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常夏の夜の夢 三 慰謝料は分割払いでと言われた話(3)

 あぁ、でも駄目。殺してしまったら、私は犯罪者になる。それは駄目。私は名誉を守らなければいけない。作品を守らなければいけない。

 戦わなければいけない。

 いつの間にか口の中に鉄錆臭い味が広がっていました。噛みしめた唇が切れて血が出ていました。

 圭介。優美。

 私はお前たちとは違う。卑怯な手は使わない。正々堂々戦って、己の潔白を示してみせる。


 優美サイドが神奈川地裁に提起した債務不存在確認訴訟は、管轄違いであるとして大阪地裁に移送を申し立てたところ、すんなり認められました。

 ところが優美サイド、即時抗告してきました。即時抗告とは、裁判所の決定に不服を申し立てることです。

 これには裁判官も困惑。なぜなら、即時抗告は認められた権利だけれど、やったところで優美サイドに勝てる見込みはなく、むしろ優美にとって何の利益にもならない、まったくの無駄だったからです。

 まるで、わざと手間を増やしているようだと石田先生は言いました。

「もしかしたら、これは新山さん本人の意思ではなく、代理人の策略かもしれません。債務不存在確認訴訟や即時抗告それぞれに別料金を設定していて新山さんを煽っているのか、もしくは書面一枚毎にいくらという料金設定なのか。そういう弁護士が、残念ながらいるんです。そうして勝訴したとしても、最終的に弁護費用が数百万円に上ったというケースも聞きますから」

 私が石田先生に支払ったのは、着手金の数十万のみ。印紙代などは都度かかるものの、別料金や、答弁ごとに費用を払うなんてことはありませんでしたし、圭介から毎月むしり取っている婚姻費用により初期投資はこの時点ですでに回収できています。あとは圭介と優美から慰謝料を取れた場合、成功報酬としていくらか支払うだけというシンプルな契約だっただけに、驚きを隠せませんでした。

「……新山さんは、私への嫌がらせのためならそんな大金を使ってもかまわないと思っているんでしょうか」

「いや、どちらかというと何も考えてないんじゃないでしょうかね」

「何も考えてない」

「代理人に丸投げした結果こうなったというか」

「丸投げした結果」

「先方が出してきた証拠からして、新山さんが長崎さんに対して煽る意識を持っているのは間違いないでしょう。これを使えと、代理人にアプリのデータを渡しているのは新山さんですし。ただ、先方の代理人は新山さんのことをずっと『しんやま』と言い間違えているんですよね。意思疎通がほとんど取れていない様子なんです。依頼人の無知につけ込んで、取れるだけ取ろうって魂胆だと思いますね。すべてが終わった後、弁護費用を請求されてから青ざめるんじゃないでしょうか」

 ちょっと待って。それってつまり。

「新山さんは、ひょっとして頭が悪いのでしょうか」

「ひょっとして、ではないと思いますね」

 思わず頭を抱えました。

 私を、オタクを、ライトノベルを散々馬鹿にしておいてお前。このざまはなんだお前。某有名私大卒が自慢なんだろう、しっかりしろよ典型的な勉強だけできる馬鹿なのかお前。

 優美にもう少し思考力があれば、こんな面倒なことにならなかったわけです。もしくは、真摯に向き合う姿勢さえあれば丸投げなんてこともなかったでしょう。私を取るに足らぬ石ころと見下しているからこんなことになったのです。

 この時点で、別居からすでに半年以上が経過していました。調停も訴訟も、一度で終わるものではありません。第一回目の期日があり、第二回目は一ヶ月や二ヶ月先、三回目はまた二ヶ月先、といった具合に進行します。石田先生の最初の見立てでは、この案件なら半年で終わるということだったのですが、その期間が過ぎて、未だ本戦である離婚調停にも進めていなかったのです。

