モーレア島 三日目 赤い服を着る女(2)
本当はもっとかっこいいのが良かった。好きな色が良かった。赤いのが欲しかった。
でも、あいつは言ったのだ。
「俺、赤い服着る女って苦手なんだよな。気が強そうっていうか、わがままそう」
付き合って、何度目かのデートでお気に入りの赤いパーカーを着ていった私に、彼は顔をしかめてそう言い放った。そしてショッピングモールに連れて行かれ、『ミラクルアリス』の店舗を見かけた彼は「こういうの着てよ」と言ったのだ。
私はそれに従った。嫌われたくなかった。私はかわいいとは言いがたいから、彼氏ができるチャンスなんてこれが最初で最後だと怯えていた。
それ以来、私の着る物はすべて彼のジャッジが入った。許されたのはモノトーンとパステルカラーのみで、ビビッドな原色系はすべて禁止。赤なんてもってのほか。お気に入りのパーカーは捨ててしまった。短かった髪を伸ばし始めたのもその頃だ。ショートヘアって男みたい、女の子はロング以外あり得ないでしょと彼が言ったから。
この水着だってそう。プールに行こうと彼が言い出し、一緒に買い物に行って彼が選んだ。白くてフリフリでガーリーで、うげっと思ったけれど断れずそれを買った。本当はその隣にあった、赤いスポーティなのが良かったのに。
思えば、その頃すでに私は洗脳されきっていたのだ。
空を仰ぎ、ふーっと長く息を吐く。嫌なことを思い出してしまった。水着なんて持ってるやつでいいやとケチらないで新しいのを買ってくれば良かったなぁと後悔したけれど今さらだし。これを着るのも今日で最後だから、もういいや。
気分を変えるため、私はカメラを弄り始めた。モツピクニックで撮った写真を確認しようと思ったのだ。手ぶれしているものも多いが、概ね良く撮れている。中でも、エイとぶつかった時のものが傑作だった。無意識にシャッターを長押ししてしまっていたらしく、連写でまるでスローモーションみたいになっていた。
「良いの撮れましたか?」
背後から掛かった声に振り向くと、そこには瑠菜がいた。雪村氏はといえば長椅子に座って欧米人の男性と英語で何やら談笑中。会話に入れない瑠菜は話し相手を求めて私に近寄ってきたというわけだ。
私は画像データを数コマ戻し、デジカメのディスプレイを瑠菜に向けた。そしてエイが迫り来る連続写真を彼女にも見せる。
ふふふっと可笑しそうに笑う瑠菜。けれどその直後、はっと息を呑んで目を見開いた。
なんだろうと思ってディズプレイを確認してみると、エイに襲撃された瑠菜の画像が表示されていた。顔をくしゃくしゃにして笑っている彼女を、雪村氏が同じく笑顔で後ろから支えている。
撮った覚えはない。エイにわちゃわちゃにされ、意図せずシャッターボタンを押してしまったようだ。
「私、すごい顔してますね」
苦笑いのような、恥ずかしそうな顔。そりゃ、こんな写真見せられたらそうなる。
「撮ったつもりはなかったんですけど。シャッター押しちゃったみたいですね。消しますよ」
デジカメを操作し、消去ボタンを押し――かけたが、瑠菜がそれを止めた。
「待ってください。いいんです、そのままで」
そう言った彼女は、なぜだか泣きそうな顔をしていた。
私はデジカメの操作画面をそっと閉じる。別に彼女に何の義理もないけれど、なぜかそうしなければいけない気がした。
「あの、良かったら……」
この写真、後日お送りしましょうか。
口走りそうになった言葉を、私は慌てて飲み込んだ。
だって私がそこまでする理由なんてないし。彼女には不倫の疑いもあるし。
それに何より、できないし。
「いえ、なんでもないです。そろそろ帰る時間ですね」
私の言葉の続きを待っている瑠菜に、そう誤魔化した。
実際、もう一時間が過ぎていた。ビーチタオルを敷いて寝ていた人も起きて、うんと伸びをしている。島を散策していた人たちも続々と戻ってきた。
なのだが。
浜辺にいる船員が一人だけなのは何故なんだい。
「船長さん、どこ行っちゃったんでしょう」
不安そうにきょろきょろする瑠菜に、私は海のほうを指差して答えた。
「あれじゃないですかね」
浜辺から約一〇〇メートル先に人影がふたつあった。遠浅だから、あの辺りも足がつくようだ。
「何をしているんでしょう」
「何をしているんでしょうねぇ……」
私に訊かれてもわからん。ただ、彼らの動きからして遊んでるなというのはわかる。
気づいたのは私だけではなかった。観光客たちは時間になっても戻ってこない船長と船員に、次第に苛つき始めている。あ、たった今リース(仮)が唯一残った船員に文句言いに行った。どうやら彼女はこれから飛行機で移動する予定があるらしい。そりゃ大変だ……。
そんな事態であるのに、残った船員は薄笑いを浮かべるだけ。僕に言われてもねぇ、あと二十分待ってよ、みたいな感じだ。ひでぇ。
怒っても意味がないと諦めたらしいリース(仮)は海に向かって、帰る時間じゃないのー!? 的なことを叫ぶと一人でさっさとボートに戻ってしまった。ご愁傷様です。
そして二十分が経ちました。……まだ戻ってきません。
だんだん時間という概念がわからなくなってきた。これはあれか。無人島に漂着した遭難者気分を味わうレジャーか。
もはや誰も一言も発しない。ただただ、待つのみ。空気が重苦しい……!
