モーレア島 二日目 魚ですら添い遂げるっていうのに(1)
少しだけ開けておいたカーテンの隙間から陽光が差し込み、六時前に目が覚めてしまった。なんか嫌な夢を見ていたような気がするので気分はあまり良くない。
Tシャツ短パンにタオル地のパーカーを羽織り、テラスに出てみる。波間に弾ける朝日が眩しくて、一気に頭が冴えた。
今日のスケジュールを思い出し、昨日とは違うパステルグリーンのリゾートドレスに着替えて身支度を調える。それでもまだ時間に余裕があったのでテラスに置かれているビーチベッドに転がってみた。
テラスには見たことのない種類の鳥がやってきてはチロチロ鳴いて飛んでいく。波は昨日と変わらず穏やかだ。海の音といえばザザーンザザーンという意識が染みついているせいで不思議な感覚になる。しかも、いわゆる磯の香りがしない。昨日溺れかけた時に飲んでしまった水は間違いなく塩辛い海水だったのに、まったくなんの匂いもしない。プランクトンとか水質とか、きっと何かが違うのだ。
そんな他愛ないことを考えてごろごろするのにも飽きた頃、波音の合間に別の音が聞こえてきた。
「イアオラナ」
人の声がした。海のほうからだ。急いで起き上がり、テラスの下を覗き込んでみる。
一艘のカヌーがテラスの梯子に横付けされていた。タヒチアンドレスを着て花冠をつけた女性と、腰にパレオを巻いただけの伝統的な出で立ちをした男性が乗っていて、フルーツを中心としたトロピカルな食事が運び込まれてくる。
カヌーブレックファスト。タヒチ名物の、なんとも優雅なサービスである。もちろん予約制。日本の旅行代理店で頼んでおいたのだ。
テラスのテーブルに並べられたのは、フルーツの他にパンとスクランブルエッグ、ベーコンとポテト。それからティーセット。
内容は普通だけれど、ボリュームがすごい。特にポテト。山盛りなんだが。
仕事を終えて颯爽とカヌーで帰っていく二人に「マルルゥ」と手を振って、とりあえず写真を撮っておく。海の上でいただく朝食。とても絵になる。なるけど……やっぱり多い!
スイカ、メロン、パイナップル、パパイヤのフルーツ盛りと、卵、ベーコン、ポテトはどうにか片付けたがパンは無理。入らない。はち切れそうな満腹感に呻き、優雅な気分は完全に吹き飛ぶ。
とりあえず、パンは紙ナプキンに包んで部屋のテーブルに置いておくことにした。再びベッドに転がりたいのを我慢したのは、今日はこれからいくつか予定があったから。
まずは、エステ。ホテル敷地内にあるスパを事前に予約してあった。
スパに到着して名前を告げるとパレオを渡され、全裸になってパレオだけ着けるよう指示された。そして十五分ほど露天の水風呂に漬けられた後、オイルでマッサージされる。
このオイルはモノイオイルといって、ココナッツオイルにティアレの花を漬け込んだものだ。ティアレの花の香りを全身に刷り込まれるようなマッサージは極上……なのだが、いかんせんお腹はまだ引っ込んでおらず、マッサージ台で俯せにされて背中を押されると大変なことになる。具体的に言うと出る。上から出る。もはや新手の拷問。いや、無理して朝食食べきろうとした意地汚い私が完全に悪いんですけれども。
カヌーブレックファストにしろエステにしろ、どうも優雅に決まらない。
ツヤツヤ且つフラフラになってスパを出て、一旦部屋に戻ると手荷物を持って今度はレセプションへと向かった。次の予定は、日本人ガイドによるモーレア島巡り。これも日本から予約しておいたアクティビティだ。
レセプションに着くと、そこには先客がいてソファに座っていた。顔ぶれを見て、私の頬がわずかに引き攣る。
「あ、おはようございます」
あのカップルの、女性のほうが私に気づくと素早く立ち上がって挨拶してきた。今日はボーダーのシャツにジーンズ姿だ。
「どうもー」
