モーレア島 一日目 三十路がぼっちで南国リゾート(2)
高揚した気分のまま部屋の中へ引き返し、カーテンを閉めて身につけているものをすべて取り払う。つば広の麦藁帽、パステルイエローのマキシワンピース。サンダル。そして下着。
誰に憚ることはない。遠慮なく全裸だ。
スーツケースをぱかーんと開いて水着を引っ張り出す。白くて、胸元にフリルがついた水着。二十代前半に買ったものだ。買った数日後にテレビの深夜番組で「どの水着が一番ときめくか」を男性芸人に選ばせるという大変余計なお世話なコーナーがあり、まったく同じ水着がやり玉に挙がった挙げ句みごと最下位になったという曰く付きの水着である。フリルでごまかしてるのが気にくわないとかなんとか。散々な言われようだった。やかましいわ。
そんな残念水着にちゃっちゃか着替え、カーテンを開けた。青い海と空、再び。
海へそのまま降りられる仕様のテラスを数歩で走り抜ける。そして縁で踏み切って思いっきりダイブ!
「ごぇっふ!」
鼻に海水が入って噎せた。遠浅のはずがテラスの真下が思いのほか深い。足がつかない。
じたばたもがき、どうにか掴まるところを見つけた。テラスに上り下りするための梯子だ。よじ登ってテラスに腰掛け、一息つく。
テンションに任せて小学生のようなはしゃぎかたをしてしまったが、体は残念ながら三十一歳(運動不足)なのである。うっかり死ぬところだった。水深は二メートルくらいあった。
息が整い、生きていることを実感して、くっと声なく笑う。
私はまだ、生きている。
まだ、死ねない。
ホテルに着いたのは現地時間の午後四時頃で、濡れた髪を乾かしたりメイクを直したり、荷物の整理をしているうちに夕食時になった。さっき脱ぎ捨てたワンピースを着てサンダルを履き、ホテル内のレストランに向かう。
ドレスコードのあるレストランで、男性なら襟付きシャツとジャケットに革靴、女性ならワンピースにヒールの靴でなければ入れない。決してスウェットやTシャツ、ビーチサンダルなどで行ってはいけない。
辺りはすっかり暗くなっている。照明による灯りは充分なので問題ないが、ひとつ、気がかりなことがあった。
ロビーラウンジに近いレストラン。そこに行くには橋を渡らなければいけない。
小島と小島を繋ぐ木製の橋。海の上を歩いているみたいで楽しいのだけれど、ちょっと困ったことが起こるのだ。
「ひょおっ!?」
ガクッと足を取られる感覚に、色気もへったくれもない声を上げた。
橋の板張りに使われている釘が抜けかけ、シーソーのようにぐらつきヒールが沈みこんでいる。どうにか転ばずに済んだが、これで安心はできない。何せ、釘の抜けかけはここ一カ所ではないのだ。コテージに案内された時にも渡ったのでこうなっていることはすでに知っていたものの、暗い中では怖さ倍増である。一応ここ、高級ホテルなんですけど。
南国のおおらかな国民性によって放置されたトラップを慎重に避けながら歩を進める。
すると橋の下あたりから、キューキューと何かの音がした。
なんだろうと欄干越しに覗いた、まさにその瞬間。
月あかりにきらめく水面から、大きな影が飛び上がってきた。空中でしなやかに弧を描いたそれは、意外なほど静かに水の中へ戻っていく。
暗い水面を切る、三角形の背びれ。キューキューククククッと笑うような鳴き声。
イルカだ。橋のすぐ下、天然の海水プールの中に三頭ほどのイルカがいる。
海水プールは海と繋がっていて、それを区切るのはかなり低めの柵。その気になればジャンプして飛び越えられそうだ。なのにイルカたちは自らがいるべき場所……というより安全な住処がわかっているのか出て行く気配はない。
敷地内でイルカを飼っている。それがこのホテルの売りなのだ。アクティビティとして触れ合うこともできる。
欄干の手摺りに頼り、足元に気をつけながらイルカを眺めて進む。このホテルにいる間、いつでも好きな時にイルカを見られるのだ。なんと優雅なことだろう。
橋を渡りきり、レストランに近づくと陽気な音楽が聞こえてきた。ガイドブックには週二回ほどショーがあると書いてあったから、きっとそれだ。
レストランに入るとすぐ案内係が「ボンソワール」と出迎えてくれた。フランス語の『こんばんは』だ。私も「ボンソワール」と返す。
思った通り、レストラン内ではショーが行われていた。始まったばかりらしく、私のすぐ後ろからダンサーたちが入ってきて低めの舞台の上に並ぶ。案内された席は舞台の目の前。なかなかのラッキーだった。
このショーが行われる日はビュッフェと決まっているようで、さっそく料理を取りに向かう。縦半分に切った真っ赤なロブスターがまず目に留まった。料理の名前と説明を記したプレートには英語フランス語と共に日本語もある。
ロブスターを中心にサラダや総菜を盛りつけて席に戻り――隣のテーブルに誰かがついていることに気づいて、うっと呻いた。
