モーレア島 最終日 天国に一番近い島(3)
その瞬間、見えたのは――閃光。
夜空を走る幾筋もの光。花火、と思った。でも違う。
「流星群ですよ」
頭上で起きていることが何なのか、掴みきれていない私に雪村氏が教えてくれた。
初めて見たからわからなかった。もっと儚げなものだと思っていたけれど、こんなに明るい光の尾を引いて流れるのか。いや、それ以前にこの夜空。これほどたくさんの星を見たことがない。日本で、大阪で見える星といったらせいぜいオリオンの三つ星とか、そのくらいだから。
「流星……」
つまり流れ星。願い事を三回言ったら叶うとかいう、あの流れ星。
「……今さら願い事なんかないわ」
しゅんしゅんと降る流れ星の群れに、ありがたみなんて感じない。ただ、かつて船乗りたちは流れ星を凶兆として恐れたという。その気持ちはわかる気がした。音もなく夜空を走る光は死神が放つ矢のようだ。終末感さえある。
「ここに降ってきて私の頭ぶち抜いてくれないかな」
へっと笑って吐いた言葉。瑠菜たちの前でただの観光客を気取るのはもう無駄だ。だったら開き直るしかない。
「隕石であれば可能性はゼロじゃないですね。奇跡みたいなものですが。――その奇跡を待つ間に、話してみませんか。こんな夜更けに海水浴なんかしたわけを」
海水浴、か。たしかにそうだ。死ねなかった私は、ただ夜中に服のまま泳いだだけの変人だ。そういうことにしとこうってわけか。
狭いゴムボートの上でもぞもぞ動いて仰向けになった。瑠菜が、自分が羽織ってきたカーディガンを私の胸元に掛けてくれる。乾いた布一枚が冷えた体を温める。
視界いっぱいに広がる嘘みたいな夜空。宇宙に身ひとつで飛び出したみたいな。
あぁ、『Twinkle Talk』だ。篠塚満由美の『Twinkle Talk』。この歌を聴く時、想像していた星空がまさにこれだった。日本に、大阪にいたら永遠に知らなかった。こんな夜空が実在することを。
星の瞬きと話す。だったら、これは私と星の会話だ。
訥々と、私は語り始めた。圭介のこと、優美のこと、病気のこと。
瑠菜と雪村氏に対してではない。星に向かって。
それをわかっているのか、二人は相づちもなく聞いていた。目線も上に――流星群に向いていた。
「――まぁ、そんなわけでわざわざタヒチまで死にに来たんですけどぉ。ほんとなんなんですかこれ。腹立つわぁ」
まだ体に残るアルコールが饒舌にさせる。ふて腐れ、体の下にあるゴムボートを拳で叩くと、ぼむんっと弾き返された。
私を挟んで座る瑠菜と雪村氏は黙って見つめ合い、二人は同時に頷いた。
「話すと長くなるのですが」
「なるべく手短にしてぇ?」
雪村氏の言葉に、ふわふわする意識のまま答える。雪村氏と瑠菜がふっと笑ったのがわかった。
「私は東北の小さな街で生まれ育ちました。近所に、九つ年上の美しい人が住んでいましてね。映画が好きな明るい人でした。私は彼女を姉のように慕っていましたが、本心はね、好きだったんですよ」
星が流れる空を仰いだまま、雪村氏は語った。
「めっちゃ長くなりそうなんですけど? それ繋がる? ゴムボートに繋がる?」
猫かぶりをやめた私はさっそく茶々を入れる。雪村氏は、はははっと声を上げて笑った。悪いね、自棄になってる酔っ払いだから許して。
「すぐ終わりますよ。――私が中学生の頃に、彼女はお見合いをして遠くへ嫁いで行きました。父親の知り合いの知り合いだという人のもとへ。三十年以上前の話ですから、そういうことがまだあったんです。その後、私は大阪のある企業に就職しました。何か縁があったわけではありませんでした。ただ、彼女が嫁いだ先が関西だった、それだけの理由で。けれど、本当にそれだけでした。ただ近くにいるというだけで満足だったのかもしれません。彼女を捜すでもなく、ただ、働いて。当時の社長に気に入られ、社長の娘さんを紹介された矢先、起きたのです。――震災が」
「震災……阪神の、ですか」
今日日、震災といえば東日本のことだ。けれど私たち関西人にとっては、今も阪神を指す。私も当時、幼かったが覚えている。大阪もだいぶ揺れたから。
