モーレア島 三日目 赤い服を着る女(1)
おはようございます。
相変わらず寝覚めが悪いけれど、今日も爽やかにまいりましょう。
本日の朝食はレストランにて。ビュッフェ形式で、パンにポテトにソーセージ、あとはフルーツ各種。昨日の反省を踏まえて、腹八分目にとどめる。
そして一旦、部屋に戻ると、風呂場に干しておいた水着に着替えた。
とはいえ、泳ぐわけではない。もう泳がない。そう決めた。
でも、今日はどうしても水着を着なければいけないのだ。
水着の上からパーカーを着て、シュノーケルを持ち、カメラを首から提げてロビーに向かう。すると、昨日に引き続き先客はすでにいた。
「小笠原さん、おはようございます」
「おはようございますぅ」
なんとなくそんな気はしてた。
私に気づいて嬉しそうに挨拶してきた瑠菜に、私は悟りの微笑みで返事をして彼女と雪村氏の横に腰掛けた。
瑠菜はタンキニ水着という、一見すると普通の洋服にも見える控え目な水着を着てロングカーディガンを羽織っている。そして雪村氏は膝丈の水着にラッシュガードという出で立ち。
「小笠原さんもモツピクニックですか?」
雪村氏の問いに私は「えぇ、まぁ」と答えた。お互いの格好を見れば察しが付く。
モツというのはタヒチの言葉で『小島』という意味だ。起伏のない平坦な小島をそう呼ぶらしい。人が住むほどの規模ではない、いわゆる無人島なわけだが、船でそこまで行ってビーチ遊びとランチを楽しむのがモツピクニックだ。これ全部ガイドブックの受け売り。
そんなわけだから水着必須なのである。足元も全員、アクアシューズだ。ビーチサンダルより歩きやすいし、何より貝殻や珊瑚から足を守ってくれる。
しばらくそこで待っていると、迎えが来た。四十代くらいの白人男性で、私たちの名前を確認すると英語でついてくるように告げた。向かった先にはマイクロバスがあり、先客もいる。私たち以外は全員が欧米人だった。他のホテルから先に乗り込んできたのだろう。
マイクロバスに乗って十分前後。船着き場には観光用のモーターボートが待っていて、お迎えの白人男性はここでお別れ。島内のホテルを巡っては、宿泊客たちをアクティビティの集合場所まで連れて行く。それが彼の仕事なのだろう。マイクロバスで、次の現場まで去って行った。
船の乗組員は船長を含め三人。全員タヒチ人だ。モーターボートは屋根付きだが風防のないもので、ベンチ型の座席が二列並んで備え付けられている。三十人ほどで満員になりそうな席数であるが、乗客の数はおよそ半数といったところだ。
ここでも客の名前を点呼し、予約名簿の全員が揃っていることを確認すると、さっそく出航。
ちなみにライフジャケットもシートベルトもなしである。あるのは船の縁を囲む、ステンレス製の手摺りのみ。船が揺れるたびにちょっとしたスリルを味わえるのでなかなか面白い。私と同じベンチに座った雪村氏と瑠菜も、海の風を受けにこやかだ。
モーターボートはモーレア島の環礁内を進む。目的の小島にはまっすぐ向かわず、海から見るモーレア島を船長が英語で解説していく。ほら、あそこに見える大きな岩はビッグノーズって呼んでるんだよ。大体こんな感じ。細かいニュアンスはわからないけど、ざっくりとした意味がわかる程度なら聞き取れる。あと、雪村氏が瑠菜に通訳しているのが私の耳にも入ってくる。ちょっとラッキー。
ボートがさらに進むと、見覚えのある景色が見えてきた。というか、私が泊まっているコテージの前を横切っていったのだ。同じく気づいたらしい瑠菜と雪村氏も、おや、という顔をする。
するとおもむろに、船長はホテルのほうへ指を向けた。
「You can watch dolphins in this hotel」