 離婚したい。一日でも、一分一秒でも早く離婚したい。長崎って名前がもう嫌だ早く小笠原に戻りたい。

 わずかに残っていた圭介への情は、あの侮辱のアプリデータを送られた日に根こそぎ消し飛んでいました。そうなるともはや嫌悪感を覚えるばかり。こんなこといつまで続くんだと、精神も参ってきます。

 その間も、優美はSNSで圭介とやり取りし、出張中に彼とデートしてはその写真をブログに載せていました。もちろん、同行者の存在は伏せていましたが。

 圭介が買い与えたと判明しているアクセサリーを身につけ、圭介が撮影したであろう写真を載せるその神経。ほらほらあんたの旦那ここにいるのよ、ってほくそ笑んでいたんでしょうね。ほんと性格悪いな。そして間抜けだな。

 見なきゃいいじゃん、っていうわけにもいかないんです。だって証拠を集めないと。それらをスクリーンショットで保存しながら、お前弁護士に金むしられてんぞ早く気づけ馬鹿と罵る日々。いっそ教えてやりたかったけれど、当事者同士の接触は厳禁です。また、所属しているモデル事務所や出演しているCMのメーカーにチクりたいのも山々でしたが、それは違法行為ですからできません。本当はやりたかったしネットにも晒したかったけど。そりゃもう心の底から。

 さて、優美サイドの即時抗告ですが、無事に棄却されました。

「先ほど裁判所から即時抗告を棄却する旨の決定書が送達されました。相手方の即時抗告は全く合理的な理由のない当然棄却されるべきものであるとの判断を行ったため、わざわざ当方に反論の機会の付与等を行うことなく直ちに棄却の決定を出してくれたようです。そのうえ裁判官が、誠意があるなら真実をすべて話しなさい、相手方を――長崎さんをこれ以上傷つけないよう言葉に気をつけるようにと注意したそうですよ」

 電話口にて、裁判官がそんなことを言うのは割と珍しいです、と石田先生。

「どんどん墓穴掘ってますね。裁判官の心証最悪じゃないですか」

「あちらの代理人は訴訟に勝つより、新山さんから搾り取ることのほうが大事みたいですからね。どうでもいいんじゃないですか、そこらへんは」

 ひどい話です。知らんけど。

 皆様、もし何らかのトラブルに見舞われて裁判沙汰になった時はくれぐれも弁護士選び、慎重に。

 しかし、これでようやく本戦の離婚調停に入れます。そして、ひとつ大きな変化がありました。

 優美がSNSの裏アカウントを消して証拠隠滅と逃亡を図ったのです。

 債務不存在確認訴訟に完敗したことで、こちらが何らかの証拠を握っていると察したのか。二人のやり取りはすべてスクリーンショットで保存しているので、消されたところで問題ありませんでしたけどね。

 私、何も卑怯なことしてませんよ。垂れ流されている情報をただ黙々と収集しただけ。

 ただそれだけ。


 さぁ、そんなわけで、ようやく、やっとこさ、離婚調停はじまりはじまり。

 この時点で、圭介も弁護士を雇っていました。しかしながらこの弁護士もあまりやる気がない様子。まぁ、気持ちはわかる。弁護する気も起きないくらいのクソ野郎ですし。

 圭介の弁護士は、圭介の言い分をほぼそのまま答弁書に書いて寄越しました。その内容は相も変わらず、私の態度が気にくわないだの性格が気にくわないだの言いたい放題の単なる悪口。

 自分は積極的な性格で社交的で明るく、妻は消極的な性格で内向的で根暗。その証拠に、せっかく旅行に誘ったのに行かないと言った。そんな奴とは一緒にいられない、我慢して耐えていた俺ってなんてかわいそう云々かんぬん。

