第103話 降下前夜
ミリアが乗った精霊機関車は、夕刻をわずかに過ぎた頃にターレ港の駅舎に滑り込んだ。
恒一が出迎えに向かった時、すでに乗客の波は引きかけていた。風が向かいから来た。鉄の熱気と、港特有の潮の匂いが混ざって鼻に触れた。しかし三層から戻ってきてからずっと、その匂いの底に別の何かが混じっている。前は感じなかった重みのようなものが、夜の空気に薄く溶けていた。
「やっほー、遅れた?」
人波の中から声がした。軽い。降車口の柱の陰から現れたミリアは、肩掛けの荷物を担いで、他の乗客と同じように出口に向かってくるところだった。
「遅れていない」と恒一は言った。「今着いた」
「コイチが出迎えに来るとは思ってなかったよ」ミリアは軽く首を傾けた。「ユミナも来てる?」
「事務所で待っている。今日は情報の整理を先にさせたかった」
「……なるほどね」
短い返し方だった。軽口の間が少し長くなった。ミリアの目が、恒一の後ろ——港の方角の、夜の輪郭を少し確認するように動いた。
「空気が変わってる」
「三日前より濃くなっている。四層より上でも感じる」
「そっか」
それだけ言って、ミリアは歩き始めた。声のトーンは変わらなかったが、足の運びが一歩目から迷いなかった。
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事務所に全員が集まったのは、夜に入ってからだった。
机を囲む形で立ち、ヴェルダが広げた地図の写しを中心に据えた。ヘルマが一層から八層までの経路に走り書きを入れた版を別に広げた。灯台の油が燃える匂いが室内に漂い、窓の外では港の夜の音が遠く続いていた。
ノルが横に来た。声を落として言った。「……先輩、あの方って」
「そうだ」と恒一は言った。
ノルが一拍止まった。目がミリアの方を見て、また地図に戻った。「……本物なんすね」
「本人は気にしていない。仕事で来ている」
「……了解っす」
それだけで終わった。ノルは地図の方に視線を落とした。
「今日は戦略の確認ではなく、現場の調整をしたい」と恒一は言った。「役割はアルヴェリアで決まっている。ここで変えることはない。確認するのは経路の具体と、装備の実数と、各地点での判断基準だ」
「……異論なし」とヴェルダが言った。
ヘルマが地図の一点を指先で押さえた。「六層から七層への下降部。ここが現状の通路では最も細い。リガードの組と縦一列になる必要がある」
「リガードと事前に確認している」と恒一は言った。「通路幅が変わった時点で一声かけると言った。こちらは声に合わせて縦列に変える」
「ノルが祈祷展開をするなら七層手前で準備が要る」とヘルマが続けた。
「先輩より先に言おうとしてたっすけど……合ってるっすよ。七層を越えたら浄化線の張り直しが追いつかなくなる可能性があるんで、六層終わりで一度全体を張り直したいっすね」
「時間は」
「……数える間、もらえれば」
恒一はヘルマを見た。ヘルマが頷いた。それで決まった。
「装備の確認をする」ヴェルダが口を開いた。「地図写しを三部。各人の消耗状態記録票を一式。ゴーレム命令文の写しは私が一部持つ。恒一も持つことを推奨したい」
「持つ」
「……それだけあれば、こちらは問題ない」
ミリアが地図の端をちらりと見て、それから顔を上げた。「あたし側の確認をしていい?」
「どうぞ」
「楔外縁の同調修復——開始タイミングはいつが最適っすか、みたいな話は、降下した後にしかわからないと思うんだけど」ミリアの目が真っすぐに来た。軽口の言い方のまま、目だけが違った。「あたしが入るタイミング、コイチが判断するの? それともヴェルダが?」
「現場で判断する」と恒一は言った。「ヴェルダと俺で確認して合図を出す。ミリアはその合図で動いてほしい」
「……了解です」とヴェルダが短く言った。
ミリアは少し間を置いた。目が地図に下りた。「分かった。じゃ、あたしの話を一つしていい」