ここのホテルではイルカが見られるんだ。たぶんそのようなことを言って、今度は私――私たち三人に目を向けると、にっと笑った。
「You eat them, don't you?」
今まで瑠菜に通訳をしていた雪村氏が、苦笑いをして黙った。
でも私にはわかった。だから言った。
「ノー」
船長は悪気ない調子だったから、きっとこれがウケる鉄板ネタだったに違いない。今までこの言葉を向けられた日本人客の中で、意味がわかった者たちはきっと雪村氏と同じような反応でやり過ごしたのだと思う。あるいは、誇りを持って肯定した者もいるかもしれない。
微笑みつつ、ゆったり首を振って否定した私に船長はきょとんとした。私がノーと言ったことにか、日本人がノーと言ったことにかはわからない。意外なものを見るような目だったが、気を悪くした様子もなく、あぁそう、というような反応をして再びボートの操縦に戻る。
日本には鯨やイルカを食べる文化がある。でも私はどちらも食べたことがない。
別にこれといって主義主張があるわけではない。単純に興味がないし、そもそもイルカの肉なんて売っているところを見たことがない。少なくとも大阪のスーパーでは一度も。
鯨の肉は何度か鮮魚売り場に並んでいるのを見たことがあるものの、買ってみようという気にはなれなかった。だって高いし。噂じゃ期待するほど美味しくないっていうし口に合うかわからない高級食材買って失敗したくないし。
もし身近に食べるという人がいても、あぁそう以外に感想は出ないし。
でも私は食べたことがない。だから事実として「ノー」と答えた。ただそれだけ。
三人の中で唯一わかっていないらしい瑠菜は頭の上にハテナを浮かべながら、雪村氏と私の顔をきょろきょろ見比べていた。
他の乗客たちは特に気にした様子もなく、ボートは進んでいく。しばらくするとゆっくりスピードが落ち、環礁内とはいえ海のど真ん中で停止した。さぁ着いたぞ、みたいなことを船長が言うと、乗客たちは立ち上がり、梯子を使って海に入っていく。私もパーカーを脱いでそれに続いた。
モツピクニックのメインともいえる、エイとのふれあいタイムである。このアクティビティを申し込んだ時点で知っていたから、カメラを防水カバーに入れて持ってきたのだ。
海に降りると、すんなり足がついた。水の高さは私の胸元あたり。これなら泳ぐ必要もなさそうだ。
背後で、わぁっと歓声が上がった。それと同時に、ぱしゃぱしゃっと水を叩く音。海に入った観光客の間を、丸い影が泳ぎ回っていた。
エイだ。昨日、コテージの傍で見たのとは違う、トープ色のアカエイがわらわら集まってきている。平べったい円盤型で、大きさはまちまち。一番大きいのは、小柄な女性くらいなら上に乗って寝転がれそうなほど。ほぼラグマット。
エイたちに向かって、船員が何かを投げていた。魚のアラだ。ああして餌付けして慣れているから、ボートが来ただけで寄ってきたのだろう。
人間は餌をくれるものと覚えているためか、エイたちは観光客めがけて突進してくる。それは決して攻撃的な行動ではなく、どちらかといえばドッグランで余所の飼い主にまで愛想を振りまく犬みたいだった。愛嬌があってめちゃくちゃかわいい。
その姿を納めんべく私はカメラを構えた。だが、揺れる水面の下にいるエイを上手く捉えることができない。
ならば、とシュノーケルを装着し、頭まで水に浸かってカメラをエイに向けた。防水カバー様々である。
すぐ近くにエイがいた。体の縁をひらひらさせて泳ぐその姿に何度もシャッターを切る。すると、目が合った、ような気がした。水中でくるりと方向転換したエイはどんどんぐんぐん私に近づいきて――
ぶんにゅっ。
と、音が聞こえそうな感触を伴って衝突した。
「ぶへぁっ!」
