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阪急三番街 赤いグロスを塗る女

 大阪梅田での待ち合わせ場所といえば、ビッグマン。紀伊國屋書店の前にある大型モニタービッグマンは、渋谷のハチ公に相当する。

 もし待ち合わせ相手が遅れてきても書店で時間を潰せるし、梅田で人と会う時は大体いつもここだ。

 ビッグマン前の柱に背を預け、スマホを弄る。ぬるぬる動く液晶画面が苦手で避け続けていたスマホだったが、いざ持ってみれば一週間で慣れた。画面端の時刻表示に軽く目をやる。それとほぼ同時に、私の前に人が立った。

「お待たせ」

 時間ぴったりに到着した理賀子が、軽く片手を挙げて言った。

 理賀子はこの近くで働いている。今日は私が梅田に出てくる用事があり、だったらランチでもということになったのだ。

 今日はパスタの気分だわぁ、と言って歩き出した理賀子は、阪急三番街に繋がる下りエスカレーターに乗ると私を振り返って、にっと笑った。

「変わったよね、サワラ」

 彼女は私の頭からつま先までさっと視線を動かす。

 髪は肩より短く切った。黒いシャツとパンツ、スタッズ付きのピンヒールブーツ。そして赤いライダース。

 フリルもレースもパステルカラーも、もう私には必要ないのだ。

「変わったっていうか戻ったかな。昔はそんな感じだった気がするし」

 前に向き直り、エスカレーターを降りた理賀子は懐かしそうに言った。そのすぐ後に続き、私も笑う。真っ赤なグロスを塗った唇で。

「昔より酷くなってるっしょ」

 だなー、派手だわ、とけらけら笑った理賀子は、いや進化だ進化、と一応フォローしてくれた。

 タヒチから戻ってきて約半年。

 私はまだ、こうして生きている。


「どんどんカオスになってくねぇ」

 食後のコーヒーを飲みつつ、スマホを弄ってニヤつく理賀子。

 彼女が見ているのは芸能ニュースだ。その記事の見出しは、こう。

『織部和明、スピード離婚まで秒読み』

 日本へ帰ってきて一ヶ月ほどした頃だった。織部和明の妻――新山優美が過去に不倫をしていたと週刊誌がすっぱ抜いたのは。

 新山優美は一般人の既婚男性A氏と不倫。男性はその後離婚した、というのが第一報だった。

 優美は即座にこれを否定。だがなんと、このA氏、週刊誌のインタビューに答えて「優美のお腹の子は僕の子です」と爆弾発言。これにより収拾がつかない大騒ぎとなった。

 激怒した織部のファンにより優美のブログは大炎上。織部と夫婦役を演じたCMは放送中止。優美は事務所をクビになるのではないかと噂されている。

 週刊誌によると、どうやら優美はA氏――圭介が離婚した後、よりを戻したらしい。元妻との解決金及び弁護士費用をA氏が全額負担したうえで頼み込んだそうだ。情けないことこのうえない。そしてあの金お前のだったんかい。まぁ借金だろうけど。

 記事には優美がもともと二股の常習犯だったことも書かれており、むしろ他にも交際相手がいたとかなんとか。子供も誰の子か正直不明だとかなんとか。

 つい先頃、渦中の赤子が産まれてきたわけだが、結婚直後から別居状態だった織部がDNA鑑定を求めているとの報道も出た。

「知らなぁい。関係なぁい」

 アイスティーにレモンポーションを入れ、かき混ぜながら、私はおどけて肩をすくめた。

 実際、私は傍観者だ。ネットニュースなんかで新情報が出るたびに「マジかー」と呆れるだけだし。

 ただし、単純に場外から高みの見物をしているだけでは済まなかった。打球は急に飛んでくるのだ。

 まず最初に、優美から電話があった。優美と初めて会話したのがその時だ。

 お前なんで私の番号知ってんだよと思ったけれど、どうせ漏らしたのは圭介だろうから訊くまでもない。それに、私はほぼ何も言えなかった。チクったのあんたでしょ訴えてやる弁護士費用だって馬鹿高かったのにぴーぴーぎゃーぎゃー。

 電話を耳から離していたので全部は聞いてなかったけど、大体こんな感じ。口を挟む暇なし。名乗りもしないで一方的にまくし立てるもんだから、最初は誰なのかもわからなかった。話の内容から私が勝手に察しただけだ。

「あんたのせいで私の人生めちゃくちゃよ!」

 そう叫び、ついに息切れを起こしたらしい。わずかな沈黙。というわけで、やっと私から一言。

「知らんがな」

 優美はまた何か喚きはじめたが、もはや聞き取るのも困難になったので容赦なく電話を切った。っていうかそれ、お前が言うな。

 その後、彼女からのコンタクトはない。

 訴えるだのなんだの言っていたけれど、動機があるから怪しい、なんて訴え通るわけがない。弁護士費用がどうのこうの言ってたあたり、やはり高額請求されていたようだし、そんな無駄なことしている余裕はないんじゃなかろうか。CMの違約金とか織部和明への慰謝料とか大変みたいだし。まぁ、せいぜい頑張って。

