常夏の夜の夢 三 慰謝料は分割払いでと言われた話(1)
モーレア島、三日目の夜です。
今日は疲れたから、早めに夕食を摂って薬を飲んで、早々に寝ました。今夜の話は少し長くなりそうだから丁度良いでしょう。
圭介が既婚者と知ってもなお、優美は付き合いを続けるつもりだった、という話でしたね。
SNSを見られていることに気づいていない優美陣営は強気でした。『既婚者だと知らなかった』が通ると思っていたのでしょうし、石田先生曰く、担当弁護士にも交際続行やSNSのことは隠しているのではないかとのことでした。担当弁護士が強硬姿勢なのも、もし裁判になっても十中八九勝てると踏んでいるからでしょう、と。
「当方としては、『支払いが無いのであれば訴訟提起して争う』という姿勢を示すと同時に、金額によっては和解の道があることも匂わすことで新山さん本人を揺さぶりたいと思います。裁判になって長引けばそのぶん費用も嵩みますし、何より事務所にばれたり芸能記者に嗅ぎつけられる可能性だってあります。あちらとしては、それは絶対に避けたいでしょう。洗剤のCM、でしたっけ? クリーンなイメージが求められますし、それでCM打ち切りとなって違約金が発生なんてことになれば慰謝料どころの話ではなくなりますからね。少し考えれば和解金で解決しておいたほうが良いとわかるはずです。……彼女に、そこまで考え至る頭があれば、ですが」
不貞行為――不倫した二人による共同不法行為において、調停で勝って支払い命令が出たとしてもせいぜい三百万程度なのだそうです。そして、それを二人が折半する。圭介が全額を支払って、優美は無傷で逃げおおせることもできるわけです。だから石田先生としては、是が非でも和解金を支払わせたいとのことでした。
多く見積もって約三百万。
私のような者にとっては大金です。圭介にとってもそうであるはず。
払えるのだろうか。そんな思いが胸を過ぎりをました。
だいぶ優美に注ぎ込んでおり、婚姻費用の支払いも苦しそう。ぽんと払える余裕はないはずです。だとしたら、どこから出す? 借りる? 闇金とかで? 借りたとして返せるの? 黒服の怖いお兄さんたちに追い回されるの?
そこまで想像して、私は、かわいそうだと思いました。
思ってしまったんです。馬鹿だから。あんな奴もうどうでもいいと言っていながら。
だから石田先生に「借りたお金で慰謝料を払われても気が晴れない。彼が働いたお金に限定することはできますか」なんて、本心を隠して訊いてしまいました。
答えはもちろん否です。どこから捻出したお金かなんて、証明できませんものね。
そんな折です。神奈川地裁から、A4サイズの封書が私のもとへ届いたのは。
開封してみたけれど、混乱して目が滑り、内容が頭に入ってこない。唯一読み取れたのは『被告 長崎晴子』という文字だけ。
被告? 私が? なんで? 被害者なのに?
