第79話 断片の声
部屋に戻ったのは昼を過ぎていた。
窓から午後の光が差し込み、石床に長方形の影を作っていた。恒一はベッドの端に腰を下ろし、しばらくそのままでいた。背中を壁に触れさせると、石壁の冷えが薄い衣布越しに伝わってきた。室内にはまだ、蝋燭の消えた後の微かな脂の香りが残っていた。
ユミナへの疑念を、持ち帰ってきた。
引き受けた。「分かりました」と言った時、揺れは少なかった。それが今も引っかかっていた。疑念を告げられた瞬間——大きな抵抗がなかった。つまり、ずっとそこに何かがあることを薄く知っていたということだ。知っていて、問わなかった。問えなかったのではない。向こう側を踏み越えれば何かが変わると感じて、留まっていた。
昼の食事の時、ユミナは向かいに座っていた。窓の光が卓の上に伸び、二つの椀の間を薄く区切っていた。ユミナはスープをゆっくり口に運んでいた。音を立てない、静かな食べ方だった。一度だけ恒一を見て、何か言いかけるような間があったが、言わなかった。
朝のカルスの言葉は、ユミナにも届いていた。「ユミナ導師にはお伝えしないよう」という条件が。だから昼の食事の間、恒一は何も言わなかった。ユミナも問わなかった。その沈黙の重さが、今もまだここにある。
古文書の写しが作業台に積み上がったままだった。ユミナが朝から手をつけていたものだ。紙の縁が薄く黄ばんでいた。夕方前には戻ってくる。この部屋に、あの沈黙を持って。
廊下を誰かが通った。足音が近づいて、遠ざかった。
どう話せばいいか。ヴァリスは「問い詰める形ではなく」と言った。その意味は分かる。だが、今の恒一にはどう話すかより先に、別の問いが立っていた。
言えばどうなる。
——二年近く、ユミナは言葉のやり取りをするたびに、少しずつ何かを渡してきた。語尾の小さな揺れ。視線が先に泳ぐ瞬間。これが本音だと分かる間の長さ。その積み重ねが今ここにある。——それを、問いひとつで崩すかもしれない。
目を閉じた。枕に首を落とした。石壁の空気が鼻の奥に細かく届いた。眠れる気はしなかった。が、そのまま目を閉じていた。
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夢だと気づかなかった。
目の前に何かがあった。光だったが、普通の光ではなかった。粒が集まっているような——しかし粒ではない。何かが広がっていた。広さの感覚より、深さの感覚が近かった。
音がした。
言語ではなかった。言語に向かおうとしていたが、届いていなかった。空気の密度が変わるような揺れが、一度、二度、来た。波ではなく——呼吸のような間隔で。
恒一は立っていた。足元に何もなかった。床の感触も、方向の感覚もなかった。
何かがあった。
こちらを向いていた——というより、恒一という存在が何かの外縁に触れていた。向こうから来るものがあった。意図があるかどうかが分からなかった。あるとも言えた。ないとも言えた。ただ、来ていた。
もう一度、何かが来た。今度は少し形の気配があった。正確には——形そのものではなく、形があったはずの場所だった。書類の欄だけが綺麗に剥がれたような空白が、幾つも並んでいた。文字が消えたのではない。欄ごと、落ちていた。傷んだのではなく——意図的に消された、という手触りだけが伝わってきた。
そこで引っかかった。感触だった。
均等だった、という手触りがあった。空白の一つ一つの間隔に——何かの法則があった。等しかった。意図的か偶然かが分からなかった。ただ、等しかった。この手触りを、知っていた。
恒一は問おうとした。声が出なかった。問いに応答できる相手が、そこにいなかった。向こうから来るものはあった。しかし受け取る側の場所がなかった。応答の仕組みがなかった。一方向だった。
光が、一度だけ強くなった。
音が波になった。寄せてきた。引いた。消えた。
暗くなった。
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目が覚めた時、空はまだ明けきっていなかった。
窓の外に薄い青があった。夜の最後の暗さだった。恒一は天井を見た。石の表面に細かい影がついていた。
夢の感触が残っていた。
残っている、というより——まだそこにある気がした。夢が終わったのではなく、自分がそこから引き出されてきたような感覚が残っていた。
七層の記号を写した紙を差し出した時のことを思った。ユミナの次の動作が止まった。椅子の背に伸ばしかけた手が止まり、息が——わずかに、詰まった。
あの反応を、まだ聞いていなかった。
夢の中の空白の均等さと、あの記号の等間隔が——同じ種類だった。証拠ではない。夢の内容を証拠と呼ぶことはできない。しかし引っかかりの種類が同じだった。どちらも、言語には届いていない。どちらも、意図的に落とされたという感触を持っていた。
恒一は起き上がり、水差しから水を飲んだ。冷えた水が喉を通った。それだけが鮮明だった。
腰のポーチから書き付けを取り出した。窓の薄明かりで字が見えるかどうか確認してから、短く記した。——夢、均等な間隔、言語ではない、エルセアの記号と同じ手触り。それだけだった。証拠にならない。だが書いておかないと、どこで気づいたかを忘れる。そういう習慣だけは、前世から変わっていなかった。
廊下に出た。
石畳が足の裏に冷たかった。ユミナの部屋はこの廊下の先だった。足が動き、扉の前まで来た。止まった。
扉の木に手を当てた。冷たかった。石壁ほどではないが、夜明け前の城の冷えが板を通じて伝わってきた。
扉の向こうに気配があった。ユミナはまだ眠っているか、起きて本を読んでいるか、どちらかだった。どちらにしても——ここにいる。この扉の一枚向こうに。
どんな言葉で切り出しても、ユミナには伝わる。何を告げようとしているかが。そして伝わった瞬間に、何かが変わる気がした。壊れる——扉が閉まる。二年近くかけて少しずつ開いてきたものが、閉まる。
言わない選択肢もあった。しかし、それも別の扉が閉まることに向かっている気がした。
どちらを選んでも——取り返しのつかない方向があった。
恒一はしばらく扉の前に立っていた。
鳥が鳴いた。一度だけ。廊下の窓の外から来た。
手を出さないまま、引き返した。朝食の時間まで、まだ間があった。どうするかは決まっていなかった。




