常夏の夜の夢 三 慰謝料は分割払いでと言われた話(5)
でも、あまりに態度が悪い。その態度の悪さにだけは黒判定、ということで微々たるものですが三十万円の解決金をいただけることに。
少額になった一番の理由は、圭介からもぎ取った高額の慰謝料でした。
不倫は有責配偶者と不倫相手の共同不法行為だから、圭介からすでに取った慰謝料の中に優美が払うべき慰謝料も含まれている、既払いになる、ということでした。
とはいえ、それは想定済み。むしろ、短い婚姻期間で別居して子供もいない、身体的暴力もない案件なのに、合計でここまで取れただけで例外として記録に残るほど珍しいそうです。
それだけ圭介と優美がどこに出しても恥ずかしいクズだったってことなんですけどね。
これだけもぎ取っておいて今さらですが、私は別にお金なんていらなかったのです。
もし法律で、慰謝料かメリケンサック付きの拳でぶん殴る権利どちらかを選べるとしたら私は迷わず後者を選んでいました。でもそれはできないから、慰謝料を取るという方法で己の非のなさを示すしかなかっただけ。
だから、優美から高額の解決金を取ることにはさほど執着していませんでした。
私の目的はただひとつ。優美に謝罪させることだけ。
私悪くない謝りたくないとずっとゴネていた優美でしたが支払いがたった三十万で済むとわかったために油断したのでしょう。
和解条件は、解決金は三十万、ただし謝罪必須、となっていましたが、優美は解決金のところしか見ていなかったようでこれを承諾。
和解調書に、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした、という優美の言葉を残すことに成功しました。足かけ二年三ヶ月の長い戦いが、ようやく終わったのです。
形ばかりの謝罪なのはわかっています。大事なのは、金額に関わらず優美が慰謝料を払ったうえ私に謝罪した、という裁判記録を残すことです。
これでいつ何があっても、私に咎がないことを証明できる。もし圭介が、優美が、腹いせに私への誹謗中傷をまき散らし、再び裁判になったとしても決して負けることはない。
それはつまり、彼らがそのような暴挙に出ないよう抑制する力となる。
私は勝った。守った。私の尊厳を。作品の名誉を。
ところで、バツイチ女に対する世間の目ってどんなものでしょう。
今時は三組に一組が離婚するらしいよ。だからどうってことないよ。
離婚したと言うと、ほんとんどの人がこんなふうに言って慰めてくれます。
そう、慰めてくれます。
つまりはそういうことです。
別居から二ヶ月ほどした頃。昔なじみの近所のおばさんが、出会い頭に、あらぁ! と眉尻を下げて駆け寄ってきました。
「はるちゃん! 大変やったんやねぇ。体調は? ちゃんとご飯食べてる? こんなにやつれて……。だいぶ痩せたんやないの?」
「いえ、太りました」
つい本当のことを答えた私に、おばさんはきょとんと目を丸くしました。まるで私が何を言ったのか、理解できなかったみたいに。
別に暴飲暴食していたわけではありません。圭介の残飯しか食べるものがなかった生活をしていたため、飢餓状態だった体が少しでも栄養を蓄えようとしたのでしょう。朝昼晩と健康的な食事を摂っただけで、十キロ近く体重が増えたのです。結婚する前に買って、実家に置きっぱなしだったスカートのファスナーが上がらなかったのだから、結婚前よりも確実に太っていました。しばらくすると体重は落ち着いてきて手持ちの洋服も着られるようにはなったものの、おばさんと出くわしたその時がたぶん人生で一番むちっとしていたと思います。圭介と戦う決意が固まっていたこともあり、常にギラついた顔で歩いてたはずです。
夫に不倫され離婚を迫られている、そんな女はかわいそうなのだ。野良犬みたいに痩せ細ってやつれて下を向いてとぼとぼ歩いているものだ。決して大股でずんずん歩いたりしない。つやつやむちむちに肥えたりしない。
