常夏の夜の夢 一 もうお前のこと好きじゃないから明日までに出てってと言われた話(1)
さて、私はただいま就寝中ということで、ここに至るまでの諸々について語ろうと思います。
冒頭で(笑)なんぞ付けてさらっと流したあの話です。
元夫の長崎圭介と付き合い始めたのは十八歳の時。同い年で私は短大生、圭介は大学生。高校時代の友人の紹介という無難な出会いでした。
高校からずっと女子だけの学校に通っていたうえに「夜はアニメを見る時間だぜベイベー」と誘われた合コンを華麗にスルーし続けたダメなオタクだったので当然ながら初めての彼氏でした。そしてそのまま二〇一〇年秋、二十五歳で結婚。
ところがどっこい。その三年後に「もうお前のこと好きじゃないから明日までに出てってくれる?」と、明日の晩飯いらねぇわ的なノリで言われました。
もうね、びっくり。
最初、何言ってるのかまったく理解できなかったですからね。
徐々に理解が及んできても、更に意味がわからない。
私としてはごく普通に結婚生活を送っているつもりでした。いや、今になって振り返るとそう思い込もうとしていたのかもしれないけど、私なりに彼に尽くしているつもりでした。
なので当然、理由を訊きます。
すると彼曰く。
一、「ぶっちゃけ顔が好きじゃない。特に目が気に入らない」
二、「料理してる時に後ろからちょっかい出したら危ないと怒られた。俺はひどく傷ついた」
三、「弁当作ってる時に眠そうにしてるのがむかつく」
などなど。
ガチで。リアルに。実話です。
まず一に関して、じゃあなんで結婚したんだよって話ですよね。結婚前からこの顔だよずっとブスだよトランスフォームもメタモルフォーゼもしてませんよ。曰く、初めて会った時、私がハイブランドのバッグ持ってたから実家が金持ちだと思ったそうな。クズすぎん?
なお、私はブランドものに一切興味がない。なさ過ぎる故に叔母のお下がりを「これA4サイズ入るしやたら頑丈だし便利だわー」と価値もわからず使ってました。
そして二つめ。彼は私が料理をしている時、特に手が粉だらけだったりしてまったく抵抗できない時を狙って背後から悪戯してくるのが好きでした。尻は触るわ服の中に手を入れてくるわ。本人的は「いやん、馬鹿ぁ」な反応が欲しかったのでしょう。でも普段から料理する人なら男女関係なくお分かりいただけると思いますが料理中に邪魔されるのってただただ鬱陶しいだけなんです。殺意湧きます。学生時代に厨房でアルバイトしたことがありますけど、その時だって調理中の人間の背後に近寄るな、やむを得ず後ろを通らなければいけない時は大きな声で通りますと言うように厳しく注意されました。そのくらい料理中の事故って危険なんですよ。
だから私はその都度、危ないと注意していました。ですが、へらへら笑うか幼児みたいに唇を尖らせて拗ねるだけ。
そしてある日、揚げ物をしていてぐつぐつ熱した油の鍋をひっくり返しそうになり、とうとう私はキレました。何回言ったらわかるんだ、いいかげんにしろ、と。
それこそ何十回、下手したら百回以上注意してきたのです。それでもやめてくれなかった結果でした。
もしも今、交際している彼氏がこういう人だという方がいましたら注意が必要かもしれません。その彼氏は恋人や妻の安全より自分の欲望を優先するAV見過ぎナルシスト糞野郎である可能性があります。口が悪くて失礼。でも、料理中にイチャラブとか憧れるぅ、なんて言ってる場合じゃないですよ。
最後に三つめ。弁当はもちろん彼の弁当です。
彼が自分で保温機能付きの大きな弁当箱を買ってきて「これで毎朝作って」と言ったので毎日朝の五時起きで弁当及び朝食を作ってました。
保温弁当箱ってね、パーツが多くて詰めるのはもちろん洗うのも大変なんですよ。でも文句も言わずにやってました。眠いけど頑張ってました。ついでに言うと家事も全部私がやってました。
さて、この理不尽きわまりない三行半に対し、私はどうしたでしょう。
怒った? 言い返した?
