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95話

 一丸は靴も脱がずに、しばらく玄関に立っていた。

 鍵を閉めると、それまで隣にあった声だけが、まるで最初から存在しなかったように消えてしまう。足は、ありったけの生気が吸い取られていくように、冷たい床にへばりついていた。

 静まり返ったダイニングへ足を運び、音寂しくてテレビを点けた。朝の情報番組から人の声が流れ始めてからだった。ようやく生きた心地がしたのは。


 --だから、言わんこっちゃない。


 樹里と話した昔話が、まだ頭の中を巡っている。

 過ぎ去った日々に想いを馳せたところで、救いなど何一つないと、とうに知っていたはずだった。残るのはいつだって虚しさだけだ。

 それはソリーの時もそう。どれだけ思い出に耽(ふ)けようと、抱え込んでいた気持ちが迷子になって、結局、心はあの頃に舞い戻る。

 中学の頃はよかった。

 社会の波に上手く乗れず、己の不甲斐なさに打ちひしがれるたびに、一丸は懐かしい景色へ逃げ込んでいた。けれど、そこはもう自分の居場所ではない。

 いつまでも青春時代を美化していること自体が、そもそも間違いなのかもしれない。

 中学の頃の記憶を辿っていると、いつの間にか、ふと高校の頃の影が混じり合い始める。そして高校の日々を思えば、自然とあの場所へ辿り着いてしまう。

 卒業式での浮き立つ同級生たちの声と、一人で家に帰った後に、静まった夜の公園で、矢刃たちに浴びせられた容赦のない暴力の感触。

 傷はもう消えているはずなのに、身体が痛みを記憶していた。

 そこからは坂道を転がり落ちるみたいに速かった。気づいた時にはもう、詩亜と別れたあの日の景色の中に立っている。

 誰の助けも求められなかった自分の小ささ。

 ただ詩亜を守りたい一心で、別れることしか思いつかなかった青さ。

 そして、最後に視線の残像として焼きついた、詩亜のあの表情。

 どれほど過去の道を遡ろうとも、最後に行き着く終着点は、いつもこの場所と決まっていた。


 ――もし、あの時。


 別れること以外に、何か選べる道はあったのだろうか。

 答えの出ない真っ暗な問いが、今も心のどこかで、消えずに燻(くすぶ)り続けている。

 あの頃の自分には、それ以外に術がないと思い詰めていた。矢刃たちの悪意が詩亜に向かう危険性があったからこそ、離れなければならなかった。そう信じていたし、今だって、そう信じようとしている。

 それなのに、ふとした瞬間に自分の心がわからなくなるのだ。

 あれは本当に、彼女を守るための選択だったのだろうか。ただこれ以上傷つくことを恐れた自分が、逃げ出したい一心だったのではないか、と。

 別れたあの日、いつも泣いてばかりいた詩亜が、最後の最後だけは、涙も見せなかった。

 さよならをした後は寂しいから、どこかで必ず振り返って手を振ろう。それはどちらからともなく決めた約束事だった。

 けれど、あの日だけは、どうしても後ろを振り向くことができなかった。

 もし一度でも振り返ってしまったら、二度と前へ歩き出せなくなってしまう気がしたから。

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