モーレア島 最終日 天国に一番近い島(2)
旅行代理店のラックからチラシを引き抜いた時、決めた。
私はここで死ぬ。タヒチの海で死ぬ。
天国に一番近い島だそうだ。だったら見事、天国への階段を駆け上がれるだろう。
いや、別に天国じゃなくてもいい。地獄でもいい。この世ではないどこかなら、どこでもいい。
死んで圭介を悲しませようとか、そんなつもりは一切ない。だって、彼にとって私はゴミだ。あなたが捨てたゴミは焼却炉で灰になりましたと聞かされて、悲しむ人がいるだろうか。いないだろう。それと同じで、きっと気にも留めないはずだ。むしろ、ざまぁと笑うか。それともお得意の、悲劇の主人公を演じる材料にするか。だいたいそんなところだ。
優美にしたってそう。私の死はきっと彼女を喜ばせる。
だったら、死んで祟ってやるとか。そういうことでもない。天国だの地獄だの言っても、実のところそんなもの信じてもいない。
ただ、私は捨てるのだ。
この世界を捨てるのだ。
世界が私を捨てたのではない。私が世界を捨ててやるのだ。
だってこの世界の神様とやらは狡い奴の味方だから。
パンを啄んだ魚たち。パンみたいに私も食べてくれるはず。美しい熱帯魚の糧になれるのなら、悪い死に方じゃないだろう。
心残りは何もない。もしも手掛けている途中の作品でもあれば思いとどまっただろうけれど、今はそれもない。笠原晴羅はいなくなってしまったから。
ただひとつ気がかりがあるとすれば、私の死が、どこまで世間に知れ渡るか、それだけだ。
海外で日本人が死ねば、国内でニュースとして取り扱われる。それが作家であれば、売れていなくてもキャッチーな話題となる。一瞬だけニュースサイトのトップページに踊り出て、コメント欄で「誰? 全然知らない」とか書かれる。
不特定多数が私の死を知る可能性が高いのだ。それでもし、自死ということになれば、私が遺す作品は曰く付きの作品となってしまう。あることないこと噂を流され、死体蹴りされて晒されるだろう。
作品に泥を塗ることなく死ぬ。そのためには、不慮の事故でなければいけない。
最初は病気の治療をやめる方法を考えた。でも、甲状腺クリーゼになっても確実に死ぬわけじゃない。倒れて救急車に乗せられて病院に押し込められ、医師や看護師の監視のもとで生きることを強要される可能性が一番高い。だからこれは却下。
むしろ、薬は処方箋通りにきちんと飲むことにした。生きる意欲がある、そう偽装するために。最後の最後、今日この瞬間まで。
笠原晴羅こと小笠原晴子は旅行先で酒に酔って、うっかり海に落ちて死んだ。
そういう筋書き。
ささやかなニュースにはなるかもしれない。でも事故死だ。しかも酔っ払ってうっかり溺死。間抜けと笑われるかもしれないけれど、でも、それだけ。
きっと翌日には、笑った人も笑ったことを忘れる。数少ない私の読者には申し訳ないと思うけれど、継続中のシリーズ物はないし、何より小笠原晴子はまだ生きていても、笠原晴羅はもうとっくに死んでしまった。圭介と優美に殺された。
だから許してほしい。だって、これは事故なのだ。
そう、事故だ。これは事故。めいっぱいタヒチを楽しんで、写真もいっぱい撮って、お土産リストも用意して。日本に生きて帰る意思はテーブルに並べた。
観光を楽しんでいたと証言してくれる人も用意した。瑠菜、雪村氏、マサヒロさん。彼らは私の自死を否定してくれるだろう。
裸足のままテラスに出る。外は暗かった。皆、眠っているのだ。ぐにゃぐにゃ歪む視界の中でまっすぐ歩くのも困難だが、手摺りを頼りにどうにかテラスの縁まで辿り着く。
はためく白いワンピース。あぁ、くらくらする。まるで麻酔みたいだ。丁度良い。
死ぬには最高の夜だ。
「あばよ、世界!」
顔いっぱいに笑みを浮かべ、ダサい捨て台詞を吐いて。
私はテラスの縁を蹴った。
水に叩きつけられる衝撃。夜の海は冷たかった。でも構わず泳ぐ。振り返らず、前に向かって。
テラスから、梯子から離れる。足は底につかない。もっと深い場所があったはずだ。そこまで泳ぎ着けばたとえ後悔したってもう助からない。
丈の長いスカートが足にまとわりつく。塩辛い水が口に、鼻に入ってくる。がぼっと泡を吐いたが最後、頭は完全に水に浸かった。
こうなるともう上下の区別もつかない。暗い。前も後ろも右も左も。
苦しい。体は酸素を求める。死のうなんて意思を足蹴にして、生存本能が私の手足を動かす。
……さん……さわらさん……――
生存本能は聴覚まで支配するのか。この暗い海で私の名を呼ぶ者なんていないのに。
……おが……さん……がさわらさん……――
あぁ、うるさい。うるさい。そんなに呼ばれたら、振り返ってしまう。
「小笠原さん!」
指先がわずかに空気に触れた。それと同時に、手を、腕を掴まれて、水の中からずるりと引きずり出される。
「小笠原さん、大丈夫ですか!?」
ぱつっと張りのある何かの上に引き上げられ、大きく息を吸う。しかし咳き込んでしまい、同時にすべてのものを吐き出した。海水と酒と薬と食べたもの。全部を海にぶちまける。
げほげほげぇげぇ吐く私の背中を誰かの手が撫でていた。呼吸が整ってきてその人の顔を見上げる。
「……日比野、さん……?」
瑠菜。そして雪村氏。二人がいた。
でも、ここは海の上だ。どういうことだ。実は私はしっかりきっかり死んでいて、幽体離脱でもしているんだろうか。
なんてことを考えたけれど、水から出て重力を感じる体は重い。浮遊感とはほど遠い。
それに、ここは妙に狭い。瑠菜と雪村氏にぎゅっと挟まれ、まともに身動きも取れない。
自分が乗せられている何かの正体もここでようやくわかった。ゴムボートだ。
「良かった、無事で。ボートを出そうとしていたら、小笠原さんがテラスにいるのが見えて……。急に落ちたものだから、びっくりしましたよ。でも、間に合って本当に良かった」
「……わ」
「え?」
「良いことあらへんわ! 余計なことしよって!」
方言も本性も丸出しの絶叫。瑠菜は仰け反って目を丸くした。
生きている。死ねなかった。失敗した。あれだけ万端に準備したのに。なんだよゴムボートって。なんでこんなとこにいるんだよ。意味わかんねぇよ。
「小笠原さん」
うぅ、うぅ、と唸って悔し涙を流す私の耳に、落ち着いた声が届いた。雪村氏の声だ。
「小笠原さん。上をご覧なさい」
優しい、けれど有無を言わせない声音。ゴムボートに俯せになったまま、濡れた髪が顔に張り付いたまま、私は首を捻って上を見た。




