90話
店を後にすると、外の空気は思った以上に冷たく澄んでいた。千葉駅へと向かう夜道の中でも、ソリーの饒舌さは止まらなかった。
そんなやんちゃな自慢語りを、右から左へと聞き流す。自分はまだ、眠りから覚めていないのだろうか。一丸はただ茫然と、ずっと夢の中に揺られていた。現実は虚構の中だ。
都知事が掲げた歌舞伎町浄化作戦の影響で、千葉の風俗店やキャバクラが煽りを受けているだとか、近く本丸の歌舞伎町で、派手なフィナーレを迎えるらしいという噂話も、まるで世界の裏側を知り尽くしているかのように語ってみせるが、どれも上の空だった。
もう帰りたかった。ソリーの誘いに乗った自分の選択にすら疑問を持ち初めている。今まで通り無視していればよかったのだ。
「シンナーなんて吸っちゃ駄目よ。前歯なくなるぜ」
と言う悪ふざけの警告も、ほぼ無視同然でスルーした。気づけば二人分の距離が開いていた。駅の明かりが遠くに見え始めた頃、背後からソリーの不満げな声が追いかけてくる。
「たく、丸ちゃん。またノリ悪くなったんじゃん? 大丈夫か? それに少し痩せたろ、まだ筋トレしてんの?」
お前に言われたくないし、お前の方がやつれている。ちらりと後ろに目をやると、むしろソリーの浅黒い顔立ちや痩せた肩の落ち具合の方が、どこか危うい雰囲気を漂わせている。余計なものを抱え込んでいるのではないかと心配にさえなる。
「どうしたんだよ? 丸ちゃん。機嫌直せって。ああ、わかった。女だろ? また女と別れたんだな」
酒が入ると、いつもこの話題へ流れ着く。昔から一丸は、別れた相手を軽んじるような男連中の言い草が好きになれなかった。それに、何を言葉にしてみせたところで、最後には大概、自分への嫉妬へと変わっていくのが目に見えている。
横に並んだソリーが、べったりと体を寄せて肩を組んできた。
「ほらほら、今まで付き合った女の尻の穴の形でも思い出してみろよ。少しは気持ち晴れるからさ。丸ちゃんなら、十か? 二十人か?」
ふざけた調子で言われるからこそ、かえってたちが悪い。でもそれよりも、ソリーに言われたことを頭の中で思い浮かべてしまい、がんじがらめに凝り固まった脳みそが、瞬間ほんの少しだけ解けた自分に、重苦しい嫌悪感を覚えた。
赤信号の前で立ち止まると、ソリーが「吸う?」と軽い手つきで一本の煙草を差し出してきた。断る理由も思い当たらず、一丸はそれを静かに口にくわえる。
ソリーがライターで小さく火を点けると、煙草の先端がぽっと赤く燃える。横断歩道の向こうに見える信号の光が、煙の向こうで揺れていた。
また取り返しのつかない一日を費やしてしまった--
そんな悔恨と共に煙草へ手を伸ばそうとした時だった。三車線の道路を挟んだ対岸の信号の下に、人影が立っているのが目に入ったのは。
見覚えのある立ち姿に、背筋をすっと冷たい線が走る。気のせいだろうか。
確かめようと目を凝らした瞬間、澄んだ女の声が通りを渡ってきた。
「煙草、吸っちゃ駄目ーー!!」
何か、懐かしさ漂う響きに、体が金縛りに遭ったように固まる。
だが、もう一度視線を凝らした時には、白い煙の揺らぎの中に紛れ込み、その輪郭さえ見失っていた。
切り替わった信号に従って走り抜けていく車のヘッドライトが、幾度も視界を白く切り取っていく。
光が過ぎ去った後の横断歩道には、すでに誰も立っていなかった。
一丸は思わず問いかけていた。
「いまの、見えたか?」
「あ? 急になんだよ」
「いたろ。いま、向こうに女が」
「はあ? 女あ? そんなのいたか?」
酔いの中にいる男に尋ねたこと自体が間違いだったのかもしれない。続いた「どうせただの酔っ払いでしょ」というソリーの言葉すら頼りなく思えてくる。
さっき目の前に立っていたのは、間違いなくあの--いや、ただの幻影か。こんな場所にいるわけがない。
まとまらない思考の隙間から、くわえていた煙草が、音もなくアスファルトへ落ちていった。
「なんだよ。吸わないなら言えって、もったいないだろ」
ソリーがそれを拾い上げ、気にも留めずに自分の口へと運ぶ。
「まあ、どえらいべっぴんさんだったけどな」
すぐ隣では、ソリーが下卑た笑みを浮かべている。
「丸ちゃんが泣かした女なんじゃね? いいね〜。色男はモテて」
ソリーは、羨ましいわ、と呟いてから大きく煙を吐いた。
実に不快な匂いだ。
ねっとりと、脂ぎった顔に纏わりついてくる。