誰も答えなかった。それが答えだった。
「あたしの祈りは土台までは支えられる」ミリアは地図を見たまま言った。「楔の外縁に同調して、崩れていく構造を外から押さえ続けることはできる。それは本当のこと。でも」
一瞬、間があった。
「欠けてる答えそのものにはなれないの。外縁を保つことと、中心の空白を埋めることは——あたしには別の話だよ。それだけは、前から言っておきたかった」
部屋が静かになった。
ヘルマが腕を組み、視線を地図に落とした。ノルが小さく「……っすね」と言ったきり、あとは何も言わなかった。
「分かっている」と恒一は言った。「そのつもりで計画を組んである」
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全員が解散したのは夜の中頃だった。
明日の最終確認。明後日の降下。その段取りはヘルマが宿舎の前で短くまとめて、終わりにした。ノルが「じゃあっす」と言って先に歩いた。ベックが無言でその後に続いた。リガードは翌朝に直接顔を出すという話だった。ミリアは宿に入る前に恒一を振り返った。
「コイチ」
「何だ」
「明日ちゃんと寝るんだよ」
それだけ言って、ミリアは宿の扉の奥に消えた。扉の閉まる音が、夜の空気に短く響いた。
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ヴェルダと恒一が事務所に戻った。
ユミナはまだ机に向かっていた。灯りが一つだった。書類の束が広がったままになっていた。
「……終わりましたか」とヴェルダが言った。
「一通り」と恒一は言った。「残った話が一つある。瘴気の仮説を降下計画に組み込む確認だ」
「……座ってください」
三人で机を囲んだ。ユミナが書類をわずかに脇に寄せた。
「瘴気を『上書き』と捉えた場合」と恒一は始めた。「深層に近づくほど書き換えの密度が上がる。切って出ようとすると、切った直後に別の層が来る。それが加速感の原因だとすると——」
「……切るのではなく、書き直す」とヴェルダが言った。「合っています。浄化線の効き方を変える必要がある」
「ノルには伝えていないか」
「……まだ」
「明日の朝一番で伝える。ノルに浄化線の展開をいつものやり方ではなく、上書きを想定した幅広の展開にしてほしい。狭く切るより、広く包んで押し返す方向で」
「……できるかどうかは、ノルに確認が必要です。ただ——」ヴェルダは短く止まった。「方向としては合っている。深層の記録文字列の密度から見ても、書き換え速度は単純な浄化の速度を超えてくる可能性がある」
「俺もそう見ている」
ユミナが一度視線を机の書類に落とし、それから戻した。「……一つ確認していいですか」
「どうぞ」
「『切るな、書き直せ』という判断——それは瘴気に対してだけではないですよね」
部屋が少し静かになった。ヴェルダの視線が、わずかにユミナの方向へ動いた。
「……そうとも言える」と恒一は言った。「楔の修復も同じだ。壊れた部分を切り落とすより、構造ごと接続し直す」
「……それで合っていると思います」とヴェルダが言った。「私から言えることはそれだけです」
ヴェルダが立ち上がった。椅子が引かれる音がした。「……おやすみなさい」と言って、ヴェルダは奥の部屋に向かった。足音が遠くなった。
恒一とユミナだけが残った。
「……もう一つ、やっておきたいことがあります」とユミナが言った。
机の端に置いていた布包みを解くと、鞘に納めたままのダラの剣と、替えの靴底が出てきた。革の手触りを確かめるように、ユミナの指が一度だけ剣の側面を撫でた。
「三度目の再構築の後、恒一さんの文献魔法の精度を測り直しました」
「いつ」
「帰りの精霊機関車の中で。出力の速さと定着の安定度から逆算するやり方です」ユミナは顔を上げないまま続けた。「火矢、雷撃、魔力感知——この三つは、今の恒一さんが単独で安定して使える水準に達しています。エリンに来た頃とは別の話です。今は導師級と呼んで差し支えない」
