第104話 深層への降下
降下当日の朝は、匂いから始まった。
宿の窓を開けた時、外の空気が薄く金属の味を持っていた。港の塩気とは別の、奥から来るような重みだった。恒一はしばらくそれを確かめてから窓を閉めた。
一層の入口に全員が集まったのは、朝の明るさが石壁の上半分まで届いた頃だった。ヘルマが装備を一つひとつ指差し確認した。ノルが「全然平気っすよ」と言ったが、声が少し高かった。ベックは何も言わなかった。リガードが最後に来て、全員の顔を一度だけ見渡した。目が止まったのは恒一のところで、それから前を向いた。
「行くか」とヘルマが言った。
誰も返事をしなかった。それが返事だった。
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一層から三層は問題がなかった。
経路は先週の確認と変わっていなかった。石壁の染み出しがわずかに増えていたが、浄化線の内側にいれば感じない程度だった。ノルが浄化線を張り直す間、ベックとリガードが前後を押さえ、恒一はヘルマの隣で足元の地面を確認した。石の温度が、一層では感じなかった微かな違いを持ち始めていた。底から来る熱ではない。冷たすぎる。前世の感覚では、真冬のコンクリートに素手を当てた時に近い。
「四層で一度確認する」とヘルマが言った。「恒一、この先の通路の石目を覚えているか」
「Y字に分かれる箇所が二カ所。左奥が行き止まりで、右奥が五層への下り口だ」
「正解。だが今日は——」ヘルマが通路の壁を軽く叩いた。「音が変わってる。どこかが詰まってる可能性がある。確認しながら進む」
リガードが一言「了解」と前から言った。
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四層で最初の異変があった。
通路の角を曲がった先で、壁面の石が一部崩れて通路を狭めていた。石落としで段差になっている。前週の地図には記録がなかった。
リガードが崩れた石を手で掴んで引いた。石の欠片が床に落ちた音が、通路の奥まで転がった。
「通れる」とリガードは言った。「細いが」
ヘルマが横から覗き込んだ。「……六層手前までこれが続いてたら、計画を変える。ノル」
「っす?」
「この段差の向こう。浄化線、どうだ」
ノルが通路の壁に手を当てた。少しの間があった。「……薄くなってるっすね。自然に薄れてるんじゃなくて——染み出してる感じっす。石の継ぎ目から来てる」
恒一が崩れた石の断面を見た。切り口が整いすぎている。自然崩落ではない。圧が均等にかかって砕けた形だった。
「壁の向こうで何かが動いたか、瘴気の密度が増して石に圧がかかったか」と恒一は言った。
「……後者の可能性が高い」とヴェルダが静かに言った。手帳を開いたまま、崩れた石の断面を見ていた。「先週の記録と、断面の染み出し位置を照合します。少し待ってほしい」
待つ間、全員が声を落とした。通路の奥から、微かな空気の動きが来た。匂いがあった。金属ではない。腐葉土の、湿った底の匂い——地の下の深いところにある、まだ光が届いたことのない土の匂いだった。
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六層を越えた時、空気が変わった。
変化には段階があった。五層では壁面の石の色が少し褪せていた。それが五層から六層の下り口を踏んだ瞬間、壁の色ではなく空気の質感が違った。息を吸う時の抵抗が、わずかに増した。気のせいではない。鼻の奥に触れる空気が、ほんの少し重くなっていた。
ノルが浄化線の展開を広めに取った。前日の朝にヘルマを通じて伝えた変更だった。「切るんじゃなくて、包んで押し返す方向で」という指示をノルは一度だけ聞いて、「……やってみるっす」と答えた。実際にやってみると、確かに効いた。浄化線の内側の空気が、外とは別の肌触りを持った。
ヘルマが通路の壁を一度叩いた。石の音が低かった。厚みがある。
「この先から、壁の文字列が増える」とヴェルダが前に向かいながら言った。「六層より深では、石に直接刻まれた文字列が密度を上げる。解読は歩きながら行う。止まる必要はない」
「必要が出たら言え」と恒一は言った。
「……はい」
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七層手前で、ノルが一度止まった。
