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常夏の夜の夢 一 もうお前のこと好きじゃないから明日までに出てってと言われた話(2)

 彼の言葉にはすべて従わなければいけないという心理状態でありながらも、とにかくなんとかしなければいけないと藁にも縋る思いで電話を掛けた先は実家でした。

 長めのコールの後、電話に出たのは定年退職して家にいた父で、私は「もしもし、晴子だけど……」と言うのが精一杯。二の句が継げずにいました。何せ、自分でも何がどうしてこうなったのか本当のところさっぱり理解できていなかったのです。頭にあったのは、ただ、『離婚』の二文字とその原因が私にあるらしいということだけ。

 絞り出した言葉は、蚊の鳴くような声で、「ごめんなさい」だけでした。

 バツイチになるかもしれない。しかも、自分のせいで。

 そう言おうとしたのだと思います。言えなかったその言葉を、父はわかってくれたようでした。

「すぐに行くから、待ってなさい」

 私は泣いていました。だからでしょう。

 昔から私は泣かない女でした。特に人前では絶対に。卒業式などの泣き系イベントはもちろん、親族の葬儀、果ては自分の結婚式ですら泣かなかったのです。皆が泣いているとその光景に圧倒されてしまって泣くどころではないし、結婚式の時などは花嫁スピーチの際、スタンドマイクへと導いてくれる介添えスタッフさんが手を引くふりをして、私の手の中に小さく折りたたんだティッシュを滑り込ませたその手際の良さと「さぁ泣け!」と言わんばかりのティッシュが可笑しくてニヤニヤしながらの花嫁スピーチになったのでした。

 そんな娘が電話越しでもわかるほどに泣いているのですから、それだけで異常事態だと父はわかってくれたのでしょう。

 同じ大阪府内、一時間弱で両親は来てくれました。

 父と母は、まず私の姿に絶句していました。泣いているだけでなく、ガリガリに痩せていたからだと思います。

 結婚して以来、家計は圭介が握っていたのは先ほども述べた通りです。月々三万円を生活費として渡され、そこから二人分の食費だけでなく、洗剤などの生活必需品から彼が好んで読んでいた週間漫画雑誌まで買わなければいけなかったので正直かなりキツかったです。もう少しどうにかならないかと掛け合ってみたこともありましたが、私がやりくり下手なだけだろうと一蹴されて終わりました。

 後に、私が置かれていた状況は経済DVというやつだと知ったわけですが、絶賛洗脳中であったため気づかず。そんな中、偏食が酷く肉ばかり食べたがる彼に工夫して野菜を食べさせ、量でも満足してもらうために私が選んだのは自分の食事を減らすという手段でした。

 ところが、そうすると今度は「お前は小食だよな」と言って、ただでさえ少ない私の食事まで奪って食べるようになったのです。

 おかげさまで、彼は結婚前に比べて十キロ以上太りましたが、反比例するように私は痩せていきました。元々標準より痩せていましたが、身長一五五センチに対して体重四十キロ未満が続き、とうとう四捨五入して三十キロというレベルまで達する有様。親や友人にもどうしたのと訊かれ、ダイエットしてると言い訳していましたが、いよいよごまかしが効かないくらい痩せ細ると他人に指摘されるのが嫌で「忙しいの」と誰にも会わないようになっていたのです。

 だって、惨めじゃないですか。自分の意志ではなく、飢えて痩せているなんて。あまりにも恥ずかしくて。

 久々に見た娘の姿がミイラ同然で、両親はさぞかし驚いたことでしょう。私は泣いて、母も泣いていました。

 圭介に言われたことをすべて両親に伝えると、母はさらに泣き、父は厳しい顔つきになっていきました。そして「圭介くんと話がしたい」と言うので私が彼に電話をすることに。

 電話をかけるのがこんなに怖かったのは初めてです。震える手で通話ボタンを押すと、彼は無視することなく出ました。私が消え入りそうな声で、親が来ていることを告げると、彼は一瞬沈黙したのち「わかった。仕事終わったらすぐ戻る」と答えました。

 とりあえず、彼はこの部屋に戻ってくる。そのことにどれほど、ほっとしたか。

 まだ終わっていない。そう思えたのです。

 彼が戻ってくるまでの間、母は圭介の母……私の姑に連絡を入れました。姑はパートで働いていたのでメールでしたが、すぐに返信があって姑も来ることに。圭介の実家は私たちのアパートのすぐ近くだったので仕事終わりに寄ることは難しくなかったのです。

 圭介の父は山口県に単身赴任していたので、この時点では連絡を入れませんでした。皆、まだなんとかなる、なんとかできるはずだと思っていたのでしょう。

 圭介とその母を待つ間、私の母は部屋の中を見て回り、キッチンで私のレシピノートを見つけて「頑張ってたのね」とまた泣きました。

 野菜嫌いで極度の偏食。好きな食べ物はカレーと唐揚げ。そんな彼に少しでもバランスの良い食事をと、私なりに研究したレシピノートでした。こういう味付けなら食べたとか、細かく刻めば食べたとか。