さらに十五分ほど経ってようやく変化が起きた。銛の穂先に捕らえた魚を掲げ、捕ったどー! と言わんばかりの船長と船員が笑顔で戻ってきたのだ。漁してたんかい!
戻ってくるなり、さぁさぁ帰るよ早く乗ってと観光客をせかす船長。なんかもう、いいや、うん……。
ぐったりした様子でボートへと戻る一同とは対照的に、ほくほく顔の船長は先に乗っていたリース(仮)に気づいて、疲れちゃったの? というような言葉を掛けた。空気読めよ。
リース(仮)はぷりぷり怒りながら、私この後ボラボラ島に行くのよ! と言ったようだが船長は、へぇそうなんだー、と腹立つほどの笑顔で返す始末。空気読めよ……。
これにはもう、リース(仮)も肩をすくめて乾いた笑いを漏らすしかないようだった。本当にご愁傷様……。
タヒチアンタイムを存分に味わった観光客を乗せ、ボートはようやく出航する。帰りは、スタート地点の乗り場まで直行することなくそれぞれのホテル近くの浜辺へ寄ってそこで降ろされることになっていた。一番最初に降ろされたのは私と瑠菜と雪村氏だ。
やけくそ気味にバイバイと手を振る乗客たちに手を振り返し、私たちはボートが見えなくなるまで見送った。リース(仮)、飛行機に間に合うといいな。
「いやぁ、疲れましたね」
苦笑いで言う雪村氏に、ですねー、と脱力した返事する。電車が三分遅れただけで謝罪の車内アナウンスが流れる、そんな国で育った身にはカルチャーショックが過ぎた。しかしこのタヒチアンタイムに慣れて癖になると、きっとマサヒロさんや、あるいはゴーギャンのようにこの国に魅せられるのだろう。
雪村氏、瑠菜とホテルに戻って、私のコテージの前で別れた。
部屋に入るとすぐ風呂場へ行き、水着を脱いで軽く洗って干す。旅行用のミニハンガーピンチは本当に便利だ。百円ショップ万歳。
化粧を直し、サーモンピンクのワンピースを着てテラスへ出ると、外はまだ充分に明るい。でも、もう泳がないし。何もすることがないから、スーツケースから引っ張り出した音楽プレイヤーの電源を入れてポータブルスピーカーに繋ぎ、ランダム再生を選択する。
すっとぼけた私の音楽プレイヤーは広瀬香美の『ロマンスの神様』を真っ先に再生した。いやいやめっちゃ雪山感あるな場違い甚だしいなとプレイヤーを操作して海とか夏とか感じる曲を探す。
だが、操作をするその指に違和感を覚えた。もしやと思って自分の手を見ると、案の定、指が小刻みに震え始める。
やはり少し疲れたか。症状が出た。
曲探しを諦め、テラスのビーチベッドに寝転がった。そのままサビに合わせてボーイミーツガールと口ずさむとなんだか楽しくなって、最後まで歌い通す。
すると今度はレミオロメンの『粉雪』だ。どんだけ冬を推してくるの私のプレイヤー。でも気分が乗ってきたからこれも歌う。
こうなってくると、もはやヒトカラ状態だ。音量は小さめだし口ずさむ程度だからお隣にも聞こえないだろうし、このまま続けることにした。こんな開放感溢れるカラオケ、なかなか味わえない。
三曲目でようやく冬の歌を脱し、篠塚満由美の『Sea loves you』が流れた。おお、おお、これだよこれ。海の歌。子供の頃、好きだった『七つの海のティコ』というアニメのオープニングテーマ。私にとって海といえばこれだ。エンディングテーマの『Twinkle Talk』もすごく良いんだ。
世界一美しいと謳われるタヒチの海でこの曲を歌う。最高以外のなにものでもない。
それから長々と、ランダムに再生される曲をお題の如く歌い上げた。時々出てくる洋楽は鼻歌で済ませた。こんなの入れてたっけな、と久々に聴く曲もあれば普段からヘビロテしていた曲もある。好きなバンドの曲が連続で来た時はテンションが上がった。そういえばこのバンド、来週に新曲出るんだっけな――頭を過ぎった瞬間、停止ボタンを押した。
わざと大きく伸びをして、ビーチベッドから降りる。あぁ、日が暮れる、もうそんな時間か。夕日が綺麗だ。映画『青い珊瑚礁』で、太陽が海に沈む時はジュッと音がするんだよって台詞があったなと思い出す。テラスの手摺りに頬杖をつき、その瞬間を待った。
オレンジ色に熟れた太陽が水平線に接する。でも、どんなに耳を澄ませても聞こえるのは穏やかな波の音ばかり。
そりゃそうだよなぁと薄く笑いながら、沈みゆく太陽をずっと見ていた。夕日から伸びる光が、海の上をまるでレッドカーペットのように、私に向かってまっすぐ伸びている。
もしかするとこの上を渡れるじゃないかとすら思える。
けれど、太陽が水平線の向こうへじわじわ隠れていくごとに、光のカーペットは私の足元を離れていって、やがて消えた。