答えは『泣きながら謝った』でした。
その頃の私は本当に愚かで彼を信じ切っていました。だからどんなに理不尽であっても、彼をここまで怒らせた自分が悪いんだと思っていたのです。
彼好みの顔に整形すれば許してもらえるだろうかとか、大火傷を負おうが指の二、三本切り落とそうが我慢してされるがままにしておくべきだったとか、もっとテンション高く弁当を作っておけば良かったとか。
馬鹿でしょう? でも当時は本気でそう思っていたんですよ。頭の片隅ではおかしいと感じてはいたんですが、そんな不満めいたことを考えてしまうのすら悪いことだと思っていました。あまりに堂々と自信満々になじられると、悪いのは私だと思ってしまい、とにかく彼の怒りを鎮めなければとそれだけで頭がいっぱいになったのです。
そんな私の謝罪を彼は突っぱねました。もうお前の顔を見たくない、作家だなんて言っても大した稼ぎがない、お前がやってるのなんて所詮は下請けだもんな、などとも言われました。
彼は大学を卒業後、就職した会社をすぐに辞めて無職だった時期があり、その時すでに小説家として収入を得ていた私が養っていました。ずっとそのままヒモとして生きていきたかったらしいです。営業マンとして働かなくちゃいけなくなったのはお前のせいだ、なんですって。正社員として働いた経験がない私はレベルが低い人間なんですって。
付き合っていた頃から「俺、主夫になりたい」と言っていましたが本気だったとは。
ちなみに彼の家事能力レベルは底辺もいいとこです。カレーを作らせてみたら「じゃがいもってどうやって切るの?」と深窓の令嬢みたいなことを言い出し、やり方を教えていたらいつの間にかすべての作業を私が一人でやっていました。カレーの作り方なんてルーの箱の裏に書いてあるのにね。
もちろん他のことすべてできません。というか、やろうとしませんでした。一度、共働きなんだから少しだけでも負担して欲しい言ってみたところ、「お前の仕事は在宅だろ。俺は外で働いてる。家事なんかいつやれって言うんだ?」と言い返されそれっきりでした。
彼の会社、自宅から自転車で五分の距離でしたけどね。定時で帰ってきて、帰宅後は寝るまでネットゲームしてましたけどね。主夫なめんな。全国の主夫に謝れ。
ところが、ここまで言われても私はまだ自分が悪いと思っていました。残念ながら私は売れっ子とはほど遠く、地味で目立たない作家です。それでも細々とやっていましたが、当時、すでに書き終えてゲラという最終確認作業も終わった原稿が出版社の都合で一年以上も刊行延期となっていました。そんな中で刊行時期未定の別の原稿も書き進めているという状況。それ自体は珍しくないので大したことではないのですが、問題はその間、収入がストップするということです。
折しも、編集者から「すいません、また二ヶ月延びました」と連絡があったばかりでそろそろ貯金が心配になっていたこともあり、収入について指摘されるとぐうの音も出なかったわけです。
更に彼は畳みかけるように「貯金がもう五千円しかない」と言いました。
ショックなんてもんじゃないです。パニックです。
まさか。そんな馬鹿な。さすがにそこまでのピンチではなかったはず。
最悪なことに、私は自分の収入のほとんどを彼の口座に入れていたのです。そしてそこから彼が毎月の生活費を引き出し、私に渡していました。なので貯金がいくらか正確には把握しきっていませんでしたが、目の前に突きつけられた通帳の残高は間違いなく五千円でした。
気絶しそうな眩暈を伴って私の思考がフリーズしていると、だめ押しのように「全部お前が悪い」と彼が言いました。
前述の通り収入はすっかり私の弱みとなっておりましたので、その言葉を疑うことなく、私は泣き崩れて謝りました。人生初の土下座でした。
それでも離婚は嫌だと、出て行くのは嫌だと粘りましたが彼の返事はこうでした。
「だったらお前の実家まで車に乗せてって置いてきてやるよ」
「それで、うちの親に『お前らの娘なんかもういらない』って言うの!?」
たまらずそう叫ぶように言って、はっとしました。
言い返してしまった。取り返しの付かないことをしてしまったと。
彼に逆らったからこんなことになったというのに。
慌てて口をつぐんだけれど、遅かった。彼は無言で席を立つと、寝室兼ゲーム部屋へと引っ込んでしまいました。それはつまり、私の言い分に反論できない、自分の言葉がいかに支離滅裂でおかしいか彼が自覚している証拠に他なりませんでしたが、私は自責の念に苛まれるあまりそのことに気づいていませんでした。
一睡もできないままリビングで朝を迎え、そんな時だというのに弁当を作りました。どうにか日常を取り戻そうとしたのだと思います。それを手渡す際、震えながら「ごめんなさい」と謝る私に彼は何も言わず、けれど弁当はしっかり受け取って出勤していったのでした。
それから昼過ぎまで、私は部屋で放心していました。何をどうしたらいいのか、わからなかったのです。
出て行けと言われた。明日――いや、今日中に。