「彼女が嫁いだのは神戸でした。それ以上の住所は知りませんでした。その時になって、初めて彼女を捜しましたよ。そして、見つけました。彼女の隣人だったという人を。彼女は亡くなっていました。瓦礫の下敷きになって。他のご家族は隣人の方たちが救助したそうですが、彼女を助け出す前に火災が広がってしまったのだそうです」
一枚の報道写真を思い出した。燃え上がる住宅を前に、消火ホースを持って呆然と立ち尽くす消防士の写真。そこら中が火の海で、水が足りなくなったのだ。誰にも、どうすることもできなかった。
「こんなに近くにいたのに、なぜもっと早く捜さなかったのか。後悔しましたよ。でも、そうしたところで何がどうなったというわけでもないでしょう。結局、その翌年に私は社長の娘と結婚しました。良い妻でしたよ。快活で、賢い人だった。社長職を継いだ私を支え、二人の息子にも恵まれた。けれどその妻も、十年前に亡くなりました。乳癌でした」
空を仰ぐ雪村氏の目に一筋、流星が映って流れた。
「周りからは再婚も勧められましたよ。それはもう、うんざりするほど。そんな気は起きませんでしたがね。息子たちも成人して、いよいよひとりになったと思っていた矢先、彼女に出会ったのです」
雪村氏の視線が動いた。彼の目は瑠菜を映していた。
「会社近くに古い喫茶店がありましてね。社員だった頃から、その店でコーヒーを飲むのが好きだったんです。そこで新しく働き始めた彼女を見た時、本当に驚きました。神戸で亡くなったあの人に、よく似ていたから。親族かと思ったほどで、つい話しかけてしまってね。でも、違った。そこのマスターの、孫娘だったんです」
「私の母は、いわゆる未婚の母だったんですが、私が小学生の頃に脳卒中で亡くなって……。引き取ってくれたのは祖父母で、学費で迷惑はかけられないから、高校を卒業した後はずっと働いていたんです。でも、祖母が足を悪くして。喫茶店は祖父母が営んでいましたから、私が祖母の代わりに手伝うようになりました」
私にカーディガンを譲って肌寒いのだろう、自分を抱くように二の腕をさすりながら、瑠菜が話を引き継いだ。
「先に好きになったのは私なんです。私、父というものを知りませんでしたから。お店で何度か話すうちに昌治さんに憧れて、好きになってしまったんです。奥様のことも、同郷の方のことも全部教えてもらいました。それでも好きになったんです。でも……」
「周りの反応はお察しの通りですよ。息子たちも、好きにすればいいと言いつつ呆れていましたからね。自分たちとそう歳も離れていないのだから、彼らの気持ちは最もです。ただ、私に再婚を勧めてきた者たちにとっては相当面白くなかったのでしょう。私に文句をつければいいものを、彼女の祖父の店に、嫌がらせをするようになってね。インターネット上で、店の評判を貶めるような匿名の書き込みが相次いだんです」
「祖父母は私たちのことを理解してくれました。でも、私、申し訳なくて……。昌治さんのことも、私のせいで周りから悪く言われるのが辛くなってしまって……」
瑠菜の声は震えていた。手の甲で目元を拭い、彼女は顔を上げる。
「お別れしましょうって、私から言いました。でも、最後にひとつだけ、お願いがあって。――南十字星を、二人で見たかったんです」
彼女の視線が、さらに上へ――頭上へ移動した。
「母が好きだったんです。『銀河鉄道の夜』。正直、母との思い出なんてほとんどないんですよ。朝から晩まで働いていましたから。でも、そんな母がくれた本がそれで……。南十字星は、亡くなった人が向かう所でしょう?」
まぁ、たしかに、あの話の中ではそうだ。
「彼女に頼まれて調べていたら、この日、ここで、流星群が見られるとわかったんです。南十字星は沖縄の離島でも見られるそうですが、せっかくなら流星群も一緒に見たいと思ったんですよ。海にボートを浮かべてね」
「やっと出てきたわぁ、ゴムボートの謎ぉ」
