第78話 異端の輪郭
カルスが訪ねてきたのは、朝食から少し経った頃だった。
「コイチ様、ヴァリス陛下がお呼びです。——ご恕ください。ユミナ導師にはお伝えしないよう、との仰せでした」
ユミナは部屋の奥で古文書の写しを広げていた。羊皮紙の縁が焼けたように黄ばんでいた。恒一はカルスを見て、ユミナを見た。ユミナは顔を上げていた。カルスの言葉は彼女にも届いている。
「分かった」と恒一は言った。ユミナの表情が一瞬だけ動いたが、何も言わなかった。
廊下に出ると、石壁が朝の光を受けていた。西寄りに折れ、窓の少ない石造りの廊下を進んだ。カルスの足音だけが響き、空気は冷えていた。城に来てから数日が経ち、東翼の廊下の配置はある程度頭に入っていた。フェリルと話した小部屋へ向かう通路とは違う方向だった。
ゴーレムの話、とカルスは言っていた。エルセアで見たゴーレムについて、陛下が詳しく聞きたいとのことだった。直接見たのは恒一だ。記録を写し取ったのも恒一だ。恒一だけに聞く筋は通る。
だが、ユミナを外す理由は、まだ分からなかった。
重い木の扉の前でカルスが止まった。一礼して、扉を開けた。
部屋は狭かった。書き物机が一台、木の椅子が数脚、隅に小さな棚。天井に明かり窓はなく、燭台の火が室内を照らしていた。紙と蝋燭の残り香に、石の古い埃が混じっていた。昼間でも外の光が届かない、話が外に漏れることを想定した部屋だった。
四人がいた。
ヴァリスが机の端に立っていた。レイナは椅子に腰を下ろし、膝の上で手を組んでいた。ミリアは壁際に立ち、腕を組んでいた。フェリルは一番奥の椅子に座り、視線を前に向けていた。全員が恒一を見た。穏やかな表情だったが、その穏やかさは意識的なものだった。
「座ってくれ」ヴァリスが言った。「まず、ゴーレムの話を聞かせてほしい」
恒一は椅子を引いた。
エルセアのダンジョンで見たゴーレムについて、知っていることを話した。ヴェルダが解析した起動命令の構造、制御文字とは別に刻まれていた表状の記号、ゴーレムが反応した条件の順序、崩落の経緯。事実だけを、順番通りに話した。問い返しがヴァリスとレイナから来た。「表状の記号が等間隔に刻まれていたとのことだが、一定の規則があったのか」とヴァリスが聞いた。「規則があるとは感じたが、読めなかった。形を写し取っただけだ」と恒一は答えた。ミリアが一度だけ「その写しは今でも手元にある?」と聞いた。「ヴェルダが持っている」と答えた。
ゴーレムの話は、しばらくして一段落した。
ヴァリスが少し間を置いた。
「……もう一つ、別の話をいいか」
「はい」
「三年前の話だ。機密になる。この部屋の外で話してはならない」
「分かりました」
「ベルテアで起きた騒乱のことは、聞いているか」
「ベルテアで内戦があり、異端魔法による魔族召喚が確認されたと。教国が動き——ミリアさんが聖戦を止めた、という話は聞いています」
「それが表向きの話だ」ヴァリスは視線をわずかに下げた。「ベルテアで起きたことは事実だ。だがその直後に——アルヴェリアの内側でも、別のことが起きていた。こちらは機密のままにしてある」
ヴァリスは隣に佇む王妃レイナのほうを見た。
「はい」とレイナが言った。「わたくしから話します」
レイナは机の端に視線を置いたまま語り始めた。声は落ち着いていたが、その落ち着きには固いものがあった。感情ではなく、意識して保っている静けさだった。
「この国の地下には、古くからモリガンと呼ばれる異神が封印されていました。記録によれば、数百年前から。わたくしの身体にその存在が宿り付いたのは、幼い頃のことです。母から引き継いだ、と後から分かりました」
恒一は黙って聞いた。
「わたくし自身は、幼い頃から違和感はありつつもどうしようもできなかった。意識も記憶も行動も正常に機能していますが認識が徐々に変質していく」
「きっかけはベルテア騒乱の時。瘴気が自らの力になっていることに気づき、異端の力が自らに宿っていることを確信しました」
恒一はレイナの話を思い出した。
彼女は王妃でありながら先代の英雄王アルスの愛弟子であり、戦乙女と称される王国最強の剣士でもあるとのことを。
「今でも何で相談してくれなかったのかって怒ってるけどね」とミリアが言った。
声の軽い調子とは裏腹に顔は真剣そのものだった。
「聖女なんて言われておきながら——あれだけ側にいたレイナの異端の気配に気づけなかったなんて」
レイナとそしてヴァリスも苦い笑いを見せる。
彼らの信頼関係がそれだけでも恒一の目には見て取れた。
「最終的には——」
「モリガンについて書かれた古い文献があった」ヴァリスが引き取った。
「かつてこの大陸で、モリガンを封印した英雄の記録だ。その英雄が遺した術式は、文献魔法でそれにより消滅させることができた」
ヴァリスは賢王と称されているが、文献魔法についても造詣が深いようだった。
「その時に教国がアルヴェリアへの聖戦を宣言した。アルヴェリアの内側でモリガンの顕現を察知したからだ」
ヴァリスが続けた。