「浄化線の張り直しっすよ」と言ってから、祈祷文を唱え始めた。声が変わった。普段の軽口とは別の声だった。抑揚が落ち、間が均等になった。恒一はその声を聞きながら、七層の石壁の上半分を目で追った。
壁の文字列が、六層より明らかに多かった。
文字そのものは読める。三度目の再構築の後、この世界の一般的な文字は読めるようになっていた。しかし、ここに刻まれているのは一般的な文字ではなかった。通常の文字に似た形をしているが、配列が違う。単語として読もうとすると意味が崩れる。ゴーレムの制御文字に似ているが、それともわずかに異なる。
図形として捉えた方がいい。恒一はそう判断して、目をスライドさせた。
ヴェルダが壁に近づいた。手帳に写し取る。手が止まらない。写しながら解読する——ヴェルダが「歩きながら行う」と言ったのは、経験からの言葉だったと分かった。
ノルの祈祷文が終わった。浄化線が更新された感触があった。空気の重みが少し引いた。
「続けよう」とヘルマが言った。
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七層を越えた時、通路の幅が変わった。
広くなった。前週の地図では「七層下り口から先、通路幅が増す」と書いてあったが、実際に踏んでみると想定より広かった。前を行くリガードの肩がどちらの壁にも届かない。ベックが横に並んで歩けるほどの幅があった。
同時に、床の傾きが増した。下への角度が急になった。重心が前に引かれる感覚があった。恒一は自分の踏み込みを少し意識的に変えた。前重心で下っていると、急な段差に対応できない。踵からではなく、足の中央から置く。
「重心、気をつけてください」と後ろからユミナが言った。「傾きが一定ではないです。段差が来ます」
「了解」とノルが答えた。
ベックが無言で一歩だけ間隔を広げた。前のリガードとの距離を保つためだった。言葉なしの調整だった。
壁の文字列の密度が、さらに増した。七層では壁の三割程度に刻まれていたが、八層に入ると六割を超えた。壁の石そのものが、記録の支持体として使われているかのようだった。
「……ここの文字列は層記録ではない」とヴェルダが歩きながら言った。「引き継ぎの形式に近い。処理された結果ではなく——」
一拍あった。
「——途中経過の記録です」
恒一はそれを聞いて、壁の一点を見た。
文字が連なる。切れ目なく連なる。整然として、削除も訂正も見えない。残ったのではなく、残すために刻んだ形だった。
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八層を越えた時、感覚が変わった。
段階的ではなかった。一歩踏んだ瞬間に、空気の重さが跳ねた。鼻の奥に来る匂いが、初めて嗅ぐ種類のものになった。土でも金属でも腐敗でもない。何かもっと古いものの匂いだった。年代を持った紙の束の匂いに似ていたが、それより遥かに重かった。
ヘルマが足を止めた。全員が止まった。
しばらく誰も言わなかった。
ノルが一度、鼻から息を吸った。「……違う匂いっすね」
「深層特有のものだ」とヘルマが言った。「慣れる。慣れる前に判断しようとするな」
「分かったっす」
恒一は壁に目を向けた。石の色が、上層とは違った。灰色ではなく、ほんの少し青みを帯びた色だった。壁面の文字列は、もう壁の七割を超えていた。隙間の方が少ない。石の面積の大半が、文字で埋まっていた。
ヴェルダが一度だけ立ち止まった。壁の一点を手帳に写した。それから顔を上げて、恒一の方を向いた。
「……ここの記録は」とヴェルダは言った。短く止まった。「種類が違います」
「違う、とは」
「……上層では、命令文が多かった。動け、止まれ、排除せよ。ここのは——」ヴェルダの目が壁に戻った。「書き方が違う。何かに報告している。誰かへ宛てている」
恒一は壁の文字列を見た。配列が、確かに違った。上層で見たゴーレム制御文字の直線的な並びとは違う。波があった。長い記述があって、短い返答のような行が来て、また長い記述が続く。
「世界が、自分で記録を残していた」と恒一は言った。
ヴェルダが少し間を置いた。「……かもしれません」
通路の奥が、暗かった。灯りを向けると石の面が反射した。文字が光の角度に合わせて浮き上がった。
「行こう」とヘルマが言った。
全員が頷いた。言葉より先に、足が動いた。