目を合わさずに返事をして、私は少し離れたソファに腰を下ろした。
そうだ。夕食だけでなくアクティビティも一緒になる可能性があったのだ。考えてなかった。
いや、でも今日のスケジュールが同じとは限らないし。彼女たちは別の場所に行くのかもしれないし。
と、思ったけれど甘かった。
「えーっと、小笠原様、一名様。あと雪村様、二名様。お揃いですか?」
迎えにきた日本人ガイドが名前を読み上げ、私に続いてカップルが立ち上がった。がっかりだよ。
だったら、他のホテルのツアー参加者に期待――
「では、本日のモーレア島一周ツアーはこの三名様で巡りますので。よろしくお願いします」
がっかりだよ。
「よろしくお願いします」
カップルが二人で、私に頭を下げてくる。
「こちらこそ、よろしくお願いしますぅ」
私はにっこり笑って応じた。他にどうしようもない。
日本人ガイドは五十代くらいの男性でマサヒロと名乗った。長らくモーレア島に住んでいるとのこと。旅行会社に依頼され、時々こうして日本人客の案内をしているらしい。
小型ワゴン車の中でそんな話をしながら、私はぼんやり窓の向こうを眺める。
モーレア島の緑は濃い。海からにょきっと緑色の要塞が生えているみたいな印象だ。ゴーギャンが「古城のようだ」と評したのも頷ける。蔦に覆われた古代の城。そのように見えた。
しかしモーレア島を覆うのは蔦ではなく、椰子の木やパンノキ、ノニなどの熱帯植物と、そしてパイナップル畑だ。
「モーレア島はパイナップル栽培が盛んなんですよ。日本で売られているものより小振りですけど、熟すととても甘くて芯まで食べられるんです。ツアーの最後には加工場に行きますんで、絞りたてジュースが飲めますよ」
私が畑を眺めているのに気づいたらしく、マサヒロさんがすかさず説明してくれた。
「わぁ、それは楽しみですね」
答えたのは、私と並んで後部座席に座った女性だ。最後の『ね』は私に同意を求めるように向けられていた。
「ですねー」
マサヒロさんと、カップルの男性――雪村氏は同性で歳も近いからか、会話は主に二人の間で交わされていた。
しかも妙に気を遣ってくれやがりまして、女性同士並んだ方が良いだろうと雪村氏は自分が助手席に座り、私たちに後部座席を譲った。
その結果、めちゃくちゃ気まずいです。
私が積極的に話そうとしないので、彼女ばかりが話しかけてくる。しかし私は言葉のキャッチボールをすることなく、受けてはその辺にぽいっと捨てる。何度かそれを繰り返すとさすがに私が会話を望んでいないと察したらしく、彼女は俯いてもじもじし始めた。……って、おいおい、ちょっと泣きそうになってんじゃん。
「あー……なんかすいません。私、邪魔ですよね。せっかくお二人での旅行なのに」
仕方ないので謝った。わざとじゃないんだよ、わざとじゃ。もっと参加者いると思ったんだよ。こっちだって好きでこんな気まずいポジションにいるわけじゃないんだよ。
彼女は一瞬、驚いた顔をした。たぶん、初めて私から言葉をかけたからだろう。そしてすぐ、ぱっと笑顔が華やぐ。どうやら元々の薄幸そうな雰囲気のせいで、泣きそうに見えただけのようだ。
「そんなことないです! 実は私、海外旅行って初めてで……。もっと日本の方が多いと思っていたんで、少し心細かったんです」
せっかく見つけた会話の糸口を離すまいと、彼女は少し早口になって言った。すると運転席のマサヒロさんが前を向いたまま話しに加わってくる。
「日本人の方はほとんどがボラボラ島へ行ってしまうんですよね。僕としてはモーレア島がタヒチで一番良いと思うんですけど。あちらは土地が狭いぶん、見て回るところがここよりもっと少ないですからね。いくら海が綺麗でも、水上コテージだけで一週間は飽きますよ。おまけに右を見ても左を見ても日本人だらけで、せっかく海外に来たのにまったくそんな気分は味わえませんから」
