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常夏の夜の夢 三 慰謝料は分割払いでと言われた話(6)

「じゃあさ、俺らの知り合い紹介してあげるよ。万年彼女募集中の奴だからバツイチでもイケるって」

「え、あいつか? さすがに童貞紹介するのはどうよ」

「いや、風俗で捨ててるよ」

「まぁ、そこは置いといて。金だけはそこそこ持ってる奴だし、どう? 今日来てるはずだからすぐ連れてくるよ」

 ははっ、と。私の口から漏れたのは乾いた笑い。

「あの、すいません。あっちに人を待たせてるんで。失礼します」

 そう答えて軽く頭を下げ、混み合う会場を突っ切って急いで安全地帯――元いた場所へ戻りました。

「あれ? 笠原さん、ケーキ取りいったんじゃなかったの?」

 手ぶらで戻ってきた私に、友人が訊ねました。いつもならデザートはたくさん皿に盛ってくるから、訝ったのでしょう。

「欲しいのなかったから」

 そう答えて苦笑いするのが精一杯でした。

 友人たちの陰に隠れてこそこそ二次会まで過ごし、会場近くに取っておいたホテルに戻った私は、ほっと一息ついて――

「おるぁ!」

 雄叫び一発、パーティーバッグをベッドに叩きつけると、ぼむんっと弾んだバッグのがま口が衝撃で開き、飛び出て散らばるリップグロスにハンカチに名刺ケース。

 悪気はない。悪気はない。悪気はないんだ。わかってる。

 うっかり私と引き合わされそうになった誰かさん。その人が悪いわけでもない。会ってみたら良い人かもしれない。でも問題はそこじゃない。

 私は私の人生を誰かの玩具にされるのはもう嫌だった。彼らは、彼らが思う『ネタになる男』を私に宛がって、まかり間違って結婚なんてことになったら、子供なんて生まれたら、一家まるごと一生弄り続けたでしょう。もちろん、彼ら自身はそんなこと自覚はしておらず善意のつもりだったのだろうけれど。

 今まではこんな扱い、受けたことはなかった。なのにバツイチになった途端この仕打ち。

 バツイチくらい今時普通だよ、なんて所詮は綺麗事でしかない。

 これこそが現実の、世間の目なのです。


 妻という肩書き。友人。尊厳。

 ここまで私は多くのものを失ってきました。

 これ以上まだ何か、なくすものがあるのでしょうか。

 ええ、あったのです。

 何よりも大切なものを、私は失ったのです。

 すべての係争が終わった、丁度その頃。小説の新しい企画を練っている時でした。キーボードを叩く指に、違和感を覚えたのは。

 なんだろう、と思って自分の手をまじまじ見ても、よくわからない。ただ、手先を使う作業――ペンでメモを取ったり箸を使う時など、持っているものを取り落とすことが増えました。

 手に力が入らない。何かしようとすると指先が震える。

 やがて他の異変も出てきました。ただ立っているだけで膝がぶるぶると震え、頽れそうになる。そして息切れと発汗。蒸れた布団に包まれているような息苦しさで何も手につかず、焦りへと繋がる悪循環。

 書かなきゃ。何か書かなきゃ。私にはもう、それしか残っていないのに。

 思えば思うほど、手は、指は、動きを鈍らせる。

 私は物語を紡ぐ時、踊るような、音楽を奏でるような、そんな爽快さを感じていました。

 ピアノを自在に弾くように、キーボードを叩く。頭で考えるのではなく、指先から言葉が零れ出る感覚。気に入ったフレーズが書けた時は一日中気分が良い。

 なのに、言葉が、出てこない。

 まるで両方の手首から先がなくなったような錯覚を覚えるほど、力の入らない指先からは何の言葉も出てこなくなったのです。

 そんな私の異常に、真っ先に気づいたのは、なんと歯科医師でした。

「私は専門外なのではっきりとは言えませんが、甲状腺を診てくれる病院に行ったほうがいいかもしれません。――バセドウ病の可能性があります」

 歯痛がするという理由で、息切れする体を引きずって受診した私の甲状腺――喉にある蝶型の器官が腫れていることに気づいた歯科医師は、そう進言してくれたのです。歯には異常が見られず、腫れた甲状腺が歯の神経に障っているのかもしれない、と。

 バセドウ病――甲状腺機能亢進症。甲状腺ホルモンの過剰分泌により、体の新陳代謝が異常なまでに活発になり、臓器に至る全身が常に全力疾走状態になる病。

 人気歌手が公表したことで一気に知名度が上がった病気。その程度の認識でした。

 調べてみると、書かれている症状はどれも覚えのあるものばかり。手の震え、息切れ、頻脈。その中でも目を引いた症状は、なんといっても眼球突出でしょう。目の奥の筋肉などが腫れ、眼球が前に押し出されることによって目が飛び出してしまう症状です。

 恐る恐る、鏡を見ました。でも、変化しているかどうか自分ではよくわからない。バセドウ病になっても、目に症状が現れる確率はそう高くはないそうです。出ているような気もするし、元々のような気もする。