 まるで幼児のためのレシピノートです。調理師の資格を持っている母はそれを見ただけで私の苦心を悟ったのでしょう。

 そうこうするうちに、圭介が帰ってきました。私の両親が揃っているのを見て、一瞬ひるんだ顔をしたのを覚えています。きっと、母だけ来ているとでも思っていたのでしょう。

「もう、一緒に暮らしたくないんだそうだね? 顔が、気にくわないから、と」

 努めて冷静に、父は圭介に訊ねました。しかしその言葉選びからは怒りが滲み出ており、圭介は「あっ」とか「その」とか目を泳がせながら呻いて、父の視線から逃げるように顔を伏せてこんなことを言い出しました。

「いえ、あの、顔が気に入らないとは……その……顔……顔が、怖いんです。晴子……さんの顔が! ずっと睨まれているようで、特に目が怖くて、僕、家にいるのがつらくて……! 仕事が終わってからも帰るのが嫌で、無駄にコンビニで長居したりしてたんですけど、それももう限界なんです!」

最初はしどろもどろに、でもだんだん勢いづいて、最後にはなんと泣き出しました。しかも声を上げてお芝居みたいに。

 なんでお前が泣いてんだよ泣きたいのはこっちだよって話です。実際、私はまた泣いていました。今となっては『元』がついていますが夫からここまで熱い顔面バッシングを食らっているんですからそりゃあ泣きたくもなりますよ。しかも親がいる前ですよ。

 でも、それだけではないのです。ここまで言われても私が黙っていたのは、顔が……特に目が、ひどいコンプレックスだったから。

 とにかく私は目がでかい。と言うと自慢かよと思われるかもしれません。しかし美しくもなくただギョロギョロと大きいだけの目に、私がどれほど苦しんだことか。

 自分の顔がおかしいと気づいたのは物心ついてすぐ。当時住んでいた土地では、隣近所にまるで計ったように同学年の女の子ばかりが集っていました。

 その子たちが私の顔を指差して言うのです。

「はるちゃんの目ぇ、変や。みんなと違うもん。ママも言ぅてたで」

 まだ幼稚園に通っているような子供。母親の言葉を真似て、罪悪感もなく言ったのでしょう。けれど少女たちのいやらしくニヤついた表情は、彼女らの母親たちの、本性を物語っていました。会えば晴子ちゃんこんにちはと笑って挨拶をするママさんたち。陰で私の容姿を嘲笑っていたのです。

 母親たちがそんな調子なので、子供たちの間で私はすっかり『見下してかまわない子』という認識になっていました。遊びには混ぜてもらえるけれど、ままごとではいつもペットの犬の役。玄関と定められたスペースでただじっと座っていることしか許されない。かくれんぼでは見つけてもらえず、皆が別の遊びを始めた頃に恐る恐る出て行くと「ごめーん、忘れとったわぁ」とくすくす笑われる。

 そんな中で一番嫌だったのが、渾名です。

 その頃、オカルト系の胡散臭いバラエティ番組が大流行していました。心霊写真に霊能者、降霊術に除霊術。そして霊能系と並んで人気だった、UFOやUMAの類い。

「はるちゃんってさぁ、アレに似てへん? 宇宙人!」

 ある日、幼馴染みの一人がそんなことを言いました。小学一年生の時でした。

 彼女の言う宇宙人とは、いわゆるグレイと呼ばれるステレオタイプの宇宙人。細い手足に大きな頭、真っ黒で大きくつり上がった目。

 痩せっぽちでひょろひょろした手足を持つ私がそれに似ているというのです。

 周りの子たちも「似てる!」と大笑い。以降、私の渾名は『ギョロ目の宇宙人』になりました。だから今でも、漫画やなんかに出てくる宇宙人のイメージイラストが苦手です。

 私の人生を彩る、そんなトラウマの数々。圭介はすべて知っていました。私が話したのですから。

 知った上で、彼は私の弱みを突いてきたのです。

 ティッシュ一箱使い切る勢いで涙を拭いながら、自分の目を抉り出してしまいたかった。

 この目が彼をこんなに苦しめていたのかと思うと、自分の醜い顔が憎くてたまらなかった。

 しかしながら彼は、昨夜私に言ったような稼ぎが悪いだの弁当を作っている時に眠そうなのがむかつくだのとは言いませんでした。号泣し、私の両親にも言及させまいとしているかのようでした。

 圭介の母がやってきたのは、その最中。

 息子は泣いている。嫁も泣いている。嫁の母も泣いていて、嫁の父は渋い顔。

 戦々恐々といった様子で部屋の中に入ってきた姑は私に、まずは一度、実家に戻ってみてはどうかと言いました。

 でも私は嫌でした。わかっていたのです。一旦ここを出たら、もう戻っては来られないと。いや、実際には訳あってその後も何度か出入りしたんですけども。それはまた後ほど。

 ともかく、私は出て行きたくないと言いました。唇を噛みしめ絞り出した言葉のニュアンスは「死にたくない」に近かったと思います。なんの陰りもない平凡な人生がこれをもって終わる。それはまさにひとつの『死』なのです。

