97話
寝て起きて、身支度もそこそこに部屋を飛び出した。向かったのは、繁華街の賑わいから離れた小さな診療所。樹里に勧められた駅近くの総合病院は、どうしても気乗りがしなくて足を向けなかった。
予約した時刻から二十分ほど遅れて着いたものの、咎められることもなく診察室へ通される。混雑の中で体力を削られるのを避けた選択は、あながち間違いではなかったのかもしれない。
「随分とお痩せになっているけれど、昔からですか? 運送業のお仕事で夜勤が続いているようですが、生活も乱れがちですか?」
ひと通りの検査を終え、白髪の混じる女性医師が鎖つきの眼鏡を鼻先へ押し上げながら、問診票に視線を落としている。母親と同じくらいの年齢に見えるその人は、どこか案じるような硬い面持ちをしている。
「体重は、最近測っていないのでわかりませんが、トラックに乗るようになったのはひと月ほど前からで、長く勤めた会社を辞めてからは、半年以上こんな生活です」
「そうですか」
腑に落ちないといった調子で短く応じると、医師はペン先でこつ、こつと机を叩きながら、カルテを繰っていく。
気になっていることを正直に書きすぎたのかもしれなかった。家を出る前に抱えていた不穏な空気が、じわじわとぶり返してくる。面倒なことにならなければいいのだが。
「動悸や息切れ、日中に起き上がれないとありますが、これはいつ頃からですか? 今日、遅れて来られたのも、それが原因でしょうか」
「はい、すみません。見越して終わりがけの時間を予約したのですが、起き上がれなくて」
曖昧な笑みを浮かべると、医師は「わかりました」とだけ言い、それ以上は追及してこなかった。けれど、聴診器を耳から外しながら、ふと思い出したように言葉を添える。
「一度、心療内科で診てもらうといいかもしれませんね」
言葉の意味をうまく掴みかねたまま生返事を返した一丸は、その後に告げられた聞き慣れない病名を、頭の中で幾度も繰り返していた。そもそも、心療内科がどのような場所なのかすら見当がつかない。
病院の帰りは、大横川親水公園を当てもなく歩いた。夕陽に染まる遊歩道では、家路につく人々と何度もすれ違い、足下の落ち葉を踏みしめながら進む。
やがて見えてきた橋の下をくぐり抜けると、木々の隙間に広がる淡い陰の中に、缶ビールを片手にベンチへ腰かける男の姿があった。傾いた陽射しが、水路沿いに細長く照らしている。
一丸は、年季の入ったキャップを目深に被ったその男を気に留める風もなく、そのまま素通りしようとした。
けれど--「あれ、株田くん?」と、聞き覚えのある間延びした声が届き、思わず足を止める。




