モーレア島 一日目 三十路がぼっちで南国リゾート(1)
「イアオラナ」
褐色肌のふくよかな中年女性がにっこり笑い、小さな白い花を差し出してくる。
ジャスミンに似た香りの花。フランス領ポリネシア――タヒチの国花ティアレだ。
「イアオラナ。マルルゥ」
予めガイドブックで学んできたタヒチ語で応じ、私はその花を受け取る。イアオラナは『こんにちは』でマルルゥは『ありがとう』だ。
フランス領であるから公用語はフランス語。そしてタヒチ語。
ホテルなどでは英語も通じるらしいけれど、可能な限りフランス語かタヒチ語のほうが喜ばれると旅行代理店のスタッフが言っていた。それはそうだ。日本に来た外国人に日本語で挨拶されたら、私だって嫌な気はしない。
つまむようにティアレを持って、くるくる回す。花はまだ開ききっていない。それでも香りは強く漂う。
ティアレの香りはタヒチの香りだ。この国の風にはティアレの香りがついている。
そういや大阪は飛行機降りたらソース臭がするっていうよな。
自分が生まれ育った町のことを思い、南の楽園との差に思わず苦笑いした。
手で弄んでいたティアレを競馬場のおじさんが鉛筆でするみたいに耳に挟む。花をくれた女性も他の空港スタッフも、老若男女問わずそうしているからだ。
スタッフたちに笑顔で手を振られながら空港の出口へと向かう。ファアア空港はタヒチの玄関口である国際空港だが、そうとは思えない控え目さで、滑走路を除けば大阪の地元である枚方市駅とそう変わらない規模に思えた。
荷物を受け取ってエントランスから出ると強い日差しが降り注いできた。周りには同じ飛行機に乗ってきた日本人客がたむろしている。
「ねぇ、りっちゃん。写真撮ろうよ。タヒチ上陸記念でさ」
「やだ、待って。まだメイク終わってないよぉ」
「見て見て、たっくん。椰子の木だよ。めっちゃ南国って感じじゃない?」
「ほんとだ、実が成ってる。あれ食べられるかなぁ」
自撮りをしたり、南国の風景にカメラを向ける、カップル、カップル、そしてカップル。
日本人客のほとんどが、ピンクの空気を纏った新婚カップルだ。
でも、旅行代理店が用意したツアーバスに乗り込んだ日本人客の数は奇数。
ぼっちで参戦している奴がいる。
そうです。私です。
申し遅れましたが、わたくし小笠原晴子という者です。三十路にずっぽり足を突っ込んだ三十一歳、小説家。
時は二〇一五年。
このたび、めでたく、離婚しました(笑)。
成田空港から約十二時間。青と白のツートンカラーがイルカみたいな機体のエア・タヒチ・ヌイで直行できるタヒチは、かのゴーギャンを魅了したことで有名だ。
美しいビーチナンバーワン。
天国に一番近い島。
そんなキャッチコピーに惹かれて訪れる旅行客の大半はハネムーン――新婚旅行。
故にひとり客は目立つ。超目立つ。
いかにも旅慣れたバックパッカーやダイバーならともかく、パステルイエローのマキシワンピースに麦藁つば広帽、長い髪を無造作に垂らしたリゾートスタイルな三十路女は同じツアーバスに乗った日本人客からチラチラと好奇の視線を向けられていた。
奇数の日本人客を乗せたバスは、首都パペーテを巡る。
フランス領ポリネシアは大小の島々から成る国で、一番大きなタヒチ島に首都と国際空港がある。
バスがまず向かったのはマルシェ――市場だった。食料品はもちろん、土産物も並んでいる。食品のメインは魚で、カラフルで南国らしい種類の他、目立つのはマグロだ。タヒチにはマグロを生食する文化があると、日本から派遣されたツアーガイドが言った。
土産物の中で目につくのは、まずパレオ。染め付けと絵付けの二種類ある。染めは同系色や虹色のグラデーションが美しく、手描きの絵のほうはビビッドな色使いが鮮やか。前者が約一〇〇〇CFPフラン、後者が約二〇〇〇CFPフランと、近しい人への土産として最適だろう。