「それなら日本にあるスパリゾートハワイアンズで充分ですね」
「ははっ! その通り!」
何気なく返した私の言葉にマサヒロさんが豪快に笑う。その隣で雪村氏も肩を震わせていた。
「私はあの辺りの出身ですが、たしかに良い施設ですよ。昔は常磐ハワイアンセンターという名前でしたね」
それからしばし、件の施設が舞台の映画『フラガール』をはじめ、映画の話題となった。どうやら雪村氏は映画通らしい。バウンティ号の映画を知っている時点で察してはいたが。
雪村氏の印象はこうして話してみると悪くない。むしろ良い。娘ほど歳の離れた美女を連れて南国旅行という現場でなければ、人間としての好印象を素直に受け入れられただろうに。
他にも、割とどうでも良い話に花を咲かせる。タヒチや南国を舞台にした映画に小説。私はサマセット・モームの『月と六ペンス』を挙げ、内心こっそり憂鬱になった。あれは妻子を捨て、各地を放浪した果てにタヒチへ行き着いた画家の話だ。
ふと隣からの視線に気がつく。軽く横目でちらりと見やると、キラキラ輝く目がそこにあった。
「とても博識なんですね。わたしは昌治さん――彼のことなんですけど、昌治さんとは違って、映画とか本には詳しくなくて……。知ってるのは『銀河鉄道の夜』くらいなんです。私と、あまり歳も変わりませんよね? 凄いです」
別に博識というほどではないと思うが。映画だってマニアと比べれば大した知識はないし、観ていない、読んでいない名作もたくさんある。
「好きなものを好きなように観ていただけですよ。それに私、もう三十一ですし」
あんたそれより若いでしょ、と暗に含んで言うと、彼女は目を丸くした。
「ごめんなさい、てっきり年下か同い年かと思ってました。私、二十九です」
白々しいお世辞。でも、それ以上に私の神経に障ったのは二十九という数字だった。
あの女と同じ歳。
つい無意識に、頭のてっぺんからつま先まで、じっとりと眺めてしまった。
そうか、これが二十九か。
「あ、あの……?」
私の鋭い視線に、少し居心地悪そうにする彼女。
いかんいかん。つい殺気が漏れてしまった。
「いや、すいません。わたしも、もっとお若い方なのかと思っていたので……ええっと」
ここに至り、隣に座る彼女の名をまだ知らないことに気がついた。雪村氏に関しては、さっきマサヒロさんに読み上げられた名字が判明しているし、彼女は彼を昌治さんと呼んだ。雪村昌治がフルネームだ。だが、彼女も「雪村さん」と呼ぶべきか否か。
一瞬の迷い。それを彼女は素早く察した。
「私、日比野っていいます。日比野瑠菜です」
瑠菜。名前までかわいい。そして名字が違うということで、わずかながら残っていた雪村氏との親子説もかなり薄くなった。そもそも親子だとしたら、娘が親を「昌治さん」と名前で呼ぶことはあまりないだろう。
それはともかく、フルネームを名乗られてしまったら、こちらも名乗らざるを得まい。
「小笠原晴子ですぅ」
はい、地味ネームです。
母は晴羅と名付けたかったそうだが、父が渋ったため晴子になりましたとさ。
けれど、私は実は晴子であり晴羅でもあったりする。
小説の新人賞に応募する際、筆名を考える手間を惜しんだ私は晴羅を採用。ついでに小笠原の小を取っ払って笠原晴羅と名乗り、今に至るまでの十年ちょい、公の場では晴羅として生きてきた。
とはいえ、笠原晴羅は、もう――
そんなことを考えながら名乗った直後、じゃりっと砂を踏む音とともに車が停止した。
「さぁ、着きましたよ。農業高校です」
マサヒロさんに促されて車を降りると、小さな売店があるばかりだった。山を切り拓いた中、それ以外に見えるのはお手洗いくらいなもの。木々の向こうに大きめの建物らしきものはあるが、観光施設ではなさそうだ。
私も雪村氏も瑠菜も、きょろきょろと周囲に目を向ける。
この売店が観光地? しかも農業高校とは?