 鏡は真実を映すけれど、人の目は真実を見るとは限らない。鏡の中に自分の願望を見ることもあれば、憂虞を見ることもある。

 これは本当に今の私の顔なんだろうか。他人から見ればどうなんだろうか。

 ――ギョロ目の宇宙人――

 言った当人はもうとっくに忘れているだろうに、いまだ私の耳の奥にこびりついて取れない声。

 ただでさえ醜い目が、これ以上どうにかなったら。考えたくもありませんでした。

 症例の中には、甲状腺ホルモンの過剰分泌によって無気力や不安感、鬱状態になる、ともあります。時には言語能力に影響を及ぼすことさえある、と。

 そんなはずない。そんなことあってはならない。だってそれは、言葉は、私のすべてなのに。

 私は抗いました。書こうとした。でも、指先から出てくるのは苦痛や恨み、人を罵る言葉ばかり。

 美しい、と言われた。笠原さんの書く言葉は美しい、と。

 特別そうしようと思って書いていたわけではないけれど、編集者や読者からそう言ってもらえて、あぁこれが私の財産なのだと思いました。言葉は、決して誰にも奪われることのない、私の財産だと。

 でも、もう、ない。

 今まで書いてきた夢とか希望とか恋とか愛とか。

 そういったものを書くための言葉が、私の中から消えてしまっていました。

 パソコンの前に座ってキーボードを叩いて、何度も呼びだそうとしたもう一人の私。笠原晴羅。

 彼女はもう、返事をしなかった。

 いなくなってしまったのです。


「バセドウ病で間違いないです」

 大学病院の内分泌科で、血液検査の結果を見ながら医師ははっきりとそう言いました。わずかながら、ただの貧血ですねと笑われるのを期待していたのだけれど。

 一年以上の長期にわたってストレスに晒され続けることで発症するのだそうです。

 原因は何か。言うまでもないでしょう。

「あと少し気づくのが遅れていたら甲状腺クリーゼになっていたかもしれません。危なかったですね」

 バセドウ病が重症化した状態が甲状腺クリーゼ。調べる中で知った、致死率の高い病名でした。

「バセドウ病は寛解――症状が治まることはあっても完治はしない病気です。長い治療になりますが、今はお薬で良くなりますから」

 治療の説明。薬の説明。それらすべてをぼんやり聞いて、ぼんやり返事をして、ぼんやり会計をして。

 ぼんやりしたまま帰ろうと、病院の出口に向かおうとした時でした。

 総合受付のすぐ横にはチェーンのコーヒーショップが入っていて、診察待ちの患者や付き添いに来た人が時間を潰していました。間仕切りもなく店内が見え、店の奥にある大きなテレビも丸見え。そのテレビに映るのは、下世話なワイドショー。

 音声は届かない。鮮やかなピンクのハートだけが、弾丸のように私の目に飛び込んできました。

『織部和明電撃結婚』

 漢字ばかりの文字情報は少し遅れて脳に届きました。織部和明。見覚えのある俳優でした。ここ何年か、若手人気俳優の筆頭として輝かしい活躍を見せている男性。

 画面上ではその織部の写真と、よく見知った女の写真が並んで表示されていました。

『お相手の新山優美さん』

 女の写真の下には、そのようなテロップ。切り替わった画面は、あるCMの動画を紹介し始めました。洗剤のCMでした。

『CMで夫婦役を演じ、交際を始めた二人。新山さんは現在妊娠五ヶ月で――』

 そこまでテロップを読んだ私は、ふいっと視線を外し出口へ向けて足を踏み出しました。

 完治することのない病。その元凶となった女は今、画面の中で、盛大に祝福されている。

 強く、あらねば。

 声にせず零した言葉が地面に落ちて砕けた。

 その音は、私には確かに聞こえました。

 心が砕ける音は、あまりにもうるさい、無音だったのです。


 ろくに瞬きすらせず、ただ前だけを見て歩を進めました。無意識ながら、帰路に就こうとしたのでしょう。病院最寄り駅まで辿り着いた私の目に、鮮やかな色彩が映りました。

 台湾、ベトナム、シンガポール、ハワイ、グアム、オーストラリア。

 旅行代理店の店先に置かれたチラシたちでした。

 その中の一枚に、手を伸ばす。青い海と水上コテージの写真。

 キャッチコピーは天国に一番近い島。

「……タヒチ」

 掠れた声で、一番大きく印字された三文字を読み上げました。

 短大の卒業旅行について友人たちと話し合っていた時に、初めて知った国でした。もちろんそんな遠い所、卒業旅行で行けるわけもなく、無難に千葉の某リゾートに行きましたが。

 それからもずっと心に残っていたこの青い景色。

 結婚した時、新婚旅行でここに行きたいという私に、そのうちな、と圭介は言って結局それっきりでした。

 天国に一番近い島。

 この景色は本当に実在するのか。ずっと確かめてみたかった。

 チラシを引き抜いた私の口元に、笑みが戻った瞬間でした。

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