ナーナ・タヒチ
目を覚ますと、枕元に、わりと大きめの蛾が留まっていた。
ひょおっ、と声にならない悲鳴を上げてベッドから転げ落ちる。最後の最後で最悪の目覚めだった。
昨夜、ゴムボートで部屋まで送り届けられた私は、すごすごとシャワーを浴びて不貞寝して。
今、こうして、迎えるはずじゃなかった朝を迎えている。
幸い、帰る準備は整っている。カメラのバッテリーの充電も終わっていた。朝食後すぐにでも出発できる。ずぶ濡れになった白いワンピースも、テラスで一晩干していたら乾いていた。
メイクをして、水色のワンピースに着替えて、さぁ行くかとドアを開けようとしたところ、呼び鈴が鳴った。清掃にしちゃ早いなと思いつつそのまま開けると、そこに立っていたのは――瑠菜。
「良かった、生きてた……」
私の顔を見るなり、ほっとした様子で笑った。寝ている間に溺死再チャレンジするかもと心配していたのか。ふんっと不服を露わにして、私は肩をすくめた。
「えぇ、おかげさまで生きてますよ」
嫌味ったらしく言ってやる。それをわかっているのか、いないのか。ふふふふ、と瑠菜は嬉しそうに笑った。そんな彼女の後ろから、雪村氏が顔を出す。
「おはようございます。せっかくなので、朝食を一緒にどうかと思いまして」
「何がせっかくなのかわからないけど、遠慮しておきます。お二人だけでどうぞ」
しかしながら、レストランに向かうと、勘違いしたウェイターによって同じテーブルへ案内されてしまった。日本人が連れ立って来たら知り合いだと思うのも無理はない。そして、違います他人ですと伝える英語力を私は持っていない。
仕方ないので私は食べることに専念した。あれもこれもと皿に取り、スープの前を通りかかった時、ひくりと鼻が動く。
「おぉっ、これは……!」
見つけたそれをいそいそとカップによそい、テーブルに戻った私は、ほんの少しだけ機嫌が良くなっていた。
「味噌汁があったんですよ味噌汁が」
スープカップを二人に見せて、うっふふーと笑う。
タヒチ料理は何もかも美味しい。でも、やはり日本人。和食が恋しくなる。
すぅっと湯気を吸って味噌の香りを堪能。そしてひとくち。
「んー?」
私は首を傾げた。何かが違う。何かが圧倒的に足りない。これは――
「あ、出汁入ってないわこれ」
昆布も鰹もいりこも感じない。味噌をお湯で溶いただけの汁に豆腐が浮いている。
うぅぅ、と私はテーブルに突っ伏しそうになった。取ってきた料理があるから我慢したけど。
「中途半端に味噌だけ摂取したせいで……! 出汁が……出汁の禁断症状が……!」
「あぁ、わかります。だから私は仕事で海外に行く時、粉末の味噌汁を持って行きますよ」
「じゃあ今も持ってたりします!?」
旅慣れ感を出す雪村氏に、食いつく私。しかし瑠菜が申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すいません、昨日まであったんですけど……」
食べ切っちゃったのね。
もったいないので、味噌をお湯で溶いた汁はきちんと平らげた。でもその後は、出汁をきかせた料理が脳内を駆け巡り、何を食べても物足りない。
「うどん……おでん……たこ焼き……」
呪文のように食べ物の名前をつぶやく。そんな私に、雪村氏は少し意地悪な微笑みを向ける。
「日本に帰れば好きなだけ食べられますよ」
「わかってますってば」
むすっとしながらも、頭の中は今、卵かけご飯でいっぱいだった。食べたくて食べたくて震える。
それから私たちは迎えに来たバスでフェリー乗り場へ向かい、タヒチ島の首都パペーテに戻った。
移動の際、目に付いたのは雪村氏と瑠菜のスーツケースだ。来た時と同じく、瑠菜がひとつ、雪村氏がふたつ持っている。
「それって、もしかして……」
「えぇ、片方はゴムボートが入ってます」
そういうことだったらしい。
パペーテではお土産リストに従い、買い物をこなした。これだけで一日仕事だ。翌日に持ち越そうにも、その次の日は午前三時にホテルを出て空港に向かい、六時の飛行機に乗らなければいけない。
よって、翌日は暗くなる前から寝て過ごした。だって三時とか。無理。起きられない。
早朝の空港で、職員から首にかけてもらったのは小さな貝殻を連ねたレイ。来た時には花を、帰る時には貝殻をくれるのが恒例だそうだ。
「ナーナ」
そう言って手を振る職員たち。ナーナは別れの挨拶だ。
「ナーナ」
真似して、私も言ってみる。ナーナ、タヒチ。
そして、約十二時間後。
私は再び日本の地を踏んだ。生きて帰ってきた。帰ってきてしまった。
瑠菜と雪村氏とは、飛行機の中で席が離れていたため、それきり会わなかった。私は成田からさらに伊丹へ飛んだが、そこでも見なかった。
だったらもう、きっと二度と会うことはない。