戸惑う私たちをよそに、マサヒロさんは笑顔だった。
「ここはポリネシア唯一の農業学校です。ここからは見えませんが海老の養殖もしていて、パイナップルと同じく島の名物なんですよ。でも、ここではなんといっても――」
売店に歩み寄ったマサヒロさんは、私たちに向かって両手を広げた。
「アイスクリームです!」
ばばん! と効果音が聞こえてきそうなほど力強く仰せだが、私たちは一様に「はぁ」と曖昧な反応を返しただけだった。
だってアイスて。日本のコンビニでも買えるし。
しかしマサヒロさんはお構いなしだ。
「特にオススメなのがバニラです! 試食もできますよ!」
うーむ。
アイス。しかもバニラ。アイス屋では季節限定フレーバーを頼むことが多かった私には、あまり心引かれない響きだった。
でもまぁ、ここまで推されたら仕方ない。試食だし。
「じゃあ、バニラアイスお願いします」
「では、私たちも」
私に続いて雪村氏と瑠菜も試食をお願いすると、マサヒロさんがフランス語で通訳してくれた。ラフなキャミソール姿の女性店員は心得たように冷蔵庫を開ける。
カップに盛りつけられたアイスは、これといって特徴のないバニラアイスだった。
白い。そして黒い粉のようなものが点々と入っている。これはバニラビーンズだろう。日本でも少し良いレストランなんかに行くと、こういうアイスがデザートとして出てくることがある。
半信半疑のまま、ひと掬い。
「あっ、うまっ」
思わず素の感想が出た。
雪村氏も感嘆の溜息を零し、瑠菜はスプーンを口に入れたままフリーズして目を見開いている。
「……私、バニラアイスってただのミルク味だと思ってました」
ようやく口を開いた彼女に、マサヒロさんは会心のドヤ顔を向けた。店員も同じくだ。
きっと、ここを訪れる日本人のほとんどが似たような反応をするのだろう。悔しい。でもおいしい。
スプーンをせっせと動かし、私はアイスを口に運ぶ。
頭の中は幼児時代にトリップしていた。
台所の片隅で見つけたバニラエッセンス。なんて良い匂い! きっとすごくおいしいに違いない!
そう思って口に入れ、見事に悶絶する羽目になったあの時、想像していた味がこれだった。いや、理想の遥か上を行っている。バニラの甘い香りは濃厚なのにアイスそのものの甘さは控え目で飽きが来ない。ほぅっと溜息をつくと呼気がバニラの香りになる。
すごいよバニラ。もはやバニラ様だよ。
「タヒチのタハア島には大きなバニラ畑があって、洋菓子職人やお菓子作りが趣味の人には宝の山に見えるそうですよ。タハア産のバニラは香りが濃くて世界的に人気なんです。パペーテのマルシェやスーパーでも売っているのでお土産にいかがですか? 試験管くらいの容器に数本入りで、約三〇〇〇CFPフランです」
たっか。さすがバニラ様。
残り少なくなったアイスを噛みしめるように味わい、一行は農業高校を後にした。次に向かうのはベルベデール展望台だ。モーレア島の観光パンフレットには、ここから見える景色が使われている。
「あれがクック湾です。エンデバー号のクック船長が立ち寄ったことで名付けられましたが、本当はロツイ山を挟んだ反対側のオプノフ湾に寄港したと言われています」
二つの湾の間に突き出した尖った山。その山の、緑の陰影が美しい。
海は浅瀬のエメラルドグリーンと沖の紺碧。ここからだと色の違いがよくわかる。
「綺麗ですね……」
「そうでしょう。ハリウッドスターや大富豪なんかもお忍びで来るんですよ。ヘリポート付きの自家用船で来るんでバレバレですけど」
ヘリポート付きの自家用船。それはまったく忍んでないな。
観光客は私たちの他にもいた。サングラスをかけた白人カップルが自撮り棒でパシャパシャと写真を撮っている。しかし私たちは誰一人、そんな便利アイテムを持ってはいなかった。雪村氏はマサヒロさんにスマホを渡して瑠菜と二人で記念写真を撮ってもらい、私に至っては未だスマホを持たない古代ガラケニア文明の生き残りであるのでデジカメで風景写真を撮っていた。
「あの、良かったら小笠原さんも一緒に撮りませんか?」
雪村氏との写真を撮り終えた瑠菜が、おずおずと声を掛けてきた。瞬間、私は自身の眉間に皺が寄ったのを自覚する。
ぼっちに対するそういう気遣い、とても迷惑。ほっといてくれよ。
「いえ、私は……」
言い止し、口をつぐんだ。瑠菜のまっすぐな目が、ぼっちへの哀れみや社交辞令というより、縋るようなものだったから。
怪訝に思ったけれど、直後に考えついたある案に思考が持っていかれた。
彼女たちは、使える。
「えぇ、是非」
私は愛想良く笑い、記念写真に応じた。マサヒロさんが構える雪村氏のスマホに向かい、瑠菜を中央にして三人で並ぶ。ついでに私のデジカメにもスリーショットと、私のピン写真も収めてもらった。
画像を確認すると、白々しい笑顔でピースなんかしている私がそこにいた。まぁまぁの出来だ。
「すごく良い記念になります。ありがとうございます」
瑠菜が深々と頭を下げてきた。私は画像そのままの笑顔を彼女に向ける。
「いえいえ、こちらこそ」
良い証拠になる。
言葉の後半は飲み込んで、胡散臭い笑顔の下に隠した。




