第102話 リガードの敬意
三層から戻ったその夜、ドラク商会の事務所の外でリガードが待っていた。
裏口を出たところに立っていた。壁に背を預け、腕を組んで、角を向いて立っていた。視線が来た瞬間、恒一はリガードだと分かった。あの体格は他にない。
「待っていたのか」と恒一は言った。
「少しだ」とリガードは言った。声は低く、感情が乗っていなかった。「今夜、時間はあるか」
「ある」
「一杯付き合え。話がある」
断る理由はなかった。
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港に近い酒場に入った。夕食を済ませた漁師や商人が何組かいたが、奥の席は空いていた。リガードが当然のように奥に向かい、恒一はその後についた。板張りの床が足元でわずかに鳴った。厨房の方から焦げた脂の匂いが漂ってきた。
酒が来た。リガードは杯を持ったまま、しばらく何も言わなかった。恒一も黙って待った。隣の席から笑い声が聞こえた。漁師らしき二人が何かを言い合っていた。リガードはそちらを一切見なかった。
「ガルシュタインが撤退した」とリガードはやがて言った。「正式に、会社の決定として。俺は個人の判断で残っている」
「グレンから聞いた」
「そうか」
リガードは杯を傾けた。中の液体が揺れ、また戻った。呑んではいなかった。
「お前に一度救われた」
短い言葉だった。説明のない直球だった。
「あの崩落の時だ。数ヶ月前——七層で古ゴーレムが暴れた後の崩落。あの時のお前の判断がなければ、うちの一人が石の下に残っていた」
恒一は答えなかった。
あの日のことは覚えている。ゴーレムが暴れた後の石の崩落。どこに逃げろと叫んで、誰を引っ張った。その後のことは覚えていない——自分が死んだからだ。
「魔法を使って助けたわけじゃない」と恒一は言った。
「分かってる。だから話しに来た」リガードは杯を机に置いた。「魔法なら誰でもやることだ。お前がやったのは判断だ。崩落の方向を読んで、どっちに向かえば抜けられるか一瞬で出した。俺たちよりも速く」
リガードの視線が真っすぐに来た。それをかわさずに恒一は受け止めた。
(昔なら目を逸らしていたかもしれない。四十五年生きて、管理職をやって、それで人に正面から受け取られると場の空気が変わることは知っていた。逸らすのが礼儀に見える時もある。ただ今は違う、と恒一は思った。これは受け取るべき視線だ)
「だから残った」とリガードは続けた。「会社の判断には従わない。俺が判断する。今度の降下——お前たちが行くなら、前は俺が行く」
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話が変わったのは、二杯目が来た後だった。
リガードが何かを確かめるような目で恒一を見ていた。視線の向き先が変わった。顔ではなく、肩の位置、腕の置き方、足の踏み方——身体の各部を、計測するように見ていた。
「変わったな」とリガードは言った。
「何が」
「体だ。前に会った時と違う」
恒一は答えを探した。何を言えばいいか分からなかった。
「重心が下がった」とリガードは言った。「前は体が上に引き上がっていた。今は下に落ちている。どこで覚えた」
「……特に意識したわけじゃない」
「そういうもんだ」とリガードは言った。「身体が先に覚える。頭で考えてからじゃない」
恒一は黙った。
確かにそうかもしれない、とは思った。三度目の再構築の後から、足の置き方が変わっている感覚はあった。走る時の起点が変わった。止まる時に、以前は上から力を入れていたのが、今は下から引く感覚に変わっている。杖を持つ時の握り方も変わった。指先の圧の配分が、前とは違うところに集まる。
それを言葉にしようとしたことは一度もなかった。意識していないから言葉にならないのか、意識しているが言葉にしていないのか、その区別も恒一には分からなかった。
しかしリガードはそれを見てとった。視線だけで。
「剣はどうする」とリガードは言った。
「使えるが、得意じゃない」
「そうじゃなくて」リガードは顎をわずかに動かした。腰のあたりを示すような動きだった。「構え方が変わっている。前は引いて待っていた。今は少し前に出ている。攻撃じゃなく、流すための角度を作ってるだろう」
恒一はしばらく考えた。「……そう見えるか」
「見える」
「当たってる」と恒一は認めた。「切るより流す運用にしている」
「誰に習った」
「ダラ、という鍛冶師から剣を渡されて——ある人間に言葉をもらって、自分で試した」
「名前は」
「お前だよ」と恒一は言った。
リガードが少し間を置いた。「俺」
「崩落の後、合流してからだ。お前の戦斧の動きを見て考えた。お前は速さに質量を乗せる。俺には質量がない。じゃあ速さだけで何ができるか、というところから試した」
リガードは黙って恒一を見ていた。
「俺の動きから学んだというわけか」
「影響されたと言ったほうが正確だ。真似したんじゃない」
リガードはゆっくり杯を持ち上げた。今度は呑んだ。カウンターに置いてから、短く言った。
「なるほどな」
それだけだった。褒めでも貶しでもなかった。確認が終わった、という声だった。リガードは杯を手に取ったまま、少しの間、壁の方を見ていた。何かを考えているようだったが、何を考えているかは分からなかった。
「お前がいたから俺の部下が助かった」ともう一度、リガードは言った。「それだけだ。余計な話はしない」
「分かった」
「降下の当日は俺が三人先に行く。その後ろにお前たちが続け。通路の幅が変わったら一声かける。先に教えた方が判断が速い」
「ありがたい」
「礼はいらない。連携の話だ」
リガードは立ち上がった。椅子を引く音がした。
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帰り際、酒場の外に出たところでベックが立っていた。
壁際に立っていた。腕を組んで、特定の方向を向いておらず、ただそこにいた。リガードを見た。リガードもベックを見た。
「お前がベックか」とリガードは言った。
ベックは少し間を置いた。「そうだ」
「恒一の班の盾役だと聞いた。崩落の時も一緒にいた」
「……ああ」
「腕はどうだ」
「動く」
リガードは頷いた。それ以上何も言わなかった。ベックも何も言わなかった。ただ二人が向き合って、それで何かが伝わったらしかった。
恒一にはそれが何だったか分からなかった。しかし確認が終わったことだけは分かった。リガードが先に歩き始め、角を曲がって見えなくなった。
「何だったんだ、あれは」と恒一はベックに言った。
ベックは視線を角の方向から戻した。「……同業者の話だ」
「それだけか」
「それだけ」
ベックが先に事務所の方向へ歩いた。恒一はその後について歩いた。
夜の港の匂いがあった。塩と木材の匂い、それと、昼間に三層で嗅いだ底重い匂いの薄い名残が混ざっていた。
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事務所に戻ると、ヴェルダとユミナがまだ机に向かっていた。
「……遅かったですね」とヴェルダが言った。視線は書類から離れなかった。
「少し話が長くなった」
「リガードさんですか」とユミナが言った。顔を上げた。
「そうだ。何で分かった」
「……ベックさんが後から出ていきましたから」
恒一はそれを聞いて少し笑った。ユミナは「何かおかしいですか」という目で見た。
「いや。お前はよく見てる、と思った」
「当然です」とユミナは言った。感情のない言い方だったが、少し間があった後で付け加えた。「……報告は明日でいいですか」
「明日でいい」
ユミナが頷いた。視線が書類に戻った。ヴェルダも書類を見たままだった。
恒一は自分の机に荷物を置いた。
降下を明後日に繰り上げる。今夜確認したことで、その判断が変わりはしない。ただリガードが前に行くと言った。それは計算の中に入れていい変数だ。
窓の外に港の灯りがあった。揺れる光が水面に散らばっていた。遠く、船の揺れる音がした。