おばさんは良い人です。意地悪でそんなことを考えたりはしないでしょう。でも、潜在意識が、固定観念がある。おばさん本人が自覚していなくても、確実にある。だから太っているものも痩せて見えるし、太ったという私の自己申告も理解できなかったのです。
「あぁ、まぁ、大丈夫ですよ」
肩をすくめ、私が流そうとすると、おばさんはさっきよりも眉を歪ませて「気を落とさんでね」と言って去って行きました。
これは、このおばさんに限ったことではありません。
大なり小なり、誰もがそういう目で――こいつは負け犬だという目で――私を見ていたのです。きっと、私自身さえも。
ある日、高校時代の友人からメールが届きました。結婚することになったの。結婚式するから来てね。そんな、アラサーには馴染みのありふれたメール。
「さっちん、結婚するって。高校ん時の、絵が上手だった子」
夕飯の席で何気なく報告しながら、ご祝儀の他に何かお祝いの贈り物を用意したいな、何が喜んでもらえるかなと考えていました。
「そう、良かったね。……ねぇ、晴子」
「んー?」
「妬んだらあかんよ」
おずおずと、腫れ物に触るような母の言葉に、咀嚼していた口が止まりました。
妬む。考えたこともなかった。だって私、さっちんのこと大好きだったから。
あぁ、でも、さっちんから見れば私は縁起が悪い存在かもしれない。どう言い出せばいいかわからなくて離婚することはまだ言えてなかったけれど、今このタイミングで伝えるのは憚られる。かと言って、式に参列した後に実は……って話しても、さっちんは騙されたって思うかもしれない。さっちん自身が気にしなくても、親族が気を悪くするかもしれない。かもしれない。
「ごめんね、最近忙しくて、結婚式は行けそうにないの」
結局、私はそう返信したっきり、さっちんとメールをすることもなくなりました。
さっちんは何度もメールをくれました。どうしたの。何かあったの。そう問うメールにすら返すことなく、どうか私なんかのことは忘れて幸せになってと身勝手に願って、メールが途絶えるのをじっと待ち、いつしか、その通りになったのでした。
これによって、高校時代の友人たちとは自動的に縁が切れました。いいえ、私が強引に断ち切ったのです。さっちんが心配してるよ、と他の友人から様子を窺うメールが来ても、返さなかったのですから。
高校時代。それは私が、恋愛のれの字も知らない、きっと人生で一番楽しかった頃。
小学生の頃は顔のことで幼馴染みたちにからかわれた。高学年の頃に引っ越すと、今度は同級生の男の子に魔女みたいな顔だと嘲られた。中学に上がってからもその同級生は私につきまとって魔女、魔女、魔女子さんと呼び続け、高校は男の子がいない学校に行こう決意した。
さっちんを含め、漫画やアニメが好きなオタク友達が初めてできたのが高校時代です。
とても居心地が良かった。私の容姿をあれこれ言う子は誰もいなかった。
声優になりたい子、漫画家になりたい子、それぞれが抱いていた夢を恥ずかしげもなく披露し合って、私も、小説家になりたいなんて言ってはノートに書いた物語を彼女たちに見せたりしていました。
学生服に身を包んで幼い夢を語る私を、彼女たちは知っている。そして、その夢を叶えたことも知っている。あの頃語り合った未来に、私だけが足を踏み入れたことも。
だから、今の私の姿を知られたくなかったのだと思います。あのおばさんみたいに、かわいそうにっていう目で見られたくなかった。なけなしの矜恃でした。
彼女たちの記憶の中では輝いたままでいたい。これも妬みのひとつの形なのか、私にはわかりませんでした。だけどもし本当に、結婚していく友人たちを心の奥底で妬んでしまうのだとしたら、そんなことは許されない。だから私は彼女たちの前から姿を消して然るべきだったのです。
そんなわけで、私は友達をごっそり失いました。――たった一人を除いて。
「この新山優美ってさ、整形してると思うわ」
ちょうど、優美から債務不存在確認訴訟の訴状が届いた頃のこと。短大時代の友人である理賀子が、スマホで優美のブログを見ながら笑い飛ばしました。圭介がデータを誤爆した理由について、機種変のためだろうと推察してくれたのが彼女です。