 それをふむふむと一読し――にやり、と私は笑いました。

 キーボードの上を指が踊る。石田先生へ、答弁書の原文を送るために。

 私の反論はこうです。

「社交的な人が優れている、内向的な人が劣っているという長崎圭介の見解は偏見に基づく主観であり、客観性を著しく欠いています。彼の論を借りるのであれば、内向的な人は慎重で思慮深く、社交的な人は図々しく無遠慮と断じることも可能です。人は誰しも平等。性格に優劣などありません。この主張こそが、彼のモラルハラスメント、精神的DVを証明するものです。また、彼の言う私が内向的であったという出来事に該当するのは、彼がネットゲーム仲間と旅行に行く際、私を誘ったのに断ったことなどが挙げられるでしょう。しかしながら、彼のネットゲーム仲間と私はほぼ面識がなく、結婚式で顔を合わせた程度。そのうえ、車中泊で雑魚寝を強要されました。参加者全員が男性であるにも関わらずです。これを断ることは一般常識に照らし合わせて、本当に内向的で根暗なのか。不倫されても仕方ないほどの重大な過失であるのか。甚だ疑問です」

 ほんの短い期間でしたが、調停や訴訟において物的証拠の次に何が重要か、私は理解していました。

 それは作文力です。客観的に且つ、調停員や裁判官の心に訴える答弁書を書けるほうが圧倒的に有利。

 つまり圭介は、私に喧嘩を売った時点ですでに負けているのです。

 素人の僕ちゃんかわいそうポエムになんぞ負けるわけないだろ。お前らが売れてないって散々馬鹿にした私の技を食らえ。オーバーキルで叩き潰してやるわ。

 圭介が何を言おうと、彼の言葉を使って切り返す私の答弁に、調停員はあっさり味方についてくれました。当然です。

 しかし圭介はなかなかの粘りを見せます。私側が出した条件が慰謝料の他に、優美との関係解消があったために、これだけは絶対嫌だと言い張りました。私としてはもう、熨斗つけてくれてやるわこんな粗大ゴミって感じでしたが、調停員の手前、夫の裏切りに心痛める妻を演じ続けなければいけませんからね。

 それにしたって、せめて承諾したふりでもすりゃあいいものを。よほど現役モデルにしがみつきたかったようです。

 ですが残念なことに、優美はすでに心移りしているというのが私と石田先生の見解でした。というのも、優美がブログで披露する生活が、圭介と付き合っていた頃よりも派手になっていたから。

 旅行でハワイだのバリだの。さりげなくチラ見せする高級ブランド品。私への婚姻費用を支払い続け、困窮している圭介に出せる額ではないです。優美にしても、雑誌やカタログのギャラを調べたところアルバイト程度の収入しかないと判明しています。これはもう、別の金持ち男と付き合ってるなということで意見が一致していました。

「不倫こそ真実の愛なんて抜かす連中を大勢見てきましたけどね、いざ慰謝料を払うって段階になると揉め出したり裏切ったりってことがほとんどなんですよ」

 と、打ち合わせの際、石田先生がチベットスナギツネ顔で仰っていました。

 SNSの裏アカウントを消した時には、優美の心は離れていたのでしょう。それでもすがりつこうとする圭介のなんと哀れなことか。

 しかしこれにより、調停員の圭介に対する心証は地の底を穿ちました。ほぼ勝手に自滅したようなもんです。つまらん奴め。もっと殴らせろ。

 そんな不満を抱いて臨んだ最後の調停期日。ここで最後っ屁のごとく、奴はやらかしてくれました。

 これまではそれぞれの代理人と二名の調停員による話し合いで進んでいましたが、いざ決着がつく最後の調停では、当事者の出頭が求められます。

 この日のために私が用意したのは、小綺麗ながらも着古した、地味なグレーのワンピース。髪はひっつめ、化粧は薄いベースメイクと下がり気味に描いたアイブローのみ。チークとリップは塗らず、青ざめて憔悴した顔を作っていきました。それが功を奏したのかはわかりませんが、調停員の男女は終始、優しかったです。なのですが。

「ええと、相手方がですね、求められた額の慰謝料の支払いには同意したのですが、分割払いを求めているんですよ」

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