恒一はすぐに答えなかった。そう言われても、実感が薄い。身体が変わっていくのは感じている。しかし「導師級」という言葉には、まだどこか人ごとの響きがある。
「お前が言うなら、そうなんだろう」
「……はい」
「炎撃と電磁撃は」
ユミナが少し間を置いた。「あの二つは別の話です」
分かっている、と恒一は思った。
炎撃は一度失敗している。五層に入ったばかりの頃、火矢の推進力を身体に乗せようとして、発射の反動で後ろに吹き飛んだ。壁に背中をぶつけて数える間、動けなかった。速度を活かすつもりが、自分の体重が軽すぎて制御できなかった。
「単独では使えません」とユミナは言った。「恒一さんの身体の軽さが、あの術式の安定条件と噛み合っていない。私がいない状態での使用は推奨しません。ただ——今の恒一さんなら、向きさえ決めれば、一本だけ通せる」
「電磁撃は」
「こちらは構造が違います」ユミナが鞘を持ち直した。「剣に雷撃を纏わせて、金属との間に引力を起こす。跳躍点と到達点の金属を読む必要があるので、魔力感知との同時使用が前提です」
「感知は今なら単独で出る」
「……はい。条件は揃っています。ただ、事前に経路を確認できていない状況では、跳躍が止まらなくなる可能性があります。深層の金属密度は上層とは桁が違う」
つまり経路を先に読め、ということだ。恒一は頷いた。
「注釈を入れます」とユミナは言った。「一本道を開ける時だけ、力が出る書き方で。消耗が早い。使える回数に上限があります」
ユミナの指が鞘の革の上を辿り始めた。文字が走るのが見える気がしたが、恒一には読めなかった。革が、ほんの少し温かくなった。次に靴底。最後に剣の柄——鞘から一寸ほど抜いて、根元に文字を刻み、静かに戻した。
「……終わりました」ユミナは布包みを恒一の前に戻した。「切り札です。一本道を切り開く時だけ使ってください」
「分かった」
ユミナが少し黙った。恒一も黙った。布包みの革が手のひらに馴染む重さだった。
恒一は椅子を引いて腰を下ろした。机の上に残ったヴェルダの書類の端が、窓から入るわずかな夜気で揺れた。
「眠れそうか」と恒一は言った。
「……少し」
「少しで足りるか」
「足りないと思います」ユミナは書類を見たまま言った。「でも、横にはなれます」
恒一は少し間を置いた。「俺もそうだ」
沈黙があった。港の方角で船の揺れる音が聞こえた。遠い音だった。
「変わったと思います」とユミナはやがて言った。
「何が」
「恒一さんが。それから、わたしも」
恒一は返事をすぐにしなかった。ユミナの言い方に急ぎがなかった。問いではなく、確認だった。
「変わっているな」と恒一は言った。
「……三度目の再構築の後から。確認していなかったわけじゃないですが——」ユミナが一度止まった。「こうして言葉にする機会がなかっただけです」
「アルヴェリアでも言えなかった」
「言いそびれました」
恒一は頷いた。言いそびれることは分かる、と思った。四十五年生きて、大事なことほどタイミングを逃す。
「お前が代償を話してくれた後から」と恒一は言った。「俺がここにいる理由が変わった。守られているからいるんじゃない、という実感が増している」
ユミナが少し間を置いた。「……確認します」
「何を」
「恒一さんは今、怖くないですか」
恒一は少し笑った。「怖い」
「……そうですよね」
「怖いが、行かない理由にはならない。それだけだ」
ユミナが書類から目を上げた。少しの間、恒一の方を見た。恒一も見た。
「……わかりました」とユミナは言った。今度は「わかりました」ではなく、もう少し短い言い方だった。「おやすみなさい、恒一さん」
「おやすみ」
ユミナが書類を揃えて立ち上がった。灯りが残った。
恒一はしばらく、その一つの灯りを見ていた。窓の外で港の音が続いていた。船が揺れ、波が石壁を叩いた。明後日の降下まで、もう丸一日もなかった。