見覚えのある日本人。あのカップルだ。二人も私に気づき、会釈してくる。
ホテル内にレストランは一カ所しかない。バーならあったはずだが酒とつまみしかないだろう。ホテルの外に出るのは面倒だし迷う可能性があるから却下。ということは、運が悪けりゃ食事のたびに顔を合わせることになるわけだ。
仕方なしに笑顔で会釈を返し、席についてロブスターにかぶりつく。海老おいしい。隣のことは無視しよう。目の前で繰り広げられるタヒチアンダンスだけ見ていよう。
ショーはまず、パレオの巻き方講座のようなものから始まった。一枚の大きな布を、衣装の上から体に巻いて、服のようにする。男性は腰に巻くようだ。平面の布を折ったり巻いたりする点は着物に似ていると感じた。
それが終わるといよいよダンスが始まる。長い黒髪に生花を飾り付けた若い女性ダンサーが腰を振るたびに腰蓑がわっさわっさと揺れる。上半身はココナッツブラだけという露出度の高さだが、セクシーさよりエネルギッシュさを強く感じた。男性ダンサーも太鼓を叩いて雄々しく歌っている。
高速腰振りを眺めながら黙々と食事を続けた。南国料理にはなじみがなく、どんなもんだろうと思っていたがさすがフランス領というべきか、どれもおいしい。特にこのポワソンクリュという料理。思わず自分の皿を二度見するおいしさだった。プレートの説明によると生マグロと野菜をココナッツミルクとライム果汁で和えたものだそうだ。ようするにマリネだが、ココナッツがここまでマグロに合うなんて。生魚には醤油という価値観が完全にひっくり返されてしまった。
そして南国のフルーツたち。スイカやグレープフルーツなどは日本のものとあまり差は感じられなかったが、やはりパイナップルは特別においしい。
話し相手がいないのを良いことに何度も料理を取りに行ってはひたすら食べ続ける。するとダンサーの女性が踊りながら舞台から降りて歩いてきて、なぜか私の目の前で足を止めた。そして、すっと手を差し伸べてくる。
ロブスター(三尾目)を食べていた私はナプキンで手と口元を拭い、特に何も考えず彼女の手を取った。
おいしいものは危険だ。満足感にとらわれたままダンサーに導かれ、気がつけば舞台の上に立っていたのだから。
「は?」
我に返った頃には服の上から腰蓑を巻かれ、頭には細長い葉っぱで編んだ冠、そしてハタキのようなものを両手に持たされていた。このハタキはガイドブックで見た記憶がある。たしか『イイ』という名前の、踊りの道具だ。――つまり。
「ダンシング?」
カタカナ英語で訊ねると、ダンサーはにっこり頷いた。マジすか。
前を見ればテーブル席の客たちと目が合う。あのカップルもにこにこ笑って小さく手を振っている。こっち見んな。
そうこうする間にダンサーが踊り出した。もはや逃げられない。棒立ちはもっと恥ずかしい。ならば――やるしか、ない!
イイを持った両手を振り上げ、見よう見まねで腰を振る。ハワイのフラダンスはゆらゆらした穏やかな動きだが、タヒチアンダンスはとにかく激しい。上半身はまったくぶれずに腰だけが超高速でズンドコズンドコ揺すられている。どうやったらそんな動きができるのか、皆目見当も付かない。
魅惑の腰つきタヒチアンダンスは三十一歳(運動不足)にはかなり堪えた。ようやく解放され、席に戻ると最早ぐったりである。舞台の上では新たに連れて行かれた白人男性がそれはそれは楽しそうに踊っていた。元気でよろしい。
客が代わる代わる連れて行かれ、イイと腰蓑を振って踊る。その中には隣のテーブルのあの美女もいて、照れくさそうに踊っていた。ドレスコードのために着替えたようで今は紺色の地味めなワンピース姿だ。腰振りはまったくできていなくてこぢんまりとした動きが女の私から見ても可愛らしい。いや、あざとい。
彼女は舞台から去り際、私のほうをちらりと見て恥ずかしそうに会釈をした。はいはい、かわいいかわいい。
ダンスタイムはどうやらこれで終わりらしく、あとはダンサーたちとの写真撮影会となった。私は一緒に踊った女性ダンサーと一枚撮り、そのままレストランを去る。ショーの間、写真はたくさん撮ったからこれで充分だ。
コテージに戻ってシャワーを浴びる。ココナッツのシャワージェルを贅沢に使い、南国の香りに包まれて下着姿のままベッドで横になった。一日目は移動ばかりでさすがに疲れた。すぐにうとうとしてきたが、はっと気づいて飛び起きる。
手荷物から薬袋を取り出し、白い錠剤を三錠飲んだ。
これは生きるための薬だ。だから絶対、飲み忘れてはいけない。
再びベッドに転がって天井を仰ぐ。波の音は微かではあるものの、窓を閉めていても聞こえてくる。穏やかにちゃぷちゃぷ。心地良い。
意識が落ちる寸前、波の音に混じってイルカの声が聞こえた気がして、夢のようなモーレア島の一日目は幕を閉じた。