後ろにはじき飛ばされた私は慌てて立ち上がってシュノーケルを外した。ひっくり返った拍子にシュノーケルに水が入ったのだ。泳がなくても結局溺れてるな私……。
「小笠原さん、大丈夫ですか!?」
後ろから呼ばれ、振り返るとすぐそこに瑠菜がいた。雪村氏も一緒だ。
「げほっ、平気です、ごほっ」
平気じゃない返事をする私に、ぶにゅぶにゅとエイたちが追撃を食らわす。そばにいた瑠菜にも群がり、ひゃああーと叫びながらも彼女は楽しそうに笑った。
それにしても、エイって柔らかい。柔らかすぎてもはやゼリーの感触。背中の中心あたりは少しざらざらして鮫肌っぽいけど、もしかしてこれ全身コラーゲンなのでは。そういえばエイって尻尾に毒針があるらしいけどこの柔らかさの前ではそんなのどうでもいいし、こうしてふれあえるということはなんかいろいろ、なんやかんや、大丈夫なんだろう。いやぁ、エイかわいいなぁ。
咳き込みが治まった私はシュノーケルを再び装着し、リトライ。今度は上手く距離を取りつつ、エイの写真を撮ることができた。
その後もしばらくエイの姿を追い、海中でカメラを構え続ける。すると、観光客とエイがはしゃいでいる輪を遠巻きにするように、大きめの魚が泳いでいるのが見えた。
サメだ。一瞬どきりとしたが、慌てない。あれはブラックチップシャークという大人しいサメで、こちらから下手に手出ししない限り攻撃してくることはまずないらしい。さっき船長がそんなことを言っていた。
体長は一メートル前後。群れで泳いでいるようだ。時々ふらっと人間の傍まで近寄ってきては、手が届く範囲に入る寸前、くるっと引き返していく。
エイの餌である魚のアラの、おこぼれが欲しいのだろう。大人しいというより臆病なその姿に、エイとは違った愛おしさを感じる。
やがて、船長の号令が掛かった。ふれあいタイム終了だ。皆、名残惜しそうにボートに戻っていく。道中どことなく気怠げだった欧米人たちも子供のような笑顔になっていた。エイのセラピー効果恐るべし。
すっかり温まった空気を伴い、ボートはようやくモツ――小島に着いた。
中州のような砂の小島に、椰子の木がちょろちょろと生えている。係留する桟橋もないので、砂浜ぎりぎりまでボートを寄せ、乗客を降ろしていく。
すると、意外な出迎えがあった。猫だ。成猫はもちろん子猫まで、十匹前後の猫がわらわらと集まってきた。そして鶏もいる。放し飼いというより、どちらも野良っぽい。こんな小さな島なのに。
浜辺には屋根付きのテーブルと長椅子があった。すべて木製で屋根は椰子の葉葺き。船長と船員がクーラーボックスや保温容器などをボートから運び出して、テーブルの傍で設営を始める。昼食のケータリングだ。紙皿が配られ、各々好きなものを取って食べる。ここでもポワソンクリュがあって、私は自分の皿にいそいそと盛りつけた。
猫と鶏を眺めながら、私は黙々と食事に集中した。瑠菜と雪村氏とは離れた席になったので、周りは全員欧米人。英語飛び交う空間で圧倒的ぼっちである。ところが――
「Excuse me.Are you Japanese?」
なぜか突然水を向けられ、油断しきっていた私は危うくタンドリーチキンを喉に詰まらせそうになった。
何だ誰だと慌てて顔を上げると、向かいに座った金髪美女がにこにこ笑っていた。欧米人コンプレックスとか抜きで本当に美人だ。『キューティー・ブロンド』のリース・ウィザースプーンに似ている。
私は手で口元を隠してもぐもぐしながら何度も頷いた。リース(仮)はことさら嬉しそうに微笑む。
「I'll go to Japan on a next vacation.When does cherry blossoms bloom?」
ちょっと待ってちょっと待って。耳が追いつかない。
でもジャパンとチェリーブロッサムはわかったぞ。たぶん、日本に行きたいんだけど桜っていつ咲くの的なことだと思う。たぶん。メイビー。
