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88話

 ふと顔を上げれば、窓の外の空はゆっくりと色を失っていた。沈みゆく陽の光と歩調を合わせるようにして、静かな寂しさがじんわりと、かさついた心へ染み渡ってくる。

 今日もまた、取り戻せない時間をやり過ごしてしまった。朝方に眠りへと逃げ込み、目が覚めた時にはもう、一日の大半が陰りの中に消えている。そんな日々をここ一年と数ヶ月の間、一丸はどこか怯えるような心地で、幾度となく反復していた。

 頭がうまく追いつかない。アラームはしつこいくらいに鳴るようセットしてあるはずだった。もしかすると携帯電話にすら、愛想をつかされてしまったのかもしれない。


 部屋の薄暗さに目が慣れはじめた頃、枕元で端末が鳴った。光る画面に浮かぶ『反園(そりぞの)』の文字。反射的に手にした受話口へ二言三言の返事をして、急かされるように身支度を整えてから部屋を出た。


 錦糸町駅から乗り込んだ下り列車は、帰宅ラッシュの熱気で混み合っていた。秋だというのに車内は蒸し暑く、握りしめた吊り革が、じっとりと手に張りつく。

 人の息遣いがあちこちから聞こえてくる。誰かの肩が触れ、また離れる。そのたびに、一丸は目を閉じた。眠っているふりをして、そこにいないことにした。




「何だっけ? 今、丸ちゃんがやってる仕事って」


 待ち合わせた居酒屋で、ソリーが気怠そうに投げかけてくる。


「あー……営業だったっけ? まだやってる? 劇場の仕事辞めた後にやってたよね?」


 答えを待つこともなく続けるソリーに向かって、やめたと一丸は端的に返した。


「今はコンビニとかに商品を届ける、配送のトラックに乗ってる」


「へ〜。もしかしてそれでウーロン茶? 飲酒運転しかしてなかった丸ちゃんが?」


 眠たそうでいて、人を食ったようなソリーのふにゃふにゃした話し方に、懐かしさを覚えた。窓の外を少し見下ろせば、千葉駅の繁華街の中心、親不孝通りを歩く若者たちの姿が映る。辺りはすっかり夜だった。


「黒歴史を思い出させるなって」


 専門学校に入学して間もなく手に入れた一丸の愛車は、夏を待たずにして廃車になった。赤信号で止まっていた前の車に、追突してしまったのだ。

 ソリーは冷えたビールジョッキを傾けながら、身を乗り出してくる。


「ていうか、かなり久しぶりじゃない? 丸ちゃんと飲むの」


 言われてみれば、こうして顔を合わせるまでに随分と時間が空いてしまっていた。あの頃は朝まで酒を酌み交わしていた。それも週に一度のペースで。


「丸ちゃん電話ぜんぜん出てくれないし」


 皮肉混じりに詰めてくるところも昔と変わっていない。けれどその風貌は少し違って見えた。顔色の悪さこそ昔のままだが、高校時代のライオンヘアはすっかりなりを潜めていた。柔らかなミディアムヘアには緩めのウェーブがかかり、細いフレームの知的なメガネまで掛けていた。


「ヨン様かよ」


 思わず突っ込まずにはいられなかった。当人もそれを待っていたかのように、「アニョハセヨ」と言って笑った。

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