そしてタヒチといえば、なんといっても黒真珠。
パペーテ市内の専門店に行けば品質の優れた黒真珠が買えるけれど、マルシェで売られているのは傷があったり形が悪い安価なものだ。売り子や現地のタヒチ人はこの安い黒真珠をじゃらじゃら鈴生りにつけていて、カジュアルな装いにぴったり。
ガイドに連れられ、ぞろぞろとマルシェを巡る。買い物をする者はいない。この後、それぞれ別々の離島に向かうけれど、帰国の前々日には一旦パペーテまで戻ってくるのだ。皆、土産はその時に買うつもりで、今日は下見といったところ。きょろきょろ周囲を見渡したり、写真を撮ったりしている。
そして一行は再びバスに乗り、ヴィーナス岬へと移動する。
「皆さん、頭上には気をつけてくださいねー。椰子の木の下には立たないでください。実が落ちてきて当たったら頭ぱっくり割れますからねー。えー、さて、ここはですねー、一七六九年にイギリスからエンデバー号という軍艦に乗って来たキャプテンクックことジェームズ・クックが金星の観測をした場所です。金星の太陽面通過という現象があったんですよ。金星を見た場所だからヴィーナス岬っていうんですねー」
緑色のアロハシャツを来たガイドにアヒルの子のごとくついて歩く新婚カップルズは言葉少なだった。岬であることを示す白い灯台の前を通り過ぎる際も、ガイドに対する義理のように一、二枚写真を撮る程度。明らかに気乗りしない様子だ。
新婚カップルズがタヒチに求めているもの。それはなんか小難しそうな歴史の話ではない。
エメラルドグリーンの海に浮かぶゴージャスな水上コテージで、さっさとイチャつきたいのです。
盛り上がりの欠片もないツアー客たちに、若い男性ガイドは困った顔で次の観光スポットへと向かう。
ヴィーナス岬からまた少し移動して、今度は何かの石碑の前で立ち止まった。
「こちらはバウンティ号の石碑です。一七八八年に、パンノキという食用の植物を採るために来たんですけど、なんと船員たちが反乱を起こして船を乗っ取っちゃったんですね-。半年ほどの滞在期間だったんですけど、乗組員たちはすっかりタヒチに魅了されてしまって、現地の女性と結婚しちゃった人もいました」
任務を終え、いざ出港となったがしばらくして事件が起きる。航海士のフレッチャー・クリスチャンが反乱を企て、艦長ウィリアム・ブライと艦長派の乗組員たちを救命艇に押し込んで追放してしまったのだ。そしてクリスチャン率いる反乱者たちを乗せたバウンティ号はタヒチへと引き返し、現地妻や恋人、意気投合したタヒチの人々を連れて誰も知らない未開の楽園を求め旅立って行った。この事件は何度も映画化されており、アカデミー賞を獲得した一九三五年制作『戦艦バウンティ号の叛乱』が最も有名だ。
石碑には乗組員たちの名簿と役職――たとえばコックだったなど――が記されている。
そんな石碑の前でつらつらと映画の説明まで受け、やはり新婚カップルズは、しらーっとしていた。若いガイドはいよいよ焦りを見せ始める。しかし彼はへこたれない。
「故郷も任務も捨てて恋人を選ぶなんてロマンチックですよねー」
「史実だとその後、逃亡した仲間内で浮気だの内輪揉めだの始めて凄惨な殺し合いになったんですけどねー」
無反応だった観光客の中、ようやく喋った者がいた。
そうです。また私です。
ガイドはついに黙り込んだ。へこたれてしまったようです。
「すいません」
誰も関心を示さないので話に乗ってみようとしたのが間違いだったらしい。とりあえず謝っておく。
この気まずい空気どうしようと思っていると、すぐ背後から小さな笑い声が聞こえた。
「バウンティ号の映画なら見たことがありますよ。八〇年代の、メル・ギブソン主演のものですが」
たぶん五十代。ロマンスグレーの髪がふさふさした紳士だった。鼻筋の通ったすっきりとした顔立ち。襟付きのシャツにスラックスという出で立ちで、渋さと爽やかさを併せ持っている。上司にしたい俳優ランキングにしれっと混ざっていそうな、そんな魅力のある男性だった。