「んー、エイプリル」
炸裂するカタカナ英語。そして単語でしか答えられない。
「How long does it bloom?」
ええっと、なんだっけ。Howって確か、どれくらいって訊くやつだっけ。どれくらい長く? ってことは……。
「わ、ワンウィーク」
合ってんの? 文法これで合ってんの? と思いつつ恐る恐る答える。するとリース(仮)は青い目を大きく見開いた。
「One week!? It's short……」
驚愕し、そして何やら思案を始めてしまった。彼女が考えていた日本旅行プランに影が差してしまったようだ。
ぱっと咲いてぱっと散る桜。冬から春にかけての気温差によって開花日が決まるため、毎年きっかり同じじゃない。全国各地で催される桜祭りでも、予定より早く咲いたために当日には肝心の桜がすでに散っているなんてことがよくある。ただ、日本は縦に長いから桜前線に合わせて北上していけば四月ならどこかしらで見られるんじゃないだろうか。
などと頭の中で思いつつそれを英語に変換して口から出す技術を持たないため黙っているしかなかった。
どうしたもんかなぁと私まで考え込みはじめてしまったが、それは唐突に終わりを告げた。私の膝に飛び乗ってきた、一匹の子猫によって。
何だどうした急にと思ったのは一瞬。すぐに子猫の目的がわかった。私が持っている食べかけのタンドリーチキンだ。羽織っているパイル地のパーカーはよほど登りやすいらしく、子猫は私の腕をひょいひょいとクライミングしていく。そして猫パンチを一発。チキンは弧を描いて飛んでいく。
だが、それが子猫の口に入ることはなかった。砂の上に落ちたチキンに鶏たちが群がり、コケコケ言い合いながらつつき回して走り去っていったのだ。
「えぇぇぇー……」
わずか数秒の出来事に、君たちそれは共食いじゃないのかと呆れるしかない。そして狩りに失敗した子猫は、もはや私には見向きもせず腕から飛び降りて去って行った。
穏やかなランチタイムに起こった一騒動に、目の前のリース(仮)は「Oh!」と小さく叫んで笑った。それから彼女は隣の同行者と会話を始め、私のささやかな英会話は終了。
まぁ、桜の開花時期なんてネットで調べればちょちょいのちょいな時代だし、季節さえ間違わなければ見られるだろう。
食事が終わると船長から、一時間後に船を出すからそれまでは自由に過ごしていいよ的な説明があった。
小さな島を散策する者あり。ビーチタオルを敷いて昼寝する者あり。そんな中、私はカメラを持って海に入った。
波打ち際の近くまで珊瑚の塊がある。そこに出入りする魚と撮ろうと思ったのだ。テラスの近くの珊瑚は、私の潜水能力では近づけない程度の深いところにあるけれど、ここでなら接写もできる。
シュノーケルとゴーグルをつけて海の中を覗いてみると、思った通り綺麗な青色の小魚がいた。形の良い珊瑚の隙間をすいすい泳ぎ回る様子は木の上で遊ぶ青い鳥みたいだ。
心ゆくまで写真を撮って、陸に戻る。ずっと水に浸かっていたから、いくら南国といえどさすがに寒くなってきた。暖かい日差しのなんと有り難いことか。
砂浜に座って日光浴をしながら、私は浜辺で遊ぶ観光客の姿をぼんやり眺めた。そして己の貧相な体と比べ、へっと卑屈な笑いを漏らす。
恋人か夫らしき男性と並んで写真を撮っている、日焼けした肌が綺麗な白人女性。デザインはシンプルながら、ぱっと目を引く赤い水着がよく似合っていた。いいな、と声にせずつぶやく。
私、なんでフリルごてごての白い水着なんて買ったんだっけ。あの深夜番組で芸人たちに酷評されたこんな水着を。
いや、なんで、なんて考える必要はなかった。これを選んだのは私じゃない。――あいつだ。