 電話といえば、圭介からもあった。

「もしもし、はー子? 元気だった? あのさ、明日って空いてる? 明後日でもいいけど。会わない? 昔のことは、まぁ、水に流してやるからさ。なんつーか、今、入り用なんだよな。仕事は順調? だったらちょっと貸して――」

「あの」

「何?」

「番号、お間違えですよ」

「え? だってこの番号、はー子……」

「違います」

「……すいません、間違えました」

 というやり取りがあった。

 そしてこれ、私はすっとぼけているわけではなく、完全に素で答えている。

 私をはー子と呼ぶ奴がいた。そんなことすっかり忘れていたのだ。

 両親は“晴子”、ご近所さんや親戚は“はるちゃん”、理賀子は“サワラ”、仕事関係者は“笠原さん”だから。

 ついでにこの時、私は風邪で寝込んでいた。熱は三七度七分だった。

 バセドウ病の薬であるメルカゾールは、低い確率ではあるが、副作用で無顆粒球症を引き起こすことがある。顆粒球とは好中球の一種で、ウイルスなどから体を守る役割を果たしているが、これが減少してしまうのが無顆粒球症。高熱を出し、時には命に関わるという。だから三八度以上の熱が出たら主治医に連絡をしなければいけないし、場合によっては入院になる。

 でも、できれば入院なんかしたくない。すこぶる面倒。というわけで、これ以上熱が上がらないよう、冷却シートをベタベタ貼ってひたすら安静にしていたし、なんなら寝ていた。

 寝起きで出た電話だったから、まったく悪気なく間違い電話の対応になったのだ。電話が切れた直後に二度寝したせいで、電話で誰かと話したのは夢だと思っていたし。もちろん、履歴には残っていたので現実とわかったけれど。

 幸い、二度寝から覚めたら熱は下がっていた。そして圭介からの連絡は二度となかった。私が電話番号を変えたとでも思ったのだろう。風邪で喉もやられていたから声でもわからなかった模様。

 この電話があったのは、優美がA氏に訴えを起こし、CMの違約金の一部を負担させる可能性があるという報道が出た直後だった。おそらく、圭介は私がまだ彼のことを愛していて、俺から連絡すれば喜んで会いに来るとでも思っていたのだろう。愛してるどころか存在自体忘れてたけどな。

 それにしても相変わらずのクズだった。なんだ水に流してやるって。お前が下水にでも流れとけ。

 そんなわけで私はスマホデビューを果たし本当に電話番号を変えたのでした。

 報道が過熱する中、週刊誌の記者が私のところへ訪ねてきたこともあった。ただし、この件に関してはもう、彼ら記者のほうが詳しくなっている。私から面白い話が引き出せないと悟るや、すぐ誰も来なくなったしまったく何の記事にもならなかった。

 もしも私が、多少は名の知れた作家であったら、騒動を盛り上げる材料として晒しあげられていただろう。でも、私ごときの弱小であれば記者たちの気にも留まらない。幸か不幸か。

「人間万事塞翁が馬、か」

 アイスティーを飲みながら、つぶやく。目の前で理賀子が可笑しそうに、くくくっと笑った。

「だとしても、こんな天国から地獄への急降下ダイブはなかなか見られないけどねぇ」

 理賀子にも誰にも、タヒチで私が何をしようとしたのか話していない。単なる気分転換の旅行に行ってきたと誰もが思っている。主治医にも許可を取っての旅行だったし、疑われる余地はない。

 人間万事塞翁が馬。もちろん圭介と優美のこと。

 そして、悔しいけど私のことでもある。

「そんじゃ、私そろそろ戻るわ。サワラもこれから仕事なんだっけ?」

「あぁ、うん。担当さんが出張で大阪に来るらしいから、ついでに打ち合わせするってさ」

「次はどんなの書くの?」

「まだ何も決まってない」

「そっか」

 自分の食事代をテーブルの上に置き、会計よろしくと言って理賀子は職場に戻っていった。私はまだアイスティーが残っている。

 塞翁が馬、と言えるほど良いことなんて特にない。激動の半年を過ごしている優美たちに比べれば生活は地味そのものだし。タヒチから帰って以降、これといって悪いこともない。体調も薬のおかげで安定している。

 しいて何か大きなことといえば、盛り上がるワイドショーを誰より楽しく見られるくらいか。

 私は何もしていない。チクっただろうと優美は言ったが、本当に何もしていない。

 だったらどうしてこんなことになったのか。それも正直なところわからないが、関西ローカルのワイドショーでコメンテーターをしている弁護士兼タレントがこんなことを言っていた。

