常夏の夜の夢 三 慰謝料は分月払いでと言われた話(2)
「長崎さん、長崎さん大丈夫ですか?」
異変を感じ取った石田先生の呼びかけに、私はようやく我に返りました。そして今読んだものを、なるべく簡潔に伝えました。冷静であろうと、努めました。
「すでに離婚済みだと説明されていたから何の非もない、と。その証拠というわけですね。しかしその、長崎さんのお仕事を侮辱している部分は、カットすればいいものをわざわざ付けてきたあたり挑発の意図であることは間違いないでしょう。……私も仕事ですから、不倫した側の弁護をすることはあります。ですが、金銭の支払いが最小限になるよう交渉はしても、まずは謝罪するよう勧めますよ。たとえ本当に、既婚者だと知らなかったとしても。それが道理というものですからね。私は正直、同業者として先方の代理人に腹が立ちます」
苦々しい石田先生の言葉に、あぁこの戦いは長引きそうだと予感しました。
「……ひとつだけ、良かった点があります」
血が滲むほど太腿に爪を立て、私は懸命に冷静さを保とうとしました。
そうでもしなければ正気ではいられなかったから。
「ずっと気になっていたんです。彼が周囲に対して、私がいなくなったことをどう説明しているのか。でも、これでわかりました。なんとなく予想もできてました。――私に不倫の濡れ衣を着せて、被害者面して生きていこうって魂胆だったわけですね」
圭介のSNSのフォロワーには、結婚式に参列した人たちもいて、圭介の妻=長崎晴子=笠原晴羅であることを知っています。何せ、彼が吹聴して回ったんですからね。
そんな友人たちの目に触れるSNSで、なぜこうも堂々と、明らかに私ではない女とイチャつけるのか。ずっと謎でした。普通はもっと忍ぶだろう、と。友人たちも温かく見守る姿勢なのはなぜなんだろう、と。
そしてもうひとつ。誤爆データの中で、デート中に圭介の上司と偶然出くわしたという会話がありました。その時、上司は圭介に、おめでとうと祝福したようなのです。
元々、私は彼の職場の人々には嫌われていました。小説家だという、ただそれだけの理由で。
でも、それにしたって妙です。たとえ私のことを嫌っていたとしても、妻ではない女とデートしている部下に街で偶然会って、真っ先に「おめでとう」なんて言葉が出るでしょうか。まずは二人の関係を勘ぐるものではないでしょうか。
その疑問の答えがこれです。妻に不倫をされ出て行かれたかわいそうな俺、を捏造していたのです。
私を彼に紹介した高校時代の友人とは大学や趣味が違うこともあり、いつしか疎遠になっていて、他に共通の友人はいません。仕事柄、家に籠もりがちだった私は、嫁いだ先で知り合いもいませんでしたから、まだ一緒に暮らしていた段階からすでにこの嘘を周りに言いふらしていたのでしょう。そしてその嘘に現実をすり合わせるため、何が何でも私を追い出さなければいけなかったというわけです。あの必死さ、なるほど合点がいきました。やはり私があのままあそこに居座っていたら、確実に殺されていたでしょう。
人は他人を貶める時、自分が指摘されたら一番嫌だと思うことを口走るといいます。
彼は自分の犯した罪をすべて私がやったことにして、私を地獄に蹴り落とし、何食わぬ顔で幸せになろうとした。
なんと卑怯で、さもしい男なのでしょう。
「そうですね。名誉毀損の重要な証拠になります。この点に関しては、その書類を送ってくれた先方に感謝しなければいけないですね。それに、アプリのデータを送ってくれたことでひとつ懸念が消えました。訴訟となったらあの誤送信データを証拠として出すことになるのですが、すべてこちらの捏造であると、しらを切られてしまう可能性もあったんです。あの膨大な会話がすべて作り話だなんて普通は荒唐無稽と一蹴されるでしょう。ですが長崎さんは職業柄、それを可能にする能力を持っていると判断されるかもしれない。調停員や裁判官次第でどう転ぶか、懸念材料ではあったんです。でも、おかげで何も心配なくなりました。トークアプリアカウントの存在を、あちらがわざわざ証拠として表に出してくれたんですから。――ひとまず、訴状をこちらに転送してください。直接持ってきていただくか、もしくは速達で」