大阪駅ルクア内のカフェ。テーブルに置かれた理賀子のスマホ画面を覗き込んだ私は、ただ首を傾げるばかり。
「なんでわかんの?」
「嫌いな上司の弱み握るために調べまくった」
あけすけな様子でそう答える理賀子。だからこそ私は、彼女にだけは己の抱えた問題を話せたのです。実際、第一報を入れた時には、「サワラが話してすっきりすんなら聞く。面白い話なら尚のこと良し」と食いついて、決して私を哀れみませんでした。そして、サワラは理賀子がつけた私の渾名で、名字をもじったものです。結婚してからもサワラはサワラでしょと呼び続けました。それがありがたかった。私は小笠原晴子。長崎晴子じゃないって、思い出させてくれるから。
「目も怪しいけど、鼻は確実にやってるね。プロテーゼかな」
「へぇー……」
ディスプレイ内で微笑む優美をまじまじ見ても、私にはさっぱりわかりませんでした。
整形は決して悪いことではないと思っています。それで心身の健康が手に入るのなら。私だって、圭介に顔面バッシングを食らった時は整形したいと思ったのですし。
「これって痛いんかな」
「そりゃ痛いでしょ。腫れるらしいし。ちなみに、プロテーゼってこんな手術な」
スマホをすすすっと操作して美容整形の参考画像を表示する理賀子。彼女の手元を見ていた私は、出てきた画像にヒィィっと声を上げてしまいました。何これめっちゃ痛そう。
「ひ、費用は?」
「保険適用外」
優美、がんばったんだな。その点だけは素直に尊敬するわ。
「私には無理だ」
それに、目を大きくするのはよく見聞きするけど、その逆は聞いたことがない。
んふふ、と理賀子は笑ってコーヒーを啜りました。
「私も、二次元の推しに貢ぐほうが心満たされるわ」
そう格好つけて言う理賀子は、言ってることはあれだけど、間違いなく格好良かった。
「で、どうなの。裁判は順調にいきそうなわけ?」
カップをソーサーに戻して問う理賀子に、私はその時点でわかっていたこと――主に債務不存在確認訴訟――を説明し、石田先生と練っていた計画を話して聞かせました。
「――なるほどねぇ。ぶん殴りたいな、新山優美」
一通り聞き終え、シンプルな感想をくれる理賀子。そして、ふっと笑いました。
「にしても、サワラは強いね。私なら証拠の出し惜しみなんかしないで、勢いで全部突きつけちゃうわ。最後の切り札って、あんた冷静すぎるでしょ」
思いがけない言葉でした。そんな自覚はなかったから。
でも、そうだ。私は強い。私は強くあらねば。
「なぜなら、負けられない戦いがそこにあるから」
自分で言ってげらげら笑って、理賀子も一緒に笑って、すっきりしました。
強くあらねば。
その思いをしこりのように残しながら。
いわゆるリア友な理賀子。それ以外の交友関係となると、作家活動をする中で知り合った人々だけです。
とはいえ、顔を合わせるのは年に一度か二度。出版社主催の宴席でのみ。特に地方在住者は、こういった場でしか他の作家と交流することはありません。
そんなもんだから、私はごく数人の親しい作家たちの輪に入り、それ以上の交友関係を拡げることもなく、大人しく過ごすのが常でした。
友人たちは私が数年前に結婚したことを知っていましたが、離婚の報告はまだでした。他に伝える機会もなくて、その場で実は……と切り出すと、皆、さすがに驚いたわけで。
でも、哀れまれるのも空気が重くなるのも嫌です。だから私はなるべく面白おかしく語りました。するとこれがなかなかウケたものだから、内心ほっとしたのです。
強くあらねば。
ここでも、そんな気持ちが私を支えていました。
立食の宴席ですから、何か食べたければ自由に取りに行きます。そろそろ甘い物が欲しいと思った私はふらっと輪を外れ、デザートを探しにいきました。
「あ、笠原さんじゃん。ひさしぶり」
顔見知りの作家数人がそこにいて、おひさしぶりですと笑顔で返しました。それから、結婚した時にはまぁまぁ浮かれていたせいでこの人たちにも報告したなと思い出し、だったら離婚のことも言わなければと、さっきと同じ調子で明るく報告。
けれど、彼らの反応は予想外のものでした。