「週刊誌の記者ってね、地方の裁判所にも常にアンテナを張ってるんですよ。うちの事務所にも、過去に取り扱った小さな事件について訊きたい、なんて問い合わせがね、たまーにあるんですよ。事件の関係者が別の事件を起こしたりなんかするとね。新山さんは織部さんと結婚する前は、言っては悪いですが無名でしたからね。モデルだってことは把握してても、記事にする価値がないと判断すればその時は放置するんですけど、今回みたいに急に注目されたりなんかしますとね、記者は過去の些細な事件の記録まで掘り起こしてくるんです」

 今をときめく人気俳優を掴まえたことで脚光を浴びた結果、週刊誌の餌食となったのではないか、ということらしい。

 でも、私には一点、気になることがあった。

 すっぱ抜いた週刊誌は新情報が出るたび、つい買ってしまっていた。そんな中に、ある記事を見つけたのだ。

 優美の騒動とはまったくの別件だが、大手通販会社の社長が二十歳以上も歳の離れた若い後妻を迎えたという記事。紙面の穴埋めのような小さな記事で、一見すると祝福しているような文面だが、社員の一部は財産狙いを疑っているというコメントを載せるあたり毒を感じる。ただ、当の社長のコメントも載っており、曰く「私たちが愛し合っていると知っている人が少なくとも一人いる。他の誰に祝福されなくても、私たちはそれだけで良い」だそうだ。

 社長の名前を見て、私は目を瞠った。

 私には縁もゆかりもない会社だ。でも、私は自分のデジカメのデータから一枚の写真を印刷して、その会社の社長宛に送りつけた。添え書きも、差出人の住所と氏名すら書かなかった。たったの写真一枚だけ。

 でも、彼には――彼と彼の妻にはそれでわかるはずだ。

 別に祝福するつもりはない。これはただの詫びだ。不倫を疑っていたことに対する詫び。ただそれだけ。

 しかしまさか、こんな有名な会社の社長だったとは。インターネットが普及するよりずっと以前からカタログで衣料品などを通信販売していた会社だ。現在はオンライン販売が中心になっているが、カタログも変わらず出していることで、ネット通販に抵抗がある世代からも支持されている。

 そしてそのカタログは、優美が主戦場としていたのだが、これは偶然なのだろうか。

 半年で構わないから、我慢して生きてみてください。

 何をどこまで知ったうえでの言葉だったのか。それはわからない。優美と裁判で争ったことは話したが、自社で採用しているモデルを週刊誌に売るような人ではないと思うし、大勢いるカタログモデルの氏名を把握しているかというと難しいだろう。コメンテーターが言っていた流れを予測していた、というのが一番有力だけれど、本当のところは不明だ。

 優美の素行がバレたのだって案外、モデル仲間や身近な人間からの垂れ込みとかだったりするのかもしれないし。二股常習犯なうえにあの性格なら他にいろいろと恨みを買っていてもおかしくないわけだし。

 ようするに自業自得の自爆。その一言に尽きる。

 グラスの中で、氷がカランと音を立てた。アイスティーはもうなくなっていた。

 理賀子が置いていった食事代と伝票を持ち、会計を済ませて店外へ出る。阪急三番街の地下二階、レストランフロアからひとつ上の階に移動し、ファッションフロアを見て回った。

 特に目的はない。ただ見るのが楽しかった。誰かの好みなんか考えないで、自分の好みだけを考えていればいい。そんな当たり前のことを、ずっと忘れていたから。

 今にして思えば、私は圭介のことをはじめから愛してはいなかったのだ。私が愛していたのは、愛されている自分、彼氏がいる自分、そして誰かの妻である自分だった。それを頑なに守ろうとしていただけ。

 悲しかったのも苦しかったのも、そんな理想の私がすべて幻だったということを自分自身で認めなければいけなかったから。

 認めた結果、私は私の半分を失った。笠原晴羅を見失った。でも、見つけたのだ。

 笠原晴羅は生きていた。ぎりぎり、虫の息で。

 まだ死んでない。

 赤いパーカーの少女は言った。何か問題ある? と問いたげな目で。

 問題ありだよ大ありだよどうやったら回復すんだよこれ、なんて文句のひとつも言ってやりたいが、見つけてしまったからには放ってはおけない。

 笠原晴羅が生きている限り、小笠原晴子が死ぬわけにはいかない。

 指先から零れ出る言葉は相変わらず汚い言葉ばかり。でも、それだって私の言葉だ。私の中に溜まった膿みたいなものだ。全部搾って出し切ったら、綺麗な何かがさらさらと出てくる、かもしれない。

 時刻は午後一時十分。打ち合わせまで五十分ある。理賀子に言った通りまだ何も決まっていないけれど、まだ、五十分ある。

 我慢して半年生きてみて、手首から先を失ったような感覚だったのが、少しだけ輪郭を取り戻したような気はした。

 笠原晴羅の息づかいが聞こえる。虫の息だけど。

 だったら半年ごとに、その息づかいに耳を澄ませ、これからも生きるかどうか考えてみるのもいいだろう。

 人間万事塞翁が馬。どう転ぶかはわからない。

 とりあえず、ここから半年はコンティニューしてみようじゃないか。

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