動揺で激しい動悸に襲われ、震える手で石田先生に電話をしました。
「あ、あの、かなぐぁ、神奈川地裁から書類が来まして、あの、なんか私、被告って」
噛みまくりだし要領を得ないし、酷い有様でした。石田先生も絶句です。でも、それは私のテンパりぶりにではありませんでした。
「……まさかと思いますが。その訴状に、『サイムフソンザイカクニンソショウ』という記載はありますか?」
電話口での問いに、サイムサイムとつぶやきながら、指で文字をなぞってそれらしきものを探しました。
「あ! あった、ありました! 債務不存在確認訴訟!」
また初めて聞くやつです。なんだこれ。
深く長く、石田先生は溜め息をつきました。信じられない、と言いたげに。
「先方の代理人と電話で交渉した際、債務不存在確認訴訟をするようなことを言ってはいましたが、ハッタリだと思っていましたよ。まさか本当にするとは……。債務不存在確認訴訟というのは、金銭の支払いが生じる責任が存在しないことの確認を求める訴訟です。仮に、交通事故があったとしましょう。赤信号で停まっていたA車にB車が追突して、B車側が『そんな所にA車が停まっていたからぶつかった』と、慰謝料を求めたとします。A車側は赤信号で停まっていたわけですから事故において何の責任もありませんよね。それを確認するためA車側が起こすのが債務不存在確認訴訟です。長崎さんに何らかの慰謝料を求めているわけではないのでそこはご安心ください。ただ、不倫の案件でまるで先制パンチみたいにこれをやってくるなんて、経験したことも聞いたことないですよ。こちらはまだ和解を求めている段階で、訴訟になってから反訴すればいいだけのことなのに。これをやったところで新山さんには何の利益もないんですよ。自分から事を大きくして、新山さんも代理人も、何を考えているのか……」
プロから見ても斜め上の行動だそうです。
「それと、長崎さん。その訴状は神奈川地裁から来ているんですね?」
「え、ええ、そうです」
「ということは、神奈川地裁に訴えを起こしたわけですね。なんの根拠があってそんな……」
石田先生の話を聞きながら、私は封筒から出てきた書類をぺらぺら捲りました。入っていたのは訴状だけではなかったのです。そして、それが目に留まりました。
「これは……」
「どうしました?」
「アプリ……トークアプリの履歴を印刷したものが入ってました……。日付は、私の手元にあるデータより少し後のものです。っていうか、私を追い出した四日後です。横浜にあるホテルへ泊まる相談をしている会話ですね。――あ、もう一枚ある。ホテルのホームページを印刷したものみたいです」
「なるほど、だから不法行為地は神奈川だと主張しているわけですね。訴訟を起こすから神奈川まで出頭して来い、と。嫌がらせ以外の何ものでもないですね。当事者である三名のうち二名の住所地が大阪で、新山さんが関西出張のたびに会っていたのですから不法行為地は大阪です。これがまかり通るなら、東京に住む二人が一度だけ沖縄に不倫旅行へ行って、その時の証拠を持ち出し沖縄地裁に訴えるなんてナンセンスなこともあり得てしまうわけですから。通りませんよ、そんなもの」
憤慨したように説明する石田先生の話は、半分ほど私の耳を素通りしていきました。
トークアプリの会話は、泊まるホテルを決める相談だけで終わっていなかったから。
圭介は私を追い出したことによって、より強く優美との結婚を意識し、手が届くと考えていたのでしょう。しかしそうなると、未婚という嘘は戸籍でばれる。よって彼は先手を打つため、またひとつ嘘を重ねていました。――既婚者ではあったが、すでに別れてバツイチである、と。
『元奥さんとはなんで別れたの?』
『あー……。思い出したくないんだ。あいつが不倫してて、問い詰めようとしたら逆ギレしてすげぇ罵られて、止めたんだけど出て行っちゃって』
『何それひどい! 最低じゃん!』
『何日もご飯食べられなくて、食べても吐いて、気がつくと泣いてたって感じ。でも今はユミがいるから幸せだよ』
『それは、えへへ……。てかさ、私こう見えてけっこう読書家なんだけど、元奥さんの本って私も読んだことあるかな? 作家なんでしょ?』
『ないない。作家なんていってもラノベだし』
『ラノベってオタクが読むやつ? 私あれ嫌い。子供っぽいし馬鹿っぽいしなんかキモいし。あんなの本って言わないよ』
『まあなー。たしかにあいつの本読んでんのなんて、みんな馬鹿ばっかだよw 全然売れてなかったしw』
『ウケるw ああいうの書いてよく恥ずかしくないよねぇ? しかも売れてないとかw 馬鹿にも相手にしてもらえてないんじゃんw』
視界が揺れました。文字を追う目が、痙攣で震えました。
足先から氷水に浸かったように、急激に体が冷えていく。電話口から聞こえる石田先生の声が遠くなる。
息すらもできない。




