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99話

「こう見えて僕も昔は色々とありました〜」


 と、おどけてみせるセンター長に、一丸は曖昧な笑みを返しながら頷いていた。渦中にいる人間に対して、そんな風に易々と過去を美談にしないでほしいという思いが、引きつった頬の裏側にくすぶる。そもそも自分が目指したい未来の姿が、目の前にいる男であるはずもなかった。


 その場を離れ、何気なく目に付いた錆だらけの放置自転車へと跨(また)がる。とりとめもなく考えが頭の中で渦巻いていたせいか、足取りは鉛のように重い。おぼつかない足つきのままふらふらと漕ぎ出し、通り沿いの木を危うくかわしたものの、その先の電柱にへばりつくようにして、ようやく地面に足を下ろした。

 すると通りかかった警察官が、不意に足を止めて自転車に視線を落とす。防犯登録の確認か。万事休す。

 そう一瞬ひやりとしたが、警官は何事もなかったかのように去って行った。


 --ざまあみろ。おれは捨てられたゴミ屑を再利用してやってんだ。


 再び錆びついた自転車をギコつかせながら夜の道を辿り始めた。

 少し酔いがさめたのか、街並みが急にだだっ広く感じる。信号を待つ人たちや、コンビニエンスストアから漏れ出る白い明かり、車道を走り抜ける車。そのどれもが、自分とは遠く離れた別の世界のもののようだ。以前はよく見かけた歓楽街の、私娼が立つ景色も見当たらない。これもまた何処ぞの浄化作戦の影響なのだろうか。街灯だけが密やかに浮かぶその余白は、少々寂しくもある。

 センター長が口にしていた心と体の病の話は、正直どこか他人事にしか思えなかった。医師はあくまで疑いがある、というだけだと、何度も念を押していた。

 ただ、風呂に入らないこと。爪を切らないこと。散らかった部屋のゴミを捨てず、カーテンも閉め切ったままにすること。郵便物には目もくれず、電話を無視し、人に会うのを躊躇(ちゅうちょ)して、誰も見ていないテレビの音だけを部屋に流し続けること。そんな小さな自傷の積み重ねによって、緩やかに精神がおかしくなっていくのだと聞かされた時は、妙に説得力があって、思わずぞくりとした。幾つか思い当たる節がある。

 けれど、そんなものはただの甘えであり、怠け者の人間が辿る末路に過ぎないと、冷ややかに割り切っている自分もいた。

 それはまさに廃人の生き方。

 人間の屑(くず)だ。

 自分は夜勤で生活のリズムが崩れているだけで、不規則な日々を送っていれば、誰にでもこのくらいのことはあるはずだ。

 センター長は高校時代からの付き合いで、大学を経て再会し、結婚まで果たした元妻へ、離婚した今も慰謝料を払い続けているという。


『よくできた嫁さんでね。ずっと釣り合ってないなって思ってた』


 過ぎ去った時間を愛おしむように語っていた言葉が耳に残る。

 長らく続く坂道を下りながら、『僕なんか、劣等感の塊でね』と自嘲(じちょう)したセンター長の顔が、一丸自身のことのように映った。

 ふと視線を持ち上げると、紺青の夜空に四つの小さな星が光を宿していた。


 --皆、どうしているだろうか。


 またあの四人で過ごしていた眩しい季節を思い出す。きっとこれは、センター長のせいだ。一人称を『僕』と呼ぶ人物に出会ったのは、あの頃の友人以来のことだった。

 坂道を緩やかに自転車を走らせていると、何か目尻のあたりから込み上げてくる感情があった。どうしても、幼馴染の面影が脳裏から離れてくれない。思い返せば、詩亜の弾くピアノの音をちゃんと聴いたことさえなかった。息を吸うように、物心ついた時から隣にいたのにも関わらず。

 一昨日から、何かがおかしい。ずっと過去に縛られている気がする。この前なんて詩亜の幻聴まで聞こえた。


 星を見るなんて、いつ以来だろう。


 赴くままに、抱えるやり切れなさを込めて、秋の大四辺形へ向かって唾を吹きかけた。だけど、唾はそのまま一丸の顔へと着地する。

 きたね、と思わずのけぞった瞬間には、ペダルが空回りして自転車が傾いた。そして投げ出された身体は硬いアスファルトへ叩きつけられる。

 上着のシャツは破れ、頬、両手、肘や肩まで、擦り傷だらけになった。転がった自転車に目をやると、チェーンまで外れている。

 もう、酔いが回っているのか、自分の狂った人生が回っているのか、その区別さえつかない。

 とぼとぼ歩き出すと、足元に転がっていた空き缶に靴が当たった。

 それを衝動のままに思い切り蹴り飛ばす。


 カラン、と路上を転がる音に、柄の悪いカップルの女が奇声を上げ、男が怒鳴ってきたが、「うるせえ!」と罵声で一蹴してやった。


 再び踏み出した足元に何かが触れ、今度は菓子の空き箱を無意識に踏んづけて進んでいた。

 そこで、ようやく気づいた。一昨日から続くモヤモヤの正体に。


 詩亜と恋人になった、高校三年のあの夏の夜。散々な思いをした花火大会の帰り道、学生寮へと送り届ける途中で、足元に落ちていた小さな紙屑を拾い上げたことがあった。そこで拾ったものの捨てる場所が見つからず困っていると、詩亜は『さすが丸ちゃん』と笑って、ビニール袋を差し出してくれた。


 あの頃の自分は、間違いなく真っ当に生きていた。記憶は鮮明に残っているのに、過去と今の自分が、途切れてしまった別人のように思えて仕方がない。

 気づいたら、雲がかった星々も、見えなくなっていた。


「ははは」


 ついには自分の笑い声にすら馬鹿にされてらあ。


 ――どうやらおれは、もう。


 詩亜の隣に立つにふさわしい男では、なくなってしまったみたいだ。

 ずっと、地面ばかりを見つめて生きていたくせに、今の自分は、踏み潰されたゴミ屑そのものに成り果てた。

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