ツアー客のほとんどは、二十代か三十代の新婚カップルだ。その中で彼は断トツの最年長。
連れているのがもし同年代の女性であれば「あら、早期退職で記念に夫婦旅行かしら素敵ね」といったところだ。
でも、そうじゃない。
彼の隣で控え目に寄り添うのは、私と同年代かもう少し若い――二十代後半と思しき美女。親子ほど歳が離れているが、明らかに親子の雰囲気ではない。
私がぼっち参戦して注目を集めているせいで大して目立っていないけれど、他のツアー客もこのカップルのことをチラチラと窺っていた。皆、同じ事を考えているのだろう。
おそらく、不倫。
私は内心、舌打ちした。
このカップルは憎むべき敵だ。
パペーテをぐるりと回り終えたツアーバスから、人々が吐き出される。
ここから先は、それぞれの宿泊地である離島へと別れていくのだ。大半の人は空港へ戻り、そこから小型機でボラボラ島へ向かう。ボラボラ島は美しい環礁に囲まれた小さな島だ。タヒチを訪れる日本人の大半がここへ行くと言ってもいいだろう。
バスに残ったのはたったの四組。向かうはフェリー乗り場だ。ここから行くのは私の目的地、モーレア島。
心底ほっとした顔のガイドに見送られ、フェリーに乗って数十分。そこからまたバスに乗り、モーレア島内をぐるりと巡りながら各ホテル前に停車していく。
まず最初に、一組降りた。次のホテルでまた一組。
残る乗客は二組、三人。一人は言わずもがな私で、もう一組は……。
バスに揺られ景色を眺めながら、もう一組が先に降りるか、もしくは残るかしてくれと願う。しかし願いむなしく、残る三人の降車場は同じだった。
「ご一緒だったんですね」
ダンディスマイルで紳士が言った。話しかけられたのは間違いようもなく私だ。
「そーですね」
無視するわけにもいかず、雑に返事をする。顔には微笑みを浮かべつつ、決して相手に視線を向けない。
数少ないモーレア島の日本人客。その代わりアメリカなどからの観光客が多く、島内のホテルはランクに差があれど、ひとつやふたつではない。
なのになぜ。
この不倫カップルが同じホテルなのですか神様。
「お一人で旅行ですか?」
今度は同行者の美女が言った。彼女が口を開いたのは初めてだ。声までたおやかで美しい。服装はフレンチスリーブの白シャツにデニムのサブリナパンツというシンプルさだが、少し色素の薄いセミロングの髪と、すっぴんに近いナチュラルメイクでどこか薄幸そう。いかにも中年男性が好みそうな見かけだ。
私は二人に悟られない程度に軽く肩をすくめて答える。
「そーですよ」
見りゃわかんだろ。イヤミか。
などと言えるはずもなく、薄笑いを浮かべるにとどめた。
「一人旅なんてすごいですね。旅慣れてらっしゃるんですか?」
こちらとしてはまったく会話する気がないので話を広げない返答しかしていないのに、美女はお構いなしで話しかけてくる。質問形式はやめてほしい。答えるしかないじゃないか。
「いいえ、まったく」
にっこり笑って短く答えると、美女と紳士は揃って目を丸くした。その隙に、スーツケースをごろごろ引いてさっさと歩き出す。
二人も少し遅れてついてきた。紳士がふたつ、美女がひとつ、スーツケースを持っている。
二人分の荷物にしては多いような気もしたが、うちのひとつは土産物を入れて帰る用といったところだろう。いずれにしても私には関係ないこと。興味もない。
ホテルのレセプションは椰子の葉で葺いた屋根の、いかにも南国といった平屋の建物だった。広い敷地内には陸上コテージと水上コテージが並んでおり、予約の時点でどちらかを選ぶことになっている。
フロントまで進み、スタッフの顔をひとりひとり見ていく。皆、良い笑顔だ。中にはカウンターを指先で叩き、リズムを奏でてノリノリになっている人もいる。南国である。
しかし、目当ての人が見当たらず、私はカウンター前できょろきょろしてしまった。すると目の前にいた女性スタッフが笑顔で話しかけてくる。
「イアオラナ」
ティアレ柄の赤いタヒチアンドレスを着た、ふくよかな中年女性だった。結い上げた髪には、わっさりと生花を挿している。髪に花を飾るのは、別に特別な日でもなく日常的なおしゃれなのだそうだ。さっき迷惑をかけまくってしまったガイドが言っていた。
「イアオラナ」
半日ですでに言い慣れた感のある挨拶を返すと、女性スタッフはチェックインの手続きをしてくれた。それからロビーラウンジのソファへと促され、縁にパイナップルを飾ったグラスを差し出される。ウェルカムドリンクのパイナップルジュースらしい。
紳士と美女のカップルも同じようにチェックインを済ませ、隣のソファへ座る。
会話するには遠くもなければ近くもない距離がありがたかった。一人、無言でジュースを啜る。
甘いパイナップルジュースだった。酸味がほとんどない。少しどろっとした口当たりからして生搾りなのだろう。一気に飲み干して縁に飾られている一切れを食べてみると、これも甘い。まるでシロップ漬けみたいなのに天然の味なのだとわかる。
パイナップルは好きだけれど口の中がイガイガになるので普段はあまり多く食べられない。でもこれなら、いくらでも食べられる気がする。
隣のカップルもジュースの美味しさに顔を綻ばせていた。
飲み終えてから写真の撮り忘れに気づいて己の女子力のなさに呆れた丁度その時、先ほどの女性スタッフが私とカップルの間に立つ。
「にほんじんスタッフ、いま、ホリデイ」
少し申し訳なさそうに彼女は言った。
カップルは互いに顔を見交わし、私はそんな相手もいないので、ひとり心の中で「えー」とつぶやく。
このホテルには日本人のスタッフが常駐している。そう旅行代理店で言われたからここに決めたのだ。
それがまさかのホリデイ。
いや誰にだって休みは必要なのだから仕方ないことなんだけれども。
タヒチ人の女性スタッフは私たちの前でにっこり笑う。
「わたし、にほんご、すこし、できる」
それを聞いて隣の席の美女はあからさまに安堵していた。紳士は動じず「No problem」とそこそこ良い発音で答えていたので、それなりに英語を話せるらしい。
とりあえず、何かあればこのスタッフを頼ればいいということだ。
片言の日本語で案内され、カップルと別れて部屋へと向かう。スーツケースはポーターが荷台で運んでくれた。
ホテルは遠浅の海に面しており、飛び石のように点在する小さな島々を橋で繋ぎ合っている。そして島々の岸辺にコテージを建てていた。
そんな迷路じみた広い敷地の中を通り抜けて辿り着いたのは、枝分かれする桟橋に実るようにくっついている水上コテージ。
カードキーでドアを開けると、フローリングの床と大きなベッドが目に入ってきた。ベッドにはプルメリアの花がちりばめられている。ティアレに負けず劣らず良い匂いだ。
そしてベッドの対面には、コーヒーテーブルやソファを挟んで大きな掃き出し窓。カーテンは開け放たれていて、ガラス戸の向こうに見えるのは一面の青だった。
ガラス戸を開けてテラスに出てみる。涼やかな風に私の長い髪が流れた。
海ならもう充分なほど見た。ヴィーナス岬でも、フェリーの上からでも。
けれどコテージのテラスから見る海はそれらとは比べようもなかった。
モーレア島は環礁に囲まれており、環礁の中ではほとんど波が立たない。湖かと思うほど静かで、水面がきらきらと輝いている。深いところはサファイアの群青色に、浅いところはアクアマリンの薄青に見える。
写真やテレビで見たとおりの――いや、それ以上の景色がそこにあった。
やはり、ここだ。ここを選んで良かった。
あの目的を果たすなら、ここ以外に考えられない。