徒歩圏内に郵便局があるため、私は速達を選びました。石田先生がいる法律事務所は大阪市北区にあり、私が身を寄せている実家は枚方市。バスと電車で小一時間とはいえ、その時はそこまで向かう気力もなかったのです。
書類を送り出した後、私は部屋で一人、小さな箱を抱えて椅子に座っていました。
何年も前に百円ショップで買ったプラスチック製の箱。デビューして以降、編集部を通して届けられた読者からの手紙をすべて収めている箱です。
不倫の濡れ衣を着せられた。それは私にとって何より恐ろしいことでした。
圭介か優美か、あるいは圭介の知人のうち、私が笠原晴羅だと知る誰かがもしネットにそのような話を流したらどうなるでしょう。名誉毀損で訴えたところで、一度流布された噂を完全に消すことはできません。私の作品たちが、あんな下劣な男の嘘で汚名を被ってしまうのです。不倫女の書いた物語だと思われてしまうのです。そう考えただけで耐えがたいほど悔しくてたまらなかった。もう何も失うものなんてないように思えた私の、たったひとつの守るべきもの。それが作品だったのですから。
あいつは、あの男は、私の人生をめちゃくちゃにしただけでなく作品を――私の魂さえも汚そうとした。
プラスチックの箱にぼたぼたと音を立てて涙が落ちました。唇を噛みしめ、獣じみた唸り声を上げて目をかっと見開いたまま、拭いもせずに涙を流し続けました。
確かに彼の言ったように、私が書いていたのはライトノベルと呼ばれる若年層向けの小説です。
だから箱の中の手紙の主はほとんどが十代の少年少女。中には小学生もいました。
SNSが発達した時代で、手書きの手紙を送ってくれる読者は多くありません。そんな中で、書いて送ろうと思ってくれた子たち。手紙なんて、友達にすら送ったことがない子だっていたかもしれない。勇気を振り絞って書いて、投函する時には何度も躊躇ったかもしれない。
無地や水玉模様や花柄など、思い思いの便箋。縦書き横書き。カラーペンを駆使したカラフルな文字。何度も書き直した跡が見て取れる鉛筆書き。一人一人ばらばらの個性で、それでも伝えようとしてくれる思いは、皆同じ。
楽しかった。面白かった。キャラクターの誰々が好き。この台詞が好き。好き。好きです。応援してます。
悩み事を抱えていて、でも勇気がもらえたという子。いつか笠原先生みたいな小説が書きたいですという子。
そっと秘密を耳打ちするみたいに、思いを伝えてくれた子たち。
どうしてこの子たちが侮辱されなきゃいけない。ここに綴られた思いのどこが馬鹿だというのか。
私自身を馬鹿だというならその通り。あんな男と結婚までしてしまった救いようのない大馬鹿者なんだから。
作品だって、読んだうえで面白くないというならいいのです。良い悪い好き嫌いを断じるのは読者だから。たとえそれが圭介や優美であっても、読んだなら読者であることは変わらないから。
でも圭介は私の作品を読んだことなんてありません。なんか気恥ずかしいから、なんて言っていたけれど本音は興味がなかっただけでしょう。彼が興味を持っていたのは、私の作品ではなく、それによってもたらされる金銭だけだったのです。
優美に至っては、ライトノベルそのものを偏見をもって見下していました。
本は著者一人で作るものではありません。編集者や、表紙や挿絵を手掛けるイラストレーターをはじめ、たくさんの人の力を借りてようやく世に出るのです。モデルなら、雑誌が、本が、どうやって出来るのか、少しくらいはわかっていたはず。
だというのに優美は、そして圭介は、私の作品に関わった人たちもまとめて嘲笑い、読者に唾を吐いて侮辱した。
許さない。絶対に許したくない。何より自分自身が許せない。こんな男にまだ情けを掛けようとしていた大馬鹿女。
体の奥で膨れて弾けそうな何か。私が知る表現として記すなら、それは『殺意』の他に考えられませんでした。