酔っ払い、空気を読まずにあひゃひゃと笑う。だってそうでもしないと気持ち悪くて。酔いと波の揺れで、さっき出すだけ出したのにまた吐きそう。あひゃひゃんぐぐぐぐ、と唸って耐える。
「……私なんでこんな運悪いんだろ」
タヒチに来る日が違ったら、予約したホテルが違ったら、彼らと離れた部屋だったら、邪魔されることはなかった。何も問題なく死ねたのに。
いつもこうだ。タイミングが悪い。くじ運が悪い。
「人間万事塞翁が馬、ですかね」
雪村氏が、つぶやくように言った。
幸運だと思ったことが災難に繋がる。災難だと思ったことが幸運を連れてくる。まぁまぁ有名な故事成語だ。
人生悪いことばっかじゃないぜ、って人を慰める時によく使われる言葉。それは私を苛つかせる。
「良いことなんて待ってられないんですよ。待てる余裕がありゃこんなことしてないんですよ。今が! しんどいから! 死にたいの!」
死ぬくらいなら逃げればいいとか簡単に人は言う。そういう人は、逃げるほうが苦しいことを知らない。逃げた先に死があったということを知らない。
人間には誰しも生きる権利がある。だったらそれと同じくらい、死ぬ権利を認めてくれたっていいじゃないか。自由な生き方を選べるなら自由な死に方だって選ばせてくれ。年老いて病院の清潔なベッドで死ぬ以外が不正解なんて、歪んでる。
「大体、何ですか? お互いのことを思いやって別れる? 嘘でしょ、そんなの。面倒だから、相手のせいにして別れるだけでしょ。こういう綺麗な思い出でごまかしてさぁ。どいつもこいつも、別れの理由を人のせいにしやがる」
吐こうとしても胃からは何も出てこないから、代わりに苛々をゲロのようにぶち撒けて悪態をつく。瑠菜はわずかに青ざめたが、雪村氏は短く息を吐いて首肯した。
「仰る通りだと思います。だからね、小笠原さん。塞翁が馬というのは、私自身のことなんですよ」
「は?」
「あなたにとっては迷惑な話かもしれませんが、あなたの命を救えたことは私にとって意味があったんだと思います。あの人を、妻を、救えなかった手であなたを救えた。胸の痞えがおりた気がするんですよ。こうしてあなたに会って、話さなければ、私は瑠菜のことを綺麗な思い出にして終わらせてしまったでしょう。私の人生はそういうものだと諦めていましたから。でも――気が変わった」
「昌治さん……」
瑠菜が雪村氏の顔を驚いたように見つめた。私を間に挟んで見つめ合うのやめてくれ。居心地悪いわ。
「小笠原さん。あなたの計画を台無しにしてしまって本当に申し訳ない。ですが、申し訳ないついでにひとつ、お願いしてもいいですか。日本に帰って、半年で構わないから、我慢して生きてみてください。半年後はあなたの好きなようにすれば良い」
なんだ半年って。そんなこと言われても、新しく計画を立て直すのは骨だ。次はグランドキャニオンにでも行ってアイ・キャン・フライしてみるか。
「……まぁ、いいですよ。どうせここで死んだって、もう事故は装えないし」
大きく溜め息をついて、私は承諾した。他にどうしようもない。
瑠菜があからさまに安堵したのがわかった。赤の他人のことで、よくもまぁ、そんな顔ができる。
「小笠原さん、言いましたよね。事故死だって思わせるために、私たちの前では普通の観光客のふりをしたって。私たちを利用したって。だったら、私も同じです。私は、私たちが幸せだったことを、他の誰かの記憶に留めておきたかったんです。小笠原さんに覚えておいて欲しかったんです」
展望台で一緒に写真を撮りたがったりしたのは、そういうことらしい。なるほど、お互い様ということか。
「そうですか。――ところで」
空を仰ぎ、私は言う。
「南十字星って、どれです?」
オーストラリアやニュージーランドの国旗に描かれているから形くらいは知っている。でも、それが空のどのへんにあるのか、私にはわからない。
「私もわかりません。星が多すぎて」
あはは、と苦笑いする瑠菜。口を出さないところをみると雪村氏もわからないらしい。
またひとつ、光の尾を引いて星が流れた。
十字架は見つからない。
どれだけ高らかに賛美歌を歌おうと、神の御許には近づけないようだ。




