書かれた保守台帳と、前の世界から持ち越した書式メモ——素材も年代も場所も違う。しかし骨格が同じだ。
「現象確認、原因保留、継続観察——順序が同じだ」
フェリルが頷いた。「ええ。例外事項も、本文に混ぜず注記に逃がしている。個人名より区画名が先に来る。責任欄だけが薄い——担当者が書かれていないか、組織名だけで閉じられている。あの保守台帳の署名欄も、空のものがありましたか」
「今朝整理した中にも、空いている欄が数行あった。後で記入するのかと思って、そのまま通した」
「恐らく後でも埋まらないと思います」フェリルが言った。「同じです」とそれから続けた。「フリー世界観の資料群では、責任の記載が個人に集まらないように設計されていました。誰かの名前が残ると、資料が特定の立場に縛られるから——だから責任欄は区画名か組織名で閉じる、あるいは空白で閉じる、という慣習があって。初めてそれを学んだ時は、不思議に思ったんですが」
「今は」
「今はその慣習が、ここの台帳に出てきているのが、ただ不思議なんです。フリー世界観を参照した人間が、この世界の書き方に影響を与えたのなら説明がつく。でもそれには書き手がいる。ここの技師の方たちは前の世界とは繋がっていない。なのに同じ形をしている」
「NPCの反応に似てるってことか」恒一は言った。
フェリルの顔が少し動いた。「いえ、違います」はっきりと。「人物表じゃないんです」
恒一は黙った。
「前に"フリー世界観"って言いましたけど」フェリルが続けた。「正確には共同設定の資料群です。記事と通達と事故報告の束で……似ているのも、人じゃなくて記録の癖なんです」
「現象確認、原因保留、継続観察。例外を注記に逃がす順番。あの組み方が、ここの報告書と同じなんです」フェリルが机の上の二枚を並べ直した。「地名の一致ならまだ、同じ設定を参照したから、という説明がつきます。でも文書の構成方法まで一致するとしたら——それは設定の話じゃないと思って」
「設定が似てるんじゃない」恒一は言った。「書き方が似てるのか」
「はい」フェリルが顔を上げた。「世界の中身より先に、世界の記録のされ方が似てるんです」
短い沈黙があった。
窓の外で風が来た。木の葉が揺れる音が、遠くから一度だけ届いた。
恒一は二枚の紙を並べたまま少し考えた。設定を参照すれば地名は同じになる。しかし文書の構成方法まで——記述の順序、例外の処理の仕方、責任欄の扱い——これらが一致するためには、どこかに参照される原本がなければならない。地名ではなく記録の作法が一致している、ということは、誰かがその作法を学んだ場所が同じだということだ。あるいは、その作法が最初から組み込まれている、ということだ。設定ではなく、記録の仕方そのものが。
「どこかに原本があるのかもしれない」
フェリルが静かに待っていた。
「設定が似ているのではなく、同じ何かを参照して書かれた。だから記録の作法まで重なる」
「わたしも、そう感じています」フェリルが言った。「でも——それが何なのかは、わたしには分からないんです。前の世界の"フリー世界観"も、誰かが最初に作ってみんなが参照して広げていったもので——この世界のそれが、その"最初の何か"と同じ元を持つのか、それとも別の経路なのかが」
「まだ分からない」
「ええ」フェリルは机の上の二枚を重ねた。「ただ——ここが本物だということは、確かなんです。記録の作法がどこかと似ていたとしても、今ここに積み上がっているものは本物だと思っています。台帳に残っている技師の方たちの仕事も、あの試験線で動いている機関車も」フェリルが少し止まった。「わたし自身も、二十年以上をここで生きてきたわけで——それが前の世界の続きであっても、ここで積み上げた時間が消えるわけではないから」
「そうかもしれない」
インクの瓶が机の端に立っていた。羽根のペンが斜めに立てかけてある。窓の光がそのペンの軸を細く照らしていた。
「参考になった」と恒一は言った。
「何かに役立ちそうですか」
「まだ分からない。でも問いの形が変わった」
「それは——いいことですか」
「どちらでもない」恒一は立ち上がった。「形が変わっただけで、答えが出たわけじゃないから」
廊下に出た。石畳に午前の光が斜めに差し込んでいた。
世界の中身が似ているのではなく、記録のされ方が似ている——その違いが何を意味するか、今の自分にはまだ言葉がなかった。どこかに参照される原本がある、というのが正しければ、「楔」はその原本と何らかの形で繋がっているかもしれない。設定を固定しているのではなく、記録の流れそのものを——。
ユミナが図書館で見つけた話が来た。記録術式の送信が途絶えると劣化が始まる。送信の起点は記録から除かれた。送り続けていた何かが、自分の名前だけを消した。
問いが一段、深くなっただけだった。答えはどこにもなかった。
ユミナが今日も図書館にいる時間だった。廊下の先、光の当たる石壁が午後に向かって傾き始めていた。