「ミリアが対抗として聖戦を使い、ザイラントを止めた。ザイラントとアルヴェリアのその後の協定で表向きはベルテアへの対応として公表された。それで一応の収拾がついた」
「あたしがザイラントと行き来するはめになっちゃったけどね」とミリアが軽口を叩く。
「ただ」ヴァリスの声が少し低くなった。「問題は終わっていない」
「モリガンには妹がいる。古い文献によれば、二人だ。ネヴァンとマハという」
恒一は聞いたことのない名前だった。
「ネヴァンは所在が掴めていない。マハは中央ダンジョンの深層に封印されているという文献が見つかった。今も。——ただし、その封印を固定している楔が、今、劣化しつつある」
「ミリアさんが毎朝祈っているのは、そのためですね」
「……そう」ミリアが短く言った。「あたしにできることはそれだから」
「モリガン消滅から三年が経つ」ヴァリスが続けた。「その間も、各地で小規模な瘴気騒ぎが続いている。エリン、ベルテアの南部、二、三の港町。規模は小さいが、方向は同じだ。ミリアが教国の監察官を抑えながら、うちからは調査団を各地に出している。エルセアのゴーレムも、その一環として調べている」
「その中で」フェリルが言った。「ユミナ導師について、確認したいことがあります」
声に変化はなかった。それでも部屋の空気が少し変わった。
「エリン魔法学院始まって以来の天才と評された方だということは、アルヴェリアにも届いています。ただ——最近になって、異端の力による疑いがあるという話も、合わせて届いています」
恒一は何も言わなかった。
「複数の者の観察から来ています」フェリルが続けた。「レイナが最初に、ユミナ導師の消耗のパターンを見て気になると言った。ミリアが確認した。それぞれの経験と観察からの話です」
「……レイナさんが気になると言ったのは」
「覚えがあるのです」レイナが言った。「かつてのわたくし自身と——重なる部分があって」
重なる。
レイナは十年以上、異端の存在を身体に抱えて生きた。その経験を持つ人間が、ユミナを見て「覚えがある」と言っている。
恒一はユミナの顔を思っていた。朝の部屋で古文書を広げていた顔。カルスの言葉を聞いた時に一瞬だけ動いた表情。
「一つ、正直に話す」ヴァリスが言った。
「精霊機関車の技術協力については、本当のことだ。ユミナ導師の力を借りたい。それは嘘じゃない」
「ただ——もう一つ、目的がある」
「ユミナ導師を保護したい。そして——監視も、必要だと考えている」
監視。
恒一の中で何かが引っかかった。針の先に触れたような、軽くて鋭い何かが。
「監視、ですか」
「言葉が悪ければ、別の言い方もできる」ヴァリスが言った。「だが正直に伝えた方がいいと思った」
正直に伝えた。
恒一は少し間を置いた。燭台の火が揺れ、壁に影がゆっくりと動いた。
引っかかりはあった。言葉に反応した何かは、消えなかった。ユミナが、本人の知らないうちに「監視される側」に置かれているという事実への反発が、理屈とは別の場所から来ていた。
だが。
恒一は静かに計算していた。ユミナの消耗がこれ以上進めばどうなるか。エリンでの異端審議がもし再燃すれば。教国の監察官が本格的に動けば。アルヴェリアの外にいるよりも、ヴァリスの保護の内側にいる方が、少なくとも的にはなりにくい。感情と判断が別の場所で動いていた。恒一にとっては、それがいつもの形だった。
「分かりました」と恒一は言った。
「本人には伏せてほしい」ヴァリスが付け加えた。「問い詰めるのではなく、信頼の中で確認してほしいということだ」
少し間があった。
「公にすれば、民は神を疑う。秘せば、誰かを疑う。ならば今は、後者を私が引き受ける」ヴァリスが静かに言った。
「はい」
部屋を出ると、廊下は静かだった。石壁に午前の光が当たり、遠くで誰かの足音がした。
恒一はしばらく扉の前に立っていた。
「監視」という言葉が、まだ頭の中に残っていた。正直に言った、とヴァリスは言った。それは分かる。だからこそ、逆に引っかかる。正直に言える余裕があるということは、こちらに実質的な選択肢がないということでもある。
だが——恒一は廊下を歩き始めながら、考えた。
ユミナが安全でいるための条件を、今、この国が持っている。それは事実だ。感情がどこにあるかとは、別の話だった。
足音が石畳に吸い込まれた。光の中を、恒一は歩いた。
ユミナの部屋に戻ると、写しはまだ机の上にあった。ユミナは窓の外を見ていたが、恒一が入ると視線を戻した。
「……終わりましたか」
「ああ」
恒一は椅子に座った。ユミナがどんな顔をしているかを確かめた。何かを待っている顔だった。何を待っているのかを知っていながら待っている、という顔だった。
ユミナが恐れている異端審問、異端への疑い。
ヴァリスたちとの話でそれはもはや疑いでは無く事実という輪郭が強くなっていく。
話がある。話したいことがあるなら聞く。どちらも今の恒一には言い出せなかった。
部屋に光が差していた。二人の間に言葉はなかった。それで終わった。




