94話
だけど実際には、心を遊ばせていた。
樹里はいつだって、先輩はすごいっすね、と無邪気に持ち上げてくれる。悪い気はしない。それはきっと、『すごい』と昔口癖のように言ってくれた中学の友と過ごした、あの頃と重なるせいなのかもしれない。
話題の中心は、やはりあの劇場で過ごした月日のことだった。今、上演されている演目や、次に舞台へ立つ役者の噂――名の知れたミュージカルの聖地として長い時を重ねてきた場所だけに、語るべき物語には事欠かない。
ソーセージと卵を挟んだマフィンを頬張りながら相槌を打つ間も、当時の熱が記憶の中で、まだうっすらと燃えていた。
「ていうか、先輩って」ひと通り食べ終えた頃、少し間を置いて樹里が切り出してきた。
「何で定職に就かないんすか?」
「……また、お前は、唐突だな」
「劇場は給料安すぎでわかるけど、その次にやってた仕事、リフォームの飛び込み営業でしたっけ? 社内でトップだったんすよね?」
「その会社、悪徳会社だったからな。三十万円で済む工事を、百五十万円とかで売ってたから」
樹里の目が丸くなる。
「マジっすか」
「ひと月で班長になって、月の給料は百万。三か月で辞めたけど」
「ヤバいっすね。その給料は」
軍隊のような規律に縛られながら必死に営業したが、不釣り合いな数字の並ぶ見積書を見つめているうちに、阿呆らしくなったのが実情だった。
「先輩!」と言って樹里は満面の笑みで見つめてきた。
「やっぱ今日はゴチしてください!」
「最初からそのつもりだったろう」と苦笑いを向けると、「あざーす」と軽快な声が返ってきた。
本当のところは、財布の中身に余裕なんてなかった。その会社を離れてからも、営業の経験を頼りに三社、四社と渡り歩いた。けれど、どこへ行っても上下関係の厳しい軍隊のような社風は変わらず、結局、三日と持たずに辞めていた。それから今の仕事にたどり着くまでには、ずいぶんと長い時間がかかっている。
身の上話はその後も続き、仕事の話になるたびに、どうにも説明に困った。見栄もあったが、彼女と別れた理由を訊かれるのと同じくらい、答えるのが難しい。そんな一言や二言で簡単に言えるものでもなかった。
「――先輩。さすがにそれは彼女に振られますわ」
そんな言葉は簡単にやり過ごせた。けれど、
「深夜の配送なんて、墓場みたいなもんすよ」
この台詞は思っていた以上に、ぐさりときた。
店を出てからも、帰りが同じ方向なため一緒に歩いた。気づけば辺りは、とっくに早朝から朝へと様変わりしていた。街を行き交う人々の足音は、二人とは明らかに異なる軽やかなリズムを刻んでいた。
「じゃあ先輩。うち、駅あっちなんで」
おつかれと、互いに短い労いの言葉を交わしてから、樹里と別れた。




