93話
「株田くん、ちょっといいかな?」
少し寂しくなった頭頂部と飄々とした佇まいには、映画に出てくる役者のような味わいがあった。言葉を切り出す仕草までもが、どこまでもゆったりとしている。
「本部から連絡があってね。正社員の話、決まったよ」
「……そうですか。ありがとうございます」
「本来は三ヶ月の試用期間があるんだけど、働きぶりが評価されて前倒しなんだ」
一丸には短く生返事を返すのがやっとだった。
「それと健康診断書、まだだったよね。今月中に出してもらえるかな。株田くんは若いから心配はないと思うけれど」
言い終えると、缶コーヒーを飲み干したセンター長は、一丸の肩へぽんと手を置いた。よろしくね、と柔らかく残された声を連れて歩き出す。だが、数歩進んだところで、思い出したように立ち止まった。
「ああ、さっきの正社員の話、あまり重たく考えないでね。他にやりたいことが見つかったら、いつでも言ってくれて構わないから」
目元を緩めて笑うその顔からも、昭和じみた昔懐かしい温もりがじわりと伝わった。これこれほど人間味の溢れた大人に、これまで一丸は出会ったことがなかった。
「もちろん、うちとしては、君みたいな働き手をずっと歓迎するけれどね」
背を向けて去っていく後ろ姿を、一丸はしばらくの間じっと見送っていた。
伝票の整理を終えて事務所を出ると、廊下の壁に背をもたせかけていた小柄な女と目が合った。仕事用の制服はとうに脱ぎ捨て、大きめのバンドTシャツをだぼっと着込んだ私服姿だ。
「あ〜先輩! 何やってんすか、こんな時間まで」
女はあくびを噛み殺しながら、ひらひらと手を挙げた。
「センター長に捕まってた」
「うわ、お疲れっす」
「……というか。おい樹里。ここではお前が先輩だろ」
二人は前の職場で共に汗水流した、会社の同僚だった。当時の呼び方が抜けずにいるのは、劇場勤めの頃を、まだ引きずっているからだった。
「いいじゃないすか。うちにとっては、先輩はどこまでいっても先輩なんですから。それより……」
樹里がすっと顔を寄せてくる。
「先輩、何かあったんすか?」
「何だよ、急に」
樹里は「いや、まあ……」と言葉を濁しながら、まじまじと見つめてきた。
黒々とした髪と同じ色の瞳に、ひと時だけ吸い込まれそうになったが、その幼さの残る顔立ちとは裏腹に、耳たぶには幾つものピアスの痕が残っていた。昔、ヴィジュアル系バンドを夢中で追いかけていた頃の名残だと聞いたことがあった。穴を空けた分だけ心にも穴ができた――そんなことも本人が口にしていた気もする。
「いや〜、先輩はすぐ顔に出るから。悩みごとっすか? 何なら、うちが何でも聞きましょうか?」
後輩に弱みを見せるわけにもいかず、一丸はあえて気のない素振りで別の問いを投げかけた。
「ああ、そうだな。そういえば健康診断って、どこに行けばいいんだ?」
勘のいい樹里は、その一言で事の破片をすぐに拾い上げる。
「あ〜なるほど。先輩、もしかして社員に昇格っすか? 早すぎじゃないすか! さすが先輩っすね!」
適当に相槌を返しているうちに、樹里の交戦はさらに続いた。その勢いのままファストフード店でお祝いなるものまでやる羽目にもなった。配送の仕事先を紹介してもらった手前もあるが、一丸はどうにも樹里の押しには弱い。
そして気づけば一丸は、また過去の昔話に花を咲かせていた。
それはまるで、いつかの日か見た花火のように、儚く一瞬にして、消えてしまうものだとわかっているのに。