 すると圭介は突然トイレに駆け込み、ゲーゲーと嘔吐を始めました。わざと私に聞かせるように大きな声で。

 姑の責めるような目。両親にも、一度戻ろうと説得されました。

 そして何より私自身、己の存在がここまで彼を苦しめていると思うと耐えられず、自らに引導を渡す気持ちでぎこちなく頷いたのでした。

 三日分の着替えと仕事用のラップトップ。持って出たのはそれだけ。

 実家に戻った私はただぼんやりと天井を見て過ごしました。国営放送のドキュメンタリーで大自然の映像を見たりもしていました。ただただ明るいだけのバラエティーなんかは、申し訳ないけれど苦痛でたまらなかったです。

 持ってきた着替えは三日分。しかしその三日を過ぎても何も変わりませんでした。

 出てくる際、姑に「朝と夜、おはようとおやすみのメールは晴子ちゃんからしなさい。圭介にも、返事するよう伝えるから」と言われていたのでそれを忠実に守り、事務的ではあるけれど返ってくる返事に、まるで細い命綱のように縋る日々。

 そして約一ヶ月後、私の実家へ来ると彼から連絡がありました。

 ここまできて未だ愚かであった私は、やっと迎えに来てくれるんだ、彼は一時的におかしくなっていただけなんだと心底ほっとしたのです。往生際悪く、未来を信じていたのです。

 ノーメイクながら髪を整え精一杯小綺麗にして出迎えた私を、彼がぎろりと一瞥するその瞬間までは。

 ゴミを見るような目、とは陳腐な表現ではありますが、あれはまさにそれでした。彼にとって私は、もはや人間ですらない、汚くて邪魔なゴミだったのでしょう。

 二度目の話し合いの席につくなり、彼は開口一番こう言いました。

「小笠原さんの私物、早く引き取りに来てくれませんか。今月中に部屋を引き払う予定だったのに、困ります」

 小笠原さん。普段呼んでいた、はー子でも晴子でもなく、“旧姓”小笠原さん。

 お前はとっくに赤の他人なんだよ。彼がそう言っているのがわかりました。

 あの号泣はなんだったんだ別人格かと疑いたくなるほど、その日の彼は強気でした。いかに私が女として妻として最低か、私の両親に熱く語り聞かせました。特に、料理している時にじゃれついたら拒否されたのがどうしても許せないと、それによっていかに自分が傷ついたかと熱弁しました。

 母は「育て方が悪かった、ごめんなさい」と泣き、父は顔を真っ赤にして怒りで震えていました。よくキレなかったなと思います。

 私も泣いていましたが、この一ヶ月ずっと脳裏をよぎっては「そんなはずない」と否定してきたある記憶を思い出し、圭介に向かって何度もそれを言いそうになっては喉の奥に閉じ込めていました。

 私が黙っている間、両親……特に母が懸命に彼を説得しようと試みましたが梨の礫。ところが、次回は彼の両親も交えて両家で話し合いましょうと言うと、それは困るのか「とにかく、早く荷物をどうにかしてください」とだけ言い置いてそそくさと帰っていったのでした。

 その後ろ姿を見送って、私はようやく、ずっと飲み込んでいた言葉を口にしたのです。

「ユミって、誰?」


 出て行けと言われた日から遡ること二週間前。

 私が自宅で仕事をしていると、圭介が平日の昼間だというのに慌てて帰ってきました。

「お前のパソコンに仕事の大事なメール送ってしまったから消させてくれ」

 言うなり彼は、ほぼ突き飛ばすように私をデスクから押しのけ、勝手に私の大事な仕事道具であるラップトップを弄り始めました。保存する間もなかったデータが心配で後ろから覗き込んでいた私は、その時に見たのです。

 件名『ユミとのトーク』

 メールボックスを開くと最新の件名がポップアップで表示される仕様になっていました。それが仕事のメール? と訝りましたが当時の私は彼のことを信じきっていましたから、彼がそう言うならそうなんだろう思っていました。

 ゴミ箱からも丁寧に消されていった怪しいメール。

 ところがどっこい復元できるんだなー、これが。

 機械音痴だった私のことを彼はなめくさっていたんでしょうけど、これでも作家の端くれ、自分で“うっかり消してしまった”データに復活の呪文をかけるくらいはできるんですよ。

 そんな訳で、圭介が私の実家へやってきた翌日。

 意を決して、件のデータをサルベージ。

 はい、長々と引っ張りましたが皆様お察しの通りでございます。

 不倫でした。

 データはハードディスクだけでなくUSBにも即行でコピって保存。

 ここから長い戦いが始まるわけですがそろそろ空が白んでまいりました。目覚めの時間です。

 続きはまた、明日の夜